2012年6月 Archives

アナイス・ニンを読んでいる。
『インセスト』無削除版。(杉崎和子訳 2008 彩流社)



(NEX-7/アンジェニュー 17-68mm TYPE L1)

自己を語ることに執着すれば、
究極はこういうことになります・・
しかし、
出来事は「アイオーン」であり、日記といえども
現実そのものは取り逃がすしかありません。
過剰なレトリックがあるのかもしれない。
事実かどうかはこのさい重要なことではない、
とも言えるでしょう。

生涯にわたって日記で自己言及をし続けた女性。
独特で、似た女性を思い浮かべるのはちょっと難しい。
精神分析の「症例」としてはありえるか。
フロイトとユングの間にいたザビーナ・・のような。
実際に、アナイスはオットー・ランクの分析を受け、
彼とのあいだに「関係」もあった。

アナイスの「過剰」や「横溢」それに「確信」には
常軌を逸するものがあり、精神分析的な
アプローチができるものだと考えられる。
思えばアナイスは僕たちに分け持たれたものでもある。
僕たちもまた彼女に分有される存在なのだ。
私たちは身体と精神について何も知らない、と
改めて観念することになる。
そそられる箇所は多いものの、
冗長で少々退屈することも否めない。
でもまあ、すごい。(笑)

文化や時代の違いもありましょうが、
なによりあれらは「生来」のものです。
個体の身体や情動にかかわる運命、事件です。
そうアナイス・ニンの血と骨です。

僕はフィッツジェラルド=ギャツビーのような
馬鹿騒ぎ・空騒ぎ系が苦手なのだ。
「残余」もへったくれもない空虚な後味の悪さが
いやでしてね。何かが損なわれる。
『インセスト』もそうだと決め付けるわけではないが、
どうかなあ、僕は途中でやめるかもしれない。
と、そういいつつも
最後まで付き合う勢いではあるのだ・・。

NEX-7 動画

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NEX-7/アンジェニュー 35-140mm TYPE LA2の
動画です。わずか15秒です。
ピントは漁船のランプシェードです。
35mm側/F8で距離は3メートルくらいですかね。



NEX-7 35mmシネ・レンズ

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35ミリ映画用のアンジェニュー、
アンジェニュー(Angenieux )35-140mm TYPE LA2を
NEX-7で使うこと。
そのことで少し説明をいたします。
まず以下の画像をごらんください。



映画用の2コマが、35ミリ判フィルム写真の1コマ、
ということが分かると思います。
コマの向きやサイズの関係は図のようになってるのです。
いわゆるライカ判(35ミリ判)の写真は、
映りの実面部分は36mm×24mmです。
(「35ミリ判」の《35》はフィルム自体の幅のことです)
映画は24mm×16mmになります。(向きは逆)
つまり昔のハーフサイズなのです。
ハーフサイズこそがシネマの標準なのです。

もうお気づきでしょうが、
シネマ24mm×16mmはAPS-Cのサイズとほぼ一致します。
次の図(Wikiからの借り物を修正)を見てください。


NEX-7は23.6mm×15.7mmです。
TYPE LA2は35ミリシネ用レンズで、
そのシネ・レンズはハーフサイズ向きだから
NEX-7ではピタリとくるのです。
逆にフルサイズではケラレが生じます。

さて。
アンジェニュー(Angenieux )35-140mm TYPE LA2は
アリ(Arri)マウントなのですが、
僕の個体は、M42に改造されています。
情報が極めて少ないレンズです。収集中です。
1960年代、フランス映画全盛期のものだと
想像はしますが・・。
eBayでM42-NEXのアダプターを購入。
$9.99 USD。¥815 JPYです。
AIR MAILで2週間ほどして着きました。
(それで815円ですから安い)
もくろみは、35ミリ映画用の
アンジェニュー(Angenieux )35-140mm TYPE LA2を
APSサイズであるNEX-7に取り付けること。

