2018年3月 Archives

α7sとエミールブッシュ NEOKINO 65mm。M42改造。



















ライカミニルックス

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3月29日。クレーンは県立図書館。α7sとライカミニルックス抽出のズマリット40mm。



















3月29日。α7RとANGENUIEUX_ZOOM 35-140mm。使用アダプタは17-31mm。色補正なし。この組み合わせは初めてだ。



















3月28日。所用で出る。PM2.5は30-35。OXは0.049-0.054。11時から12時の間。
α7sとフジカ35EE抽出のフジノン45mm。M42改造。



















α7sとフジカ35EE抽出のフジノン45mm。M42改造。
最初の絵でわかるがこの日(3月25日)PM2.5は当地で60μg/mを超える。
今現在もオキシダントが危険値で喉がいがらっぽい。引きこもって3日目になる。花のことも知らず。









α7sとAGFA COLOR=AMBION 1:4/35。















池澤夏樹=個人編集の日本文学全集30巻のリストです。石牟礼編の末尾からスキャンさせていただきました。(PC・タブレットの拡大画像でどうぞ)
古典は新訳。「古事記」は池澤自身の訳。芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫がないのは驚きだ。個人編集だから「異色」の作家もいる(だろう)。
もう10年若ければ、取り組めるかもしれぬと思う。と、言いながらも嘘ゆうな、の声も内部にきこえる。
本を読む営みが必要不可欠という日常を生きる「人種」が少なからずいる。棲息してる。池澤=日本文学を現に読んでおられる方に会ってみたいものだ。

3月23日。昼頃。α7RとCarlZeissイエナ5cm_F1.5。
特徴のあるレンズ。知人工房のEマウント改造。
①F4辺りからは恐ろしくシャープ。F5.6に絞らずとも遠景がいける。第一、F5.6からF11までの幅は狭い。F2からF5.6ですべてまかなえる。懐の深いレンズ。
②前ボケに特徴あり。
③α7Rでは好天では周辺落ちが目立つ。α7sのほうが相性がよい。もっともこれはレンズの責めではない。デジタルカメラ側のこと。













3月23日。午前9時から約一時間。α7R+STOKアダプタ+キヤノンEF24-70mm。MF撮影。
咲き始めの、すきま桜。透き枝。これを偏愛する。



















キヤノン EF24-70mm

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3月22日、晴れる。午前9時。EOS5DMk2とEF24-70mm。
ウチの近くはまだこんなものだ。









雨、しかも寒い。傘影入りの桜。α7sとライカミニルックス抽出のズマリット40mm。









3月16日の「徹子の部屋=角野卓三」。食事しながらみていたら、著作『予約一名、角野卓三でございます。』の話に。
これは、京都で一人泊まりができる宿のことだ、と早とちり。ネットで注文。昨日届く。が、これは宿ではなく、太田和彦と同じグルメ本だった。気落ちするが、まあ仕方ない。
開くと、食べ物のシャシンに僕と似た絵作りがある。たとえばこれです。食べ物のまんなかにピントがあって周囲はぼける。α7sとライカミニルックス抽出のズマリット。40mm F2.4。





次のは僕のグルメ。角野本とは無関係。茹で上がりの大村湾のタコ。タケノコは頭を出すと猪にやられる。しかしざまみろ海にはもぐれまい。プリプリしていてホントにうまい。いい塩梅に山椒が芽吹くのでぬたで食す。猪って山椒は食らうのだろうか?



以下は先日の食べ物屋さんで。











この一枚だけは、一切れ食して、しまった、とカメラ出し。



僕はほんに食べ物に「いやしか」ニンゲンです。これはもう本性でして。お口が慎ましい上品なかたには敬服します。
α7sとライカミニルックス抽出のズマリット。40mm F2.4。



だが部分を撮るのが好きです。記録ではあるがアタマのなかは美に支配される。







LEICA Hetor 7.3cm

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α7sとヘクトール7.3㎝。3月18日。散歩道の桜はまだ咲ききれないでいる。これはヨシノではなく異種の花だろうか。(不明)









桜 ヘクトール7.3㎝

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α7sとヘクトール7.3㎝。3月17日=午前中の桜。午後は開くかもしれない。ぐっと寄れるのはM42中間リングの成果。(知人工房製)









コンタックスT3抽出=M42改造Sonnar35mm。α7s。
最初の絵。お店が仕舞えたのだ。県央であちこちに出しては消えていった。当初は味も僕の好みでよく利用していた。最後に出店したここは、数年前からバイキング様式になって、ああもうダメだなあ、と内心思っていた。
厨房の調理道具が残されたままの店内。こんなのはグッとくる。



このシーンでは立位で撮影するのは勇気がいる(目立つ)。滅多にしない。









それにしてもいいレンズだ。
工房の知人と知り合ったころから使っているレンズ。固定絞り。デジカメの時代だから、たとえば風景用に絞られていてもうまく付き合える。7sでも7Rでも使ってきたし、風景にもブツ撮りにも重宝してきた。
「断捨離」を大きなテーマにして心して生きてゆこうぞ、などとクチでは大それたことをノタマう。ゆうだけはタダだから・・。実際かつ本格的に「断捨離」に舵を切ったとしても、いくつかのレンズはずっと残るだろう。そんなレンズを代表する一品だ。
知人自身が、彼の知り合いから水没したコンタックスT3を得て、それから抽出したものだ。それを知人は、代金も受け取らずに僕に持たせた。

