2015年2月 Archives

六櫻社 BABY PEARL

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 六櫻社のベビーパールをオクで落札。
ベビーパールにはHexarレンズとOptorレンズのものがあるんですね。どちらも50mmF4.5。それぞれが出品されている。
1000円スタート。我は4000円を上限にして就寝。結果、Optorは首尾よく3200円で終了していたが、Hexarはそれを超えていた。

さて。そのオプター搭載(旭光学らしい)のベビーパールです。
ウェットシートで拭いたらレザーが剥離。w
BABYの部分が消える。打ち出し(エンボス)ロゴかと思いきや、下の地金には何もない。蛇腹も折り目はパックリ開いてます。w

ベビーパール抽出のHexar50M.Mは、知人製作の個物をいただいて、Eマウントのソニーαでときどき使っている。M42ヘリコイドにつけると「出べそ」みたいになる。まあOptorゲットはかえって都合がいい。





これらはα7Rにフジカ35EE抽出のフジノン4.5cm1.9で撮影。絞りは5.6あたり。
ベビーパールは1934年(昭和9年)というから古い。もちっと「記念撮影」してのあかつきは、知人に抽出を依頼します。
ROXとかいうシャッター内部も見せてもらおうかな、とこれは脳内幻想。

2台目のフジカ35EE

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 絵はα7R+フジカ35EEから抽出した改造フジノン4.5cm1.9で撮影したものです。f5.6あたりで。

 2台目となるフジカ35EE。「ジャンク品」 を入手。しかるにセレン部は生きている。シャッターも絞りも問題ない。(と思う)。ファインダも使える。個体とレンズ内部に多少の汚れはあろうが、「動作品」と判断できる。フィルムを詰めてみようかな。w
レンズを抜く前に個体を装飾品として活かしてみたい気持ちがわきますねえ。

それはそうと、入手後に確かめたことがある。
シャッタースピードを1秒にして、f5.6とf8の絞りの具合を何度も見た。
現在使用中の抽出フジノンのそれと一致させるため。
と言っても、それってなん? となりますよね、すいません。(後述します)

ところで、上の絵を撮影した1台目のフジカ35EEのことです。
元カメラは今もyoutubeに売り主の動画が残っています。
僕に販売した後、上方にロゴを入れて修正していますが、販売済み、との説明をつけて動画を残しています。
これって、おもしろいですね。売り主さんも何か思うことがあるんでしょうね。
僕としてはいつまでも残しておいてほしいです。うむ。

これが一台目のフジカです。この個体から抽出しました

シリアル465646はまさに僕の個物です。Y2フィルタが硬くてはずれなかったのを記憶している。動画からシリアルNo.部分のキャプチャ画像。↓(拡大画像あり)
手指は売主さんです。w



 下の絵は、抽出して、絞り・ヘリコイド付きフジノンです。知人製作。2台目で絞りを確認、というのはSEIKOSHAのそれとフジカは別物だからです。
この直進全群のヘリコイドを見よ、って感じです。とてもよくできています。使用しないときはヘリコイドを納めます。
(注意:NEX-Cアダプタは内径を加工。ケラレはなし)

 事情があって遠出を控えていた。
春。蠢動、というからには「動く」ことを少しは考える。
そういうふうに思いをめぐらす。すると、天邪鬼な僕はきまってドゥルーズの旅をしないスタイルを思い浮かべる。
そして自嘲する。「旅をしなければならぬ必然性なぞどこにもない」と。w

ドゥルーズは旅もテレビも避けた。それはよく知られている。
①フィッツジェラルド風に、聖書をもって旅先で開くような旅には「切断」はない。
②私は「旅」をたのしむほど愚かではない。
③「ノマド」とは動くことではない。真のノマドはその土地にしがみついてる者のことだ。うんぬん・・
シビアな言い回しなのでしっかり記憶=身に付いた。