映画は35ミリフィルムを縦送りに作られてますよね。
いわゆるライカ判はフィルムを横に使っています。
TYPE LA2の映画用レンズをAPSサイズで使えば
映画用カメラで撮ったような動画ができるはず、と
考えますよね。
フルサイズよりAPSにこそマッチするレンズなのだ。
これまでEOSMK2で周辺が暗くなる動画を撮ってましたが、
(それを愉しんでいたのではあります)
NEXではフツーに「シネマ」が撮れる、
と計算していたのです。
結果は、まさにその通りでした。
NEX-7に取り付けた状態です。(拡大画像あり)



さっそくピント合わせの練習。
映画用レンズは扱いが面倒で、
ズームとピントに手が4本必要です。(笑)
75mmあたりF5.6。1.5-5mくらいの範囲です。
予想通り、シネマ風の動画が取れます。
TVの音が入ってますね。(笑)



アダプターは、FOTGA M42-NEX というもの。
香港からの航空便。運賃5ドル。
するとこの本体は約5ドル。400円。
Rayqual(東京:宮本製作所)では本体15000円です。
この差は、たとえモノの程度が違うと説明されても
ちょっとねえ。日本が負けるわけだ。
RayqualはEOS用をLRとM42を使っている。
M42用はカシメが強すぎる。
いい、という評判だけをアテにはできない。

アナイス・ニン

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キキやココ・シャネルとならび、
「25人の恋人たち」(1985年10月 「ユリイカ」)には
アナイス・ニンも登場する。書いたのは秋山さと子だ。
そのアナイス・ニン特集『水声通信』no.31の
ヘンリー・ミラーとの往復書簡を読んで
よほど購おうかと思った。
ここに水声社の目次画像があります。


先の秋山さと子の内容も興味深いが、
『水声通信』no.31のふたりのやりとりにそそられた。
表紙もいいしね。(検索すれば出ます)

さて。
この日はⅢfにトライXをつめて、
ヘクトール28mm/Hektor 2,8cm 1:6,3を取り付けた。



(NEX-7/アンジェニューAngenieux 28mm)

ヘクトール28mmもバルナックに付ければ安心して(!)
使える。(M5に付けると距離の刻みが実際と合わない)
室内でもF6.3で1/15秒で撮る。

表紙、っていえば、ジュンク堂でNEX-7を使って
遊びました。



一番下、諏訪敦の『どうせなにもみえない』のモデル。
これは松井冬子そのひとじゃないかな?
中身はみてないけど・・。
結局この日は「現代思想」6月号を購って帰る。
特集「尊厳死は誰のものか」。

大村市 白鳥の雛

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白鳥の雛、その三日後。
NEX-7/ヘクトール28mm/Hektor 2,8cm 1:6,3です。
ライツの1937年のレンズです。
周辺光量が落ちます。モノクロ動画。約2分。
途中からは腕を出してノーファインダで撮る。
パパはさっさと行ってしまうが、
ママは雛に合わせてゆっくりと。さすがだ。



(備忘メモ)
NEX-7はAVCHDなのでそのままTVでも見れる。
動画はAny Video ConverterでNEX-7のMTSファイルを
384x216に手動指定でFLVに切り出した。
輝度-5 コントラスト+20 彩度-100で処理している。

午後6時半です。
残った卵は孵化しないのでしょうね。



大村市 白鳥の雛

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家の近くで、コブハクチョウの母子。
1分ちょっとのFLV。ご賞味あれ。
自身は雛をみるのは初めてです。




(備忘メモ)
EOS5DMk2/アンジェニュー/Angenieux/35-140mmTYPE LA2。
Any Video ConverterでEOSのMOVファイルを
カット編集後セグメントを作成。そのセグメントを
384*216に手動指定してFLVにエンコード。
この方法がもっとも簡単か。

ちなみにこの雛のパパです。
うしろにまだ卵があるのがわかります?