そろそろ桜の開花だ。
今年はどれどれのレンズを使うか、すこしばかり悩む。
α7sとEマウント改造のCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









さてこれはくだんの池澤選=日本文学全集「石牟礼道子」。完本「春の城」と併読することになる。期日までに返却できるか。

CarlZeiss Jena Sonnar 5cm F1.5

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α7sとEマウント改造のCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









α7sとコンタックスT3抽出レンズSonnarで撮った今朝(2018/03/13)のヘッドライン。



されど僕に大事なのはこちら。千葉雅也の論攷が目に留まると(コラムの類も含め)すべてチェックします。
いまをときめく(もはやそうではないという声もあるが)「思弁的実在論」をこのコラムで理解するのは少し酷だが、いいコラム。とはいえ、メイヤスーやガブリエルの論旨までは知り得ない。それはやはりそちらにあたるしかない。

α7sとEマウント改造のCarl Zeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。









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池澤夏樹の筒井康隆に関するコラム。3月10日の朝日。
あけて翌3月11日はフクシマから7年となる日。当地の県立図書館に池澤夏樹個人編集の、「日本文学全集24=石牟礼道子」の借り受けを依頼する。
下の絵は900ページもある分厚い『春の城』を庭に置いて。いま100ページを過ぎたあたり。当地はうららかな春日である。

α7sとEマウント改造のCarlZeiss Jena Sonnar 1:1,5 F=5cm。
少し絞ると、どこまでシャープなんだと思わせる。F4と5.6の間くらいか。



いつものクセで、食べ始め飲み始めして、あ、シャシン。うしろに引けず、のけぞって撮る。中央ピント以外は全部ボケている。これでF2くらいかな。そいでもシャープなんですよね、これが。







そうかやはり「版権」がネックなのか。
フーコーは1984年に死去しているから、34年ぶり。ともかく、ついに、出る。

クリント・イーストウッドって老いないのよね。

E 2.8/20mm NEX-7。





ぬたで食す。春だ。自然光。



届いたぞ、『春の城』。
E 2.8/20mmは周辺が落ちますね。今更だけど。

α7sと赤玉。
ん? 赤玉って?
知人工房製のコレです。



ハイペルゴン風の作りですが異種のレンズを組み合わせています。M42マウント。画角は60-70mmくらいか。リバース使用ができます。こちら=フォワード側で開いて撮影すると、芯のあるソフトフォーカス仕上がりになります。
こうしたアイテムを遊び心で作る幸福感は技術者の脳内にしか宿らないのでしょうね。周囲は脱帽するのみ。組み合わせは(アレンジメントは)無数にありますから出現する脳内ドーパミンも差異があるのでしょうねえ。
ま、それはさておき作例。リバース側からです。







いっぽう最初のフォワード側のソフトフォーカスというのはこんな感じです。

α7R NIKKOR-H・C 1:2 5cm

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α7RとNIKKOR-H・C 1:2 5cm。









朝日2018/03/04_Sun.の「ひもとく」。

E1.8/35 NEX-7

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NEX-7 E1.8/35 OSS。





3月弥生。折々のことば。田中美知太郎。
田中美知太郎は、僕が20-30代の当時、2018年現在立花隆が務めてる文藝春秋の巻頭言をやっていた。義父が購読していたのでときたまに妻の実家で読んでいた。
僕自身の出会いは高校時代(たぶん1年か2年)。岩波の哲学講座。いきなりプラトンがでてくるあれだ。
1948-49年生まれの高校生はみなが(女は除く)「三太郎の日記」やら「出家とその弟子」やら藤村操の「巌頭之感」にかぶれていた。中身にリアリティを感じるのではなくバンカラ気分。懐かしい、というのも恥ずかしい。
流体力学ではギリシャ文字変数がオンパレードだ。僕は工業高校にいて、おまけに誘われてバプテスト教会にまで行ってたから、アガペーは、アルファ、ガンマ、パイ、イータの組み合わせで字面(じづら)を読めた。だから岩波講座の田中美知太郎が鉄砲玉みたいに繰り出すギリシャ単語にも、見様見真似のアプローチをしたものだ。それなりに、ですよ。
一般的に言えば17歳に、「言説」の理解を期待することじたいが無理なんではなかろうか。彼らには単語(用語)をもてあそぶのが関の山なんです。



あ、そうだ。藤村操で思いだした。文藝春秋の3月号の「自裁死・西部邁は精神の自立を貫いた」で保坂正康はこんなふうに言っている。

「日光の華厳の滝で自殺した藤村操、芥川龍之介、光クラブの山崎晃継、そして三島由紀夫と、近代日本には、新たな時代を開いた自殺の歴史がありますが、西部さんの死も、この歴史に連なる自裁だったと僕は考えます。」

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