7sにコダックektar 5cmF3.5。上はf4.5下はf11。
IDCデフォルト現像。
「文藝春秋」3月号所収の小野正嗣『九年前の祈り』を読む。
今期の芥川賞作品。
近頃、小説を読むようになった。w
きっかけはある。妻が入院して(現在は退院)読み物をあれこれさがして病院に届ける。それが高じた。『死に支度』も『33年後のなんとなく、クリスタル』もそのクチだ。
その妻が「文藝春秋」を定期購読する、と言いだすやさっそく書店に届けさせた。
妻の亡父は数十年間この雑誌を購読していた。隅からすみまで読んでいた。親子とは似るもんだ。笑えるが、まあトシをとってみればそういうこともあるだろうと僕も思う。

そんなわけで瓢箪から駒、僕が先に『九年前・・』を読むことになった。発表したての芥川賞作品を読むなんて若い時以来、それこそ30年も40年も経験がない。
まこと、ヒトはどんなふうに「生成」するか知れたものではない。これから死ぬまで芥川賞作家に付き合うことになるかもしれない。w
あ、感想。うむ。いいです。いい作品です。
選評は一顧だにしません。w
それは読まない。田中康夫の註を読まないのと同じ。

7sにレンズはKODAK EKTAR 5cm 1:3.5。F4.5で撮影。IDCデフォルト現像。
なだらかで柔らかいボケですね。
タイトルが悩ましい。w
ごめんなさい。人目に触れてもらいたいがためのSEO対策でやんす。
それとサムネールをw=300に。スマホで見ている人が多いので。(拡大画像アリ)

E20/2.8 クロップなし

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α7RにE20/2.8をクロップなしで。現像後Photoshopのカンバスサイズで横4912に合わせてカットする。と、ケラレが塩梅よく消え去る。あのSWCと同じ見えをする。w
用あって当地の空港へ。7s+エクタナー、7R+六櫻社ベビーパール・ヘキサー。準備はよかったが撮ったのは数枚。正面は当地の多良山系。コダックAPSのektanar。IDCデフォルト現像。飛行機雲が次々に出ては消える。春節で中華のヒトが目立つ。





こちらはヘキサー5cm。何の変哲もない。等倍にするとびっくりするくらいあれこれ写し込んでいる。





旧コンパーラピッド。絞り羽根は10枚。
KODAK EKTAR 5cm3.5のレンズを外した場面。(拡大画像あり)
何しろ使われてないレンズですので、どこもピカピカです。
10枚羽根の数は極めて少なく、ネット広しといえども画像はほとんど見当たらない。よって稀少の姿をお見せしたことになります。w



IDC現像。発色は実にノーマル。派手さはない。自然です。α7sはKODAK EKTAR 5cmのそんな良さを引き出してくれる。抜け道を階調豊かに写す。
モニタは透過画像みたいなもんだからプリント出力はこうはいくまい、とお思いでしょうが、僕の経験ではほぼ画面通りに出力するのが昨今のプリンタのチカラです。
僕たちはすごい時代にいるわけです。

藤田嗣治 アッツ島

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 藤田嗣治のハナシになると条件反射のように気持ちが昂る。
特別な脳内物質が出るのだろう。
高校の頃、ゴッホ、ゴーギャンを好きな下級生がいた。その男のアパートにゆくとまさに貧乏画家のアトリエ然の部屋だった。
僕はそのころモディリアニに惹かれていて、それも誰かの影響だった。
互いに「他者の欲望を生きる」ことは若者の証明、特権みたいなものだったのだろう。
「エコール・ド・パリ」関連から藤田嗣治を好きになったのだと思う。
爾来半世紀も藤田の絵や文献とつきあってきたことになる。

去年(だったか?)竹橋の近代美術館で「アッツ島」の前に立った時、野見山暁治の話を思い出し、胸が熱くなった。
「アッツ島」が公開された当時、絵の前に賽銭箱が設置されていて、近くには藤田が軍服姿で直立不動で立っていた。賽銭を投ずる人にいちいち敬礼をしていた・・。それが野見山が目撃した話だった。