駅、空を飛ぶ夢

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シャシンは13:30博多発東京行き「のぞみ」。
阪急博多=鼎泰豐から見た風景。
散見する点光源は室内灯の反射。
NEX-7/ヘクトール28mm(Hektor 2,8cm 1:6,3)です。
周辺光量がガクンと落ちます。

駅や空港は文句なしに好きです。
寓意の宝庫です。シニフィアンが連鎖する場所です。
思いつくままのイメージ(連想)は、
離脱。新しいトポス。飛行。発見。現在と過去。
惜別。恋人。性愛。不安。再生・・・。

空を飛ぶ夢を見たことがない、というヒトは
少ないのではないでしょうか?
僕は若いときから何度みてきたことか。
フロイトはそれを「タカイタカイ」の記憶と
考えたそうです。(新宮一成「夢分析」)
新宮一成は人生の新しい段階にさしかかるとき、
とみています。そうかも知れません。

そういえば、「マイムマイム」の哀切も
僕にはおなじ場所のような気がします。
あれら、「コロブチカ」や「オクラホマ・ミキサー」の
メロディには転調(移調?)の箇所があります。
またテンポが急に速くなったりします。
転調は離脱であり飛行そのものともいえましょう。
飛行が安定せず、地上に落ちてしまいそう・・
そのとき夢の中では「テンポ」を上げようともがきます。

「タカイタカイ」の喜悦はいつまでも続くものでは
ありません。強制終了の不安があります。
好きな女の子はダンスの輪のずっと向こうにいる。
それらは哀切なイメージです。

ヒトであるかぎり分有してしまう属性があります。
駅にも「マイムマイム」にも連綿と続くシニフィアンが
存在するのは当然で、類型的ですらあります。
映画や歌に繰り返し出現する駅、空港。
50年経っても学校で続けられるフォークダンス。
少々クリシェに過ぎはしても、
そこにはニンゲンであることはやめられないという宿命が
襞の中に織り込まれていることを示しています。

マイムマイム

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今朝の朝日の「be」の記事。
胸騒ぎする哀愁の音楽 「マイムマイム」。
なるほど。
マイムマイムはユダヤ音楽なのですね。
「マイム」はヘブライ語の水だそうで。
イザヤ書からきている、と。ふむふむ。

僕たち団塊の男は小学生のころから
運動会ではフォークダンスをやらされた。
フォークダンスは切ない、これは多くのヒトが
共有できる情念だろう。
それは多くのヒトに分有される属性だからでしょう。
好きな女の子が輪の向こう側にいる。
とても「まわってきそうにはない」・・いやはや。
ちょっと調べたら
今でも多くの学校の体育祭・文化祭でやってんですね。
大人もやってます。痕跡的な属性ですな。
よくわかります。

youtubeのこれがとてもいい。
敬意を表して再掲させていただきまする。



ね。けっこういいでしょ?
女子ならではですねえ。
なかなか受けますこれ。

せっかくですから、フォークダンスといえば
「コロブチカ」や「オクラホマ・ミキサー」てのも
ありますね。それをmp3でどうぞ。
この際おおいに切ながりましょう。

まずはコロブチカ。



次はオクラホマ・ミキサー

国体道路。天神南からキャナルあたりまで。
この路線はあまり使わないのだが。
途中、春吉橋で「ウコンの力」を入れようとパン。(笑)
だがうまく入ってない。
NEX-7/ヘクトール 28mm/ Hektor 2,8cm 1:6,3です。
コントラストを少し。



博多阪急の鼎泰豐も1時半を過ぎると空いていた。
デザートに「仙草ゼリー黒蜜きな粉」を試す。

深瀬昌久逝く

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深瀬昌久が逝った。
惜しい作家です。
写真家の属性・様態に興味がありました。
かっこわるい作家だったのかもしれません。
ふつうはレンズを向けないものに写真家の内在は
占められていた。現働は廃墟や墓場、バスタブの中に
あった。自分にとってのシャシンこそが
写真家のシャシンなのだ。

アラーキーにもいわゆる「私景」は多いが
荒木とちがって深瀬の粉飾は切断の線に抑圧がない。
だが切迫感と凄みがあった。
彼は「語られるべきもの」を自覚し、
そしてそれらをさらけ出した。
演出してもかえって露(あらわ)になるふうだった。
ほんとアーティスト中のアーティストだと思う。
あのひと、花鳥風月は一切撮らなかったんじゃないか?

