2011年5月 Archives
先日「福新樓」で食べた後、大名を歩く。
疲れる。「ジュンク堂」にまわり、シアトルズベスト側の席を確保。
船木亨=放送大学を読む。(3度目)。だが睡魔が襲う。
読み始めたんだが、頭のなかは他のことを考えていた。
ジョン・バースの『酔いどれ草の仲買人』のどこかに
ヘンリー・バーリンゲームの言、「私とは私の記憶にすぎない」
もひとつ、同じころ大江健三郎=朝日文芸時評の「自同律の不快」
当時から気になっていた。
当時というのは1979年あたり。30歳になったばかりか。
これらはいうまでもなく「同一性」、「存在」、「時間」うんぬんの
諸問題である。よって目下の諸問題でもある。
バースを知る人は少ないかもしれない。ググってくださいませ。
植草甚一スクラップブック17=『アメリカ小説を読んでみよう』に
丸谷才一・佐伯彰一との鼎談がある(1970年)。拡大画像アリ。
ここの朱線部が『酔いどれ』のことです。
『酔いどれ』が野崎孝の名訳で日本に紹介される10年前には
JJこと植草甚ちゃんは唾つけていたのですね。さすが。
『酔いどれ=THE SOT WEED FACTOR』自体は1960年の作品だから、
日本には20年遅れてやってくる。まあ妥当でしょうか?
バースは、集英社版「世界の文学」で日本デビューをした。
これがその集英社の企画です。拡大アリ。
まあ、すごいもんです。圧倒的です。
この38巻は、捨てずにいまだに保有してます。(笑)
これくらいエポックメーキンな企画はない、とすら思う。
(いや、ま他にもありんすよ)
なんだなんだ、僕は今日は
「私とは私の記憶にすぎない」と「自同律の不快」について
ベルクソンやドゥルーズにからめて「表象」したかったのに・・
眼痛がしてきた。ちょっと次回にします。ごめんなさい。
疲れる。「ジュンク堂」にまわり、シアトルズベスト側の席を確保。
船木亨=放送大学を読む。(3度目)。だが睡魔が襲う。
読み始めたんだが、頭のなかは他のことを考えていた。
ジョン・バースの『酔いどれ草の仲買人』のどこかに
ヘンリー・バーリンゲームの言、「私とは私の記憶にすぎない」
もひとつ、同じころ大江健三郎=朝日文芸時評の「自同律の不快」
当時から気になっていた。
当時というのは1979年あたり。30歳になったばかりか。
これらはいうまでもなく「同一性」、「存在」、「時間」うんぬんの
諸問題である。よって目下の諸問題でもある。
バースを知る人は少ないかもしれない。ググってくださいませ。
植草甚一スクラップブック17=『アメリカ小説を読んでみよう』に
丸谷才一・佐伯彰一との鼎談がある(1970年)。拡大画像アリ。