絵というものは不思議だ。アトモスフィアを携えてそこに君臨する。絵の前に立つと、藤田の生涯のパノラマに触れるがごときだ。藤田が現前するがごときだ。
しばしば絵は戦争で国境を移動する運命に遭う。「アッツ島玉砕」はアメリカが持ち去り、現在は日本に「貸与」されている絵だ。これも奇妙な事案だ。
朝日の「戦後70年シリーズ」記事でいろんな逸話が再現される。藤田は痛々しいくらい濃密で熱の人だった。
拡大画像で記事が読めます。



フジカ35EE

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検索中心のインターネット時代においては、SEO=Search Engine Optimization を無視することはできない。
さりとて僕はその技法を知る者ではない。
ログを検証すれば、サーチエンジンから検索して記事を見ているということはわかる。
またMT4のmt-search.cgiからたとえばHektorとか、LPLとか、映画『流れる』(これは日本語なのでデコード前は%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8E%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8F)とかブログ内検索も多い。
記事をアタマからご覧になる人は稀だといえる。

さて。7sとフジカ35EEからの抽出フジノン(FUJINON 45mm1.9)のハナシとなれば記事に何度か登場する。
が、差異がある。よって何度も反復する。この場合差異はまず「表面」的であるが僕の中では「深層」に及ぶものである。言語で説明しにくいが、ファインダから視神経→大脳(情感)→言語化への動き・・・というように「差異」は全身に及ぶ。
まあみなさんも経験済みのことでしょうが、「表面」が「深層」を伴わないことなどありはしない。手の甲の傷は必ずや深手の感情の傷を受け持つ。
僕の場合もそうなのです。「定点観測」ですら表層の(=深層の)差異に満ちている。

僕は知人製作のさまざまなレンズを所有する。おおむね28mmから50mmの標準系の単焦点レンズである。それらの「個物」に秘められた知人の「熱情」の根源はやはり「差異」と推測する。
大上段にかまえずとも「差異」とか「熱情」こそが生を貫くものであることを、人はおのずから感知している。よって今日また僕はフジカ35EEフジノンの絵をアップするのです。w
アートの「差異」はマーケティングにならない限り規格化されることはない。ばらばらにランダムに熱情に任せて出現する。w
(拡大画像あり)
なお、raw現像はすべてIDCデフォルトです。







フジカ35EE

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フジカ35EE抽出フジノン(FUJINON 45mm1.9) を7sで使ってIDC現像を試行。
うむ。これはいける。
想像だが、SILKYPIXの7s対応のエンジンプログラムに瑕疵があるんじゃないか?
周辺があのようにケロイドのようになるのはどうみても変だ。
撮影状況によっては断然IDCを選択すべし、と思う。



IDCデフォルト現像での「解像度」もいい。下はキッチングローブの等倍(部分)。



このフジノンは周知のごとく1979年の「写真工業」にてMズミクロン50mmと同等の解像度が実証された。
中央部の解像度は「凄い」の一言につきる。

α7R撮影のここをご覧ください。

さて。

せんだってコダックAPSカメラ抽出のレンズ=ektanarで、そっくりのシチュエーションを撮影したばかり。
同じ人物の自転車のようだ。
これがkodak ektanar。


(kodak ektanar 23mm6.6)

で、下はフジノン。歪曲はない。w



もう一枚。定点観測。ちょっと暗すぎるか。

コダック Kodak APS

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7sとコダックのAPSカメラから抽出した知人製作の豆レンズ(Kodak APS Ektanar 23mm f6.6/35)。
IDCデフォルトで現像。







うーむ。シルキーでないところが気に入った。
豆レンズの作画にマッチする。トイ風味だがあなどれない。歪曲は愛嬌。

STOK EFレンズ

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α7R+STOK+キヤノンEFレンズ。
IDC(SONYのImage Data Converter Ver. 4)デフォルト現像のモノクロ。
time=18:10p.m.。ISO=3200。F=6.3。1/60秒。画角39mm。AF=OFF