新宿ゴールデン街の「南海」で階段を踏み外し転倒した。
それが原因して昏倒。入院。そのまま命尽きたのだと思う。
岩波の『日本の写真家 34』でほぼ全容が知れます。
「洋子」「鴉」は代表作ですが、
以下は「美深町」と最晩年の「ブクブク」です。
深瀬さん、さようなら。僕の中ではずっと生きてます。





(EOS5DMk2/アンジェニュー35-140mm TYPE LA2)

西瓜糖の日々

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30歳くらいの「わたし」が
住んでる土地「アイデス」、友達の「チャーリー」、
両親を食べてしまった「虎たちのこと」など24の項目(?)に
ついて「あなた」に語る・・そういう書割になっている。
それがブローティガンの『西瓜糖の日々』(藤本和子訳)。
絶版になってたものが今世紀になって復刻される。
そんなわけで図書館にも文庫はないのでしょう。
(以下『西瓜糖』と省略します)

『西瓜糖』は『ドゥルーズ/ガタリの現在』所収のサドッホの論攷、
「言語の流体力学-指令語の射程について」で知った。
そこには「ブローティガン効果」とあった。
『西瓜糖』をジュンク堂で読んでしまおうと目論む。
だけど54ページからの「算数」に少し触れて、
購うことに決した。
物語は「夢」とみていい。
しかしそれはそのとき『夢分析』(新宮一成 岩波新書)を
一緒に購って同時進行で読んだ僕の勝手な解釈ともいえる。

虎たちは「わたし」の両親を食ってしまう。
9歳の時だ。

「おまえの親たちを殺して食べてしまったことについては、
心からすまないと思っているんだよ。でも、わかってほしい。
おれたち虎は悪ではないのだ。ただ、こうしなければならないのだ」
「わかったよ」とわたしはいった。
「算数おしえてくれてありがとう」
「なんのなんの」虎たちは行ってしまった。

両親を食われた虎に算数(九九)を教わるわたし・・
なんという拡散か。これは現働的な様態ではない。夢だ。
さて。昨日のこと。
たまたまNHK-BSで(ワールドニュースのようだった)
子供が枯葉を食べる場面を目撃した。
食料がなく、枯葉を揉んで食べている。
その深刻さを報じた後、「次です」とキャスターは転じた。
「次」はエリザベス女王在位60年記念とやらの
豪華で晴れやかなニュースであった。
夢であってほしいが、こちらは現実的な様態である。
虎:算数=飢餓:記念祝典
僕の目の前で並列に展開されたふたつのことがら。
虎:算数より飢餓:記念祝典の対比のほうがすごい。
酷薄さにおいては、小説よりメディアの方が強度がある。



(NEX-7/ ヘクトール 28mm/ Hektor 2,8cm 1:6,3)

新宮一成『夢分析』

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以下は新宮一成『夢分析』の最終章から。

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ある一日の記憶は、その夜の夢の中で断片的に再生される。
一日の記憶がこのように「日中残滓」として夢の中に
収納されるということを鑑みれば、われわれは、
朝ごとに、あの世に生まれ変わり、昨日のこの世を
夢の中に置き忘れてくるという言い方ができる。
さらに続ければ、昨日のこの世は、実は一昨日のあの世で
あったと言える。
眠りと覚醒の交代は、われわれの心の中に
生まれ変わりの感覚を生じさせている。
こうして「現実」としてのこの世は、夢の奥の奥まで
さかのぼらなければ見つけられないものになる。

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4日まえのことだ。ジュンク堂で、
ブローティガンの『西瓜糖の日々』と
新宮一成の『夢分析』購って読み始めた。
今日それらを読み終えた。
読みはじめ=土曜日=於「シアトルズベスト」。
読み了え=水曜日=於「シアトルズベスト」。
なまけものの僕にしては速いペース。

さて。
『西瓜糖の日々』と『夢分析』の両方を読んだヒト。
少ないとはいえいるには違いない。
その人たちと僕は、たぶん近い場所にいる。
2冊は確かに特別の書物だからだ。
それらを自覚的に(事後的な気づきとしても)選択して読む、
となれば、やはり特別のヒトなのだと思う。

