2013年6月 Archives
チェルノブイリ原発。「廃炉 27年手つかず」が今日の朝日の1面である。(6月22日)
どうやら100年はかかるようだ。そんな原発が地震国日本には何十発もあるのだ。株主総会で脱原発を発言しても村(ムラ)の仕組みには到底太刀打ちできない。まずは選挙民に時代の想像力が欠如している。自分さえよければと思うトップやボス、官僚の想像力や倫理も貧しい。自分の生命も危ういのに、自己と向き合うことがない。実は「自己への配慮」が省みられないからこそ、かくも、当座の、ムラの利益優先の政策が成立するのだ。馬鹿だなあ、と思う。下の絵は朝日の第2面だ。原発を蔽う石棺が崩れ始めてきたので新しいシェルターを製作している写真だ。これが皮肉なことになんとも美しい絵だ。
(EOS5DMK2/アンジェニュー35-140mm TYPE LA2)
同じ紙面に「ひと」のコラムは松本清張賞を受ける55歳の「食堂のおばちゃん」の話です。副賞500万。食堂スタッフとゴージャスなレストランに行くのだそうだ。こちらはイイ話だ。記事はここに文字が読めるようにPDFにしています。
リーダーで60%ぐらいの大きさで読めます。
以下は、フーコーコレクション第5「6性の選択・性の行為」J・オヒギンズとの対談。読んでみてください。僕の感想は無し。あなたの知で感じてください。
― 同性愛者について階級意識を云々するのは正当だとお考えですか。未熟練工や、一部の国ぐにおける黒人などと同じ資格で、自分たちがひとつの階級に属していると考えるよう同性愛者たちを奨励すべきなのでしょうか。あなたは、集団としての同性愛者がもつべき政治諸目標は、どのようなものであるべきだとお考えなのでしょうか。
第一の質間にお答えして、同性愛者であるという意識は、たしかに、個人的な体験を超えるものであり、特定の社会集団に帰属しているという自覚を含んでいると申し上げておきましょう。これは、とても古い時代にまでさかのぼれる、否定できない事実です。もちろん、同性愛者たちによる集団意識の自覚、この自覚の現れ方は、時代とともに移り変わり、場所によって異なるものです。たとえば、その意識は、種々の機会に応じて、一種の秘密結社に帰属するという形態や、呪われた種族に帰属するという形態や、特権的であると同時に迫害された人類の一部分に帰属するといった形態をとったのです――ついでに申し上げるならば、同性愛者たちの集団意識は、まったく非執藤労働者の集団意識のように、数多くの変更をこうむったのです。一部の同性愛者たちが、もっと最近になって、政治のモデルにならいつつ、ある階級意識を作り出そうとしたというのは事実です。私の見解は、政治上の成果がいかなるものであれ、それは本当の成功とは言えないというものです。というのも、同性愛者は社会階級を構成してはいないからです。これは、同性愛者が社会階級を構成できるような社会システムを想像することができない、という意味ではありません。しかし、現行の社会的-経済的組織様態においては、そうしたものの輪郭が現われつつあるとは思えないのです。
同性愛運動の政治目標については、二つの点が強調されるべきでしよう。まず第一に性を選択する自由をめぐる問いについて考察しなければならないという点です。私が言っているのは、あくまで性的選択の自由なのであって、性行為の自由ではあ。ません。というのも、強姦のような一部の性行為は、男女間であれ、男どうしであれ、許されるべきものではないからです。われわれは、性の分野において、一種の絶対的な自由を、完全な行動の自由を目標としてもつべきだとは思いません。その半面、性的選択の自由が問題となっているところでは、われわれは妥協してはならないのです。性的選択の自由は、その選択を表現する自由も包含しています。ここで私が言いたいのは、性の選択を表現する、あるいは表現しない自由のことです。たしかに、立法については、この分野において相当な進歩が達成され、いっそう大きな寛容へ向けての運動がはじまっています。しかし、なすべきことはまだ数多く残っているのです。
第二に、同性愛運動は、性的選択や、性的行動や、個々の人間の性的関係の諸効果が、ある社会においてどのような場を個人のうちに占めるかという問いを立てるということ、これを目標として引き受けてもいいでしよう。これらの問いは、根本的に難解なものです。たとえば、ポルノグラフィーをめぐるあいまいさ、あるいは同性間関係を規定する法的資格の問題がかくも明断さに欠けているという事実を見てください。同性愛者どうしの結婚に関する立法が目標であるべきだと言っているのではあ。ません。そうではなく、個人どうしの関係をめぐる一定数の関係をいかに社会的かつ法的な枠組みのなかに組み入れ、認知させるかという一連の問いがここにあり、それに対して解答を見いださなければならないということが言いたいのです。
直島に向かう旅の途中で宿を決める腹づもりでいた。GMOのWiMAX MobileCube接続サービス (ホワイト)で。ところがそうはいかなかった。そのメモ。
①山陽新幹線内で通じない。
②直島も一部を除いてエリア外。海上もエリア外。特にベネッセ付近は放置されている。以下のごとし。(拡大画像あり)
瀬戸内の直島に行く。ベネッセハウスミュージアム=『国吉康雄展』(3.20-6.9)。会期末ぎりぎり。島内に泊まる予定でキャリングケースを引いたまま美術館に。安藤忠雄設計のこれも半地中型の建物。よくできてる。中にトイレもある。
『国吉康雄展』のパンフは折りたたみ、なのだ。ふつうはペラものですよね。これは斬新。表は「ミスター・エース」の顔の部分だけ。開くと全身サイズがある。
(NEX-7/E2.8/20/PhotoshopCS5.5)
絞り3.2です。E2.8/20のボケ具合が確認できます。
さて、国吉。「ミスター・エース」の全身像。
総じて戦後の作品が好みです。ライカで撮ったスナップもある。イーゼルやらロッキンチェアなど彼が使っていたものも。よく蒐集したものだ。気付きを2,3。
①週末に宿を決めずに島に乗り込むのはいけない。民宿はおおむね相部屋だ。
②フェリーや渡海船の時刻表を持つべし。「なおしまエリアマップ」を宇野港でもらえる。
③ロードマップ的行動に興味がないお方は大きい荷物は持たずに島に入る。ただし美術館にはキャリングケースも入るコインロッカーがある。
(誰もいない茶屋駅ホーム/NEX-7/E2.8/20/PhotoshopCS5.5)
せんだって石橋美術館の「美へのレッスン」に出向いた。同館所蔵の定番の作品もあるがもちろん初見のものにも出会う。
古賀春江にも初見のものがあった。別館の江戸ものはほとんどがそう。会期末だったので思い切って足を運んだのが幸いした。(西鉄久留米駅/NEX-7/E2.8/20/f8/PhotoshopCS5.5)
アンジェニューの16mm映写用ズーム(TYPE10/F9.5-90mm 1:2.2)です。ライカマウントに改造してます。
そのTYPE10で撮った純米吟醸「玉乃光」。「玉乃光」といっても数十種類もあるようで正直なにがなんだかわからない。わかるのはたしかに辛口ってことくらい。
酒屋で尾瀬あきら「夏子の酒」のコピーの脇に置いてました。それで買ったわけです。たぶんこのシーンです。
さて、レンズTYPE10の絞りはアバウトです。実物に刻みがないので。テレ側(50mm付近)の推測絞りF8あたりのものをもう一枚。雰囲気は僕の好み。