拡大画像はジャスト1/4大になります。(1840*1228)

STOK EFレンズ

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一度やらねばと思っていた。α7R+STOK+キヤノンEFレンズで撮ることだ。α7sでは試行していたのだが7Rではまだやってなかった。(と、思う。w)
今日は買い物ついでにトライ。7RにEF24-70mmf2.8を付ける。AFは切る。
これがIDC(SONYのImage Data Converter Ver. 4)の情報です。



で、作例。(拡大画像あり Dev=IDC)



現像はIDCのデフォルトでやっています。ピントは凡そ上部の発光チューブ。
そのチューブの部分を等倍にします。(拡大画像が等倍になります)



これらの「効果」はすべてアレンジメントです。つまりカメラとレンズと撮影設定値、それに現像アプリケーションですね。
Web用に見せるという観点では「現像」処理は大いに影響はあるでしょう。rawファイルはどうにでも扱えますから。
ま、しかし現像をデフォルトでするならパッと見る印象はカメラとレンズで決まるでしょう。
STOKのおかげさまで、7360*4912の解像度をミラーレスで得ることができる。シアワセな男です。

もう一枚。
朝日の記事。(f=8 Dev=SILKYPIX)



横1840(記事の概要がわかります。Kodakが破綻してもう3年になるんですね)

コダック Kodak APS

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7sとコダックのAPSカメラから抽出した知人製作の豆レンズ(Kodak APS Ektanar 23mm f6.6/35)。
SONY提供の現像ソフトは IDC(Image Data Converter)と呼ばれる。使っていなかったが実はこれはけっこうイイのではないか、というハナシをいたします。SILKYPIXとの比較です。(どちらもデフォルト設定での現像)



これはSILKYPIXです。拡大画像でみてください。ピクチャ下方のもやもやが厭味なのです。
いっぽう次はIDCです。



うーむ。これでは違いがわかりにくいかなあ。
下方の川石のゴロゴロ感がIDC現像の方がいい。
以前から「もやもや」が気になっていたのです。まさにシルキーな現像をするのがSILKYPIXです。たぶん「ノイズ処理」との関連ですね。SILKYPIXのノイズリダクションには、偽色抑制、フリンジ除去、ノイズ整列、ノイズ除去があります。これらの調整スライダでピクチャ前面のもやもやは消せるはずです。

好みからいえば僕はこんな絵では断然IDCを採用します。ノイズが無いのはいいけれどやりすぎた処理は不自然ですからね。銀塩のつぶつぶを思えばノイズがでてもくっきりしていたほうが僕は好きです。
これからIDCを使うことが増えるかもしれない。

コダック Kodak APS

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7sとコダックのAPSカメラから抽出した知人製作の豆レンズ(Kodak APS Ektanar 23mm f6.6/35)。詳しくは
ここをご覧ください。

拡大画像でみると紙やサッシュの網の質感が見て取れる。たいしたもんです。

リコーGR1

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 7sとGR28mm(F11相当固定絞り)。
タイトルは、SEO対策上「リコーGR1」にしていますが、中身はPhotoshopでのモノクロ化とフィルターのこと。
下の絵がPhotoshopでの初期設定=モノクロ化。
モノクロ化のショートカットは、Ctrl+Shift+Alt+B。ダイアログはこうです。↓



さて。プリセットの中から「イエローフィルタ」を選択してモノクロ化すると、同じモノクロでも絵はこう変わります。↓



カラー、標準モノクロと比較すればすればよくわかります。
イエローフィルタを通すと、「非常口」の⇒緑色が濃く強調される。逆にその左下の7=シャツや、画面右のオレンジ色の婦人用バッグは白色になる。イエローの「補色」はグリーンです。理論通りに処理します。
フィルム時代にこんな「実験」をすることはありませんでした。デジタルならではの出来事です。あのY2フィルタが懐かしいですね。w