僕の新宮一成体験は以下の4冊です。
成立順に
1.1989『無意識の病理学』-クラインとラカン-(金剛出版)
2.1995『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)
3.2003『夢分析』(岩波新書)
4.2004『精神分析家に人は何を語りうるのか?』(大航海No.51)

何度も読み返してぼろぼろ(バラバラ)になった新書。
ドゥルーズ哲学がどうあろうと、僕はこれらを手放せない。
それは僕固有の属性なのだ。僕の内在なのだ。
それこそ「体内空間」なのだ。(笑)

『西瓜糖の日々』を『夢分析』と同時並行で読む。
それかあらぬか『西瓜糖の日々』が夢の語らいのように
読めてしまう。不思議な体験だった。
鱒と水中の墓、これは夢解釈の対象になる。きっと。
そういえば、インボイルもマーガレットもポーリーンも
いや人物のみなが、夢のなかの「あのひとたち」のようなのだ。



(NEX-7/ ヘクトール 28mm/ Hektor 2,8cm 1:6,3)

西瓜糖の日々

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ブローティガンの『西瓜糖の日々』と
新宮一成の『夢分析』を選んでカウンタ席を確保。
『西瓜』の54ページ「算数」からだ、今日は。
でも数行読んで、これは購っておこう、と決めた。
『夢分析』はついで・・勢いだ。
その2冊をもって「シアトルズベスト」に。
店内はリニューアルされていた。

土曜日は福岡に出るべきじゃない。
電車もミセも混む。
喉の調子も悪く、「匂い」から逃げまくる。
持病だからいたしかたない。
ジュンク堂に出向く前に昼食は「福新樓」で。
博多に出たかったがその元気がない。
豆乳入り坦々麺、てのを注文。だけどこれはバツ。
やたら唐辛子がきつい。

「チャンズ」で作ったものを提供してるのかな?
だとしたらそれはいただけない。
「鼎泰豊 」のうまい坦々麺が記憶に新しい。
ところが、である。
芒果布甸(マンゴープリン)。これがグッドなのでした。
「鼎泰豊 」のそれよりいい。
まあそんなもんです。



(NEX-7/アンジェニュー28mm/F3.5 TYPE R11)

ダブル・バインド

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新宮一成『無意識の病理学』(金剛出版 1989)。
第1章がダブル・バインドにあてられているのは
その向きのお方はご存知でしょう。
昨日その第1章を一気に再読する。
眼が涙目、不快感・・もうひと月以上かなあ。
それを押してえっちらおっちら読む。

今しがた夢からさめて、起き出す。午前2時。
その夢。
死んだ養父、施設にいる養母のいたアパートだ。
二人のほかに、出て行ったまま帰らなかった猫がいる。
毛の色が濃くなっている。
抱えると相変わらず太っていて重い。
そして以前とおなじように無愛想だ。
(最後に見送った後姿のままだ)
「なあんチーコ、オトサン心配してたんよう」・・
みたいなことを僕は言う。

隣の部屋。紙にくるんだ札(2千円ほど)が
タタミに放置しているので、ほらだめだよと
注意する。
隣の部屋に気をとられているその間、養母が
僕の財布(今使っている財布)の中を覗いた、と
気配で察せられた。
僕は財布から5千円札を出して「生活費」と
言って養母に渡す。「おいしいものでも食べて」と
つけたす(いいかえる)。

箪笥に僕の古着がある。冬物だ。
(現実には整理・処分した)フリースのたぐいが
引き出しにところ狭しと詰め込んである。
そのうちのひとつを「これはもう捨てよう」と
いいながら取り出す。

この日僕には用向きがある。
いったんウチに戻るか、ここから出向くか、
迷っている。もどりたい、長居はしたくない・・と
内心思っているようなのだ。

新宮センセには岩波新書=『夢分析』がある。
買って読んでみるかなあ。
今このブログ表象の記述は、新宮センセに
導かれたようなものではないか。(笑)

それはそうと第1章で気になる術語「体内空間」。
どうもこれが僕にはなじめない。なにこれ?
精神分析の術語なのだろうか?

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