おしまいはSILKYPIXのハードモノクロ現像を。↓

フーコー ギリシャ回帰

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 1986年、フーコーの「自己の技芸」についての聞き手クレール・パルネに対するドゥルーズの言。
ドゥルーズがフーコーにどれほど直感的に惚れ込んでいたか、手にとるように読める。それにフーコーがその対談の場にいるかのような実に生々しい臨場感がある。そんなドゥルーズの様態、分析のテクネーも素晴らしい。
このブログ記事タイトルで検索がオモテに出るかな?でないだろうな。SEO的には僕の力量は明らかに不足してるもんなあ。
ま、ともかく「自炊」して原訳(宮林訳=これ改行なし)のままアップする。あなたがドゥルージアンで、さらにはフーコニストで、ついでに若き30から40代の男であれば・・ジイの「読んde!!ココ」自炊の労苦も悦びに変容するってもんですな。w
あ、しかし、以下のドゥルーズの言はカレの61歳時です。あるいはあなたがその年齢になればもっと「みぞおち」の理解が降りるのかもしれません。老婆心かな?

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パルネ
そうはおっしゃいますが、あれはやはりギリシア人への回帰なのではありませんか。そして「主体化」という言葉は、主体の再導入につながる曖昧な表現ではないでしょうか。

ドゥルーズ
ちがいます。ギリシア人への回帰などありはしません。フーコーは回帰というものが大嫌いでしたからね。自分で体験したこと以外を語ろうとはしなかったし、 自己の抑制、いや、もっと正確にいうと自己の生産は、フーコーにおいては自明の事柄だったのです。フーコーが、主張しているのは、ギリシア人は主体化を「創始」した、自由人の競合関係(競技会、雄弁術、恋愛など)という体制がそれを可能にしたのだということです。けれども、主体化のプロセスは並外れた多様性をもっています。キリスト教世界の様態はギリシアの様態とはまったく別のものだし、しかも主体性の生産は、宗教改革を待つまでもなく、すでに原始キリスト教の時代から、個人と集団の別を問わず、さまざまな道をたどってきたのです。キリスト教徒における新しい生存の美学を論じたルナンの文章を思い出すべきでしょう。ルナンが問題にしているのは、皇帝ネロもそれなりに助長してしまった、そしてアッシジのフランチェスコに最高度の表現を見出すことになる美学的な生存の様態です。狂気との、そして死との対決。フーコーにとって重要なのは、主体化はいかなる道徳からも、そしていかなる道徳的コードからも区別されるということです。
主体化は倫埋と美学にまたがるものであり、この点で知と権力の性格を帯びた道徳と対立するのです。したがってキリスト教の遺徳が存在し、もう一方にはキリスト教的倫理とキリスト教的美学の複合体が存在する。そして両者のあいだであらゆる種類の闘争が戦われ、あらゆる種類の妥協がおこなわれることになるのです。いまの時代についても同じことがいえるでしょう。私たちの倫理とは何か、私たちの審美的生存を産み出すにはどうしたらいいか、現行の遺徳的コードには還元できない私たちの主体化のプロセスはどのようなものになるのか。どのような場所で、そしてどのようにして新たな主体化はあらわれてくるのか。いまの共同体には何を期待すればいいのか。ですから、フーコーがギリシアまでさかのぼったところで、『快楽の活用』やそれ以外の本で彼が関心をよせるのは、いま現在おこっていることであり、いまの私たちが何者であり、何をしているのかということなのです。現代に近いものであれ、遠いものであれ、歴史的形成は私たちとの差異において分析され、この差異を点検するために分析されるにすぎないのです。私たちほみずからに身体を与えるけれども、それはギリシア的身体やキリスト教的肉体とどう違うのか。主体化とは、生存の様態を、あるいは生の様式を生産することなのです。
 ならば、「人間の死」という主題と、審美的主体化という主題のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。道徳の拒絶と倫理の発見のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。問題に変化がおこり、新たな創造がおこなわれているのですl。それに、主体化は生産されるものであり、「様態」なのだという事実をおさえておくだけでも、「主体化」という言葉のあつかいには相当の用心が必要だということはじゅうぶん理解できるはずです。フーコーは「自己そのものと正反対であるような自己の技芸」という言い方をしています。もし主体があるとすれば、それは自己同一性なき主体なのです。プロセスとしての主体化は一種の個体化であり、個体化は個人的であっても集団的であってもいいし、一個人についておこなわれても、多数についておこなわれてもいいい、そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、(事件)タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。ひとつの生や一個の芸術作品が主体として個体化されているかどうかは、まったくもって定かではない。フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の(事件)、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。そんなふうであるとか、そんなふうに見られるということがフーコーを苛立たせたこともあります。しかし、フーコーの全作品がそうした強度の束によって培われていたというのも、やはり否定しようのない事実なのです。〈可視的なもの〉も、フーコーの場合には輝きやきらめき、あるいは稲妻のような、光の効果だった。言語は巨大な「ある(ilya)」が三人称に置かれたものにほかならないし、要するにこれが人称の対極に位置するわけです。フーコーの文体を成り立たせる強度の言語。これもシユレーターとの対談に出てくることですが、フーコーは「愛情」と「熱情」の対比を敷桁してみせ、自分は熱情の人であって愛情の人ではないと述べています。この文章のすばらしさは、即興の対話ということもあって、フーコーが愛情と熱情の区別に哲学的な意味合いをもたせようとはしていないところにあります。無媒介的な、生のレベルで語っているからです。愛情と熱情の区別は恒常性と非恒常性の方向でなされているのではない。いちおう同性愛と異性愛を話題にしてはいますが、かといって同性愛と異性愛の対比をおこなっているわけでもない。フーコーが述べているのは、むしろ、個体化はふたつのタイプに分かれるということなのです。一方の愛情は人称にしたがって個体化をとげ、もう一方の熱情は強度によって個体化をとげる。あたかも熱情が人称を溶解させたかのように。しかしそうすることによって未分化の状態に陥るのではなく、いつも相互に相手を包みあった、可変的で連続した強度の場に浸されるようになるのです(「それは絶えず動いている状態でしたが、かといって特定の点に向かうのではなく、力が強まる時期と弱まる時期がある。白熱して燃えあがる時期があるかと思えば、おそらく惰性からでしょう、とにかく理由もはっきりしないまま、不安定な状態がつづくこともあるのです。極端な場合にはしばらく自己を保ち、やがて消えていこうとする……自分白身であるということはもはや意味をもたないのです…」)。愛情はひとつの状態であり、人称や主体の関係です。これにたいして、熱情のほうは人の一生にも匹敵する長さをもつ人称以前の(事件)であり(「私はここ十八年来、誰かにたいする、そして誰かのための熱情の状態を生きているのです」)、主体なき個体化をおこなう強度の場なのです。トリスタンとイゾルデの関係は、たぶん愛情でしょう。けれども、いま話題にしているフーコーの文章にふれて、こんな感想を述べた人もいるのです。『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフは熱情だ、純粋な熱情であって、愛情ではない、とね。じっさい、『嵐が丘』は恐るべき魂の兄妹関係であり、もはや人間とは言いきれないものを表現している(彼は誰?―狼さ……)。情動のさまざまな状態を新たに区別してこれを表現し、それぞれに異なる情動を感じ取ってもらうのは並大抵のことではない。フーコーの仕事が中途でとぎれているという事実も関係しているでしょう。フーコーが生きていたならば、生の場合と同じような哲学的射程を、熱情と愛情の区別に与えていたかもしれないのです。ともあれ、フーコーが「主体化の様態」と呼んだものについて、大いに用心してかかるべきだということだけは、きちんと理解しておかなければなりません。フーコーのいう様態には、たしかに主体なき個体化が含まれている。これが問題の核心でしょう。それに熱情も、熱情の状態も、おそらく主体化の場合と同じで、(外)の線を折り畳み、生きうる線につくりかえ、呼吸する手段を身につけるという意味なのではないか。フーコーの死に直面したつらい気持ちをいだきつづけている人たちは、あの卓越した作品が熱情に呼びかけたところでとぎれているということで、悦びをおぼえてもいいのではないかと思います。

 閑話休題。これはα7RにKODAK Ektar 1:3,5 F=5cm No 107****の容姿です。

リコーGR1

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 タイトルを「リコーGR1」とするのはSEO対策上のこと。
なんでかα7sの感度が125になっていて家でPCで開いて気付く。全部1/5秒で撮影していた。w(ISOのAUTOがはずれることはさいさいある)
いやはや。こんなことにめげてはいけない、ともう一度出かける。ミセに入る。なんだPCにSDカードをつけたまま出てきた。
再度家に戻る。よってこれは三度目の正直、ということになる。「アーチスト」は失敗に何度も立ち向かうのである。w
7sに抽出レンズGR28mm2.8(F11相当固定絞り)。




 せんに、フェリックス・ガタリの「集合的発話者」のことを記した。その前段を「自炊」しておきます。
「シニフィアンの体系を拒絶なさる埋由はどこにあるのか、答えていただきたいと思います」に応答してガタリが語る場面。

「それは、シニフィアンなんて何の役にもたたないからさ。
そう思っているのはぼくたちだけではないし、ぼくたちがそう言い出したわけでもない。フーコーをみればわかるはずだ。最近出たリオタールの本もそうだし。
ぼくたちのシニフィアン批判がわかりにくいものに見えるとしたら、それはシニフィアン自体がどんなものでも古めかしいエクリチュールの機械に切りFげる散漫で観念的な存在にすぎないからなんだ。
シニフィアンとシニフィエを分かつ排他的で拘束力の強い対立関係には、エクリチュールの機械とともに浮上してくるシニフィアン帝国主義の亡霊がつきまとっている。そうなるとどんなものでも文字に関係づけられてしまう。それこそ専制的超コード化の法則そのものなんだよ。
ぼくたちの仮説はこうだ。暴虐をきわめた専制君主の表徴(エクリチュールの時代)が後退して、そのあとに広野がひらける、そしてこの広野がミニマルな要素群と、要素相互間にはりめぐらされた一定の関係性とに分解される。こう仮定してみれば、暴君のように恐怖政治をおこない、去勢の影をちらつかせる、そんなシニフィアンの性格だけは、すくなくとも説明できるからさ。大規模な帝国につながっていくという意味で、シニフィアンというのはどうしようもない擬古主義だよね。
ぼくたちは、シニフィアンが言語を考えるうえで有効かどうか、それすら疑わしいと思っている。だからこそ、ぼくたちはイエルムスレウのほうに傾斜していったんだ。イエルムスレウは、もうずいぶん前に、内容と表現からなる流れがあって、シニフィアンなしですませることのできる、いわばスピノザ派の言語理論を構築していたわけだからね。つまり内容と表現からなる連続的な流れのシステムとして言語をとらえ、このシステムが、離散的で 非連続な形象を組み合わせた機械状アレンジメントと合致していると考えたわけだ。」

そのあとに「今度の本ではくわしく説明しなかったこと・・・」となるわけです。

絵はα7sにリコーGR28mm(F11相当固定絞り)。知人にゴミを除去していただいた7s。
(上)ピントは正面建物。いや、よく写すレンズだ。7sでこうだからねえ。
(下)ひとりでメシ喰う。茶碗にCubeのインジケータが写り込む。そんなシーンを偏愛する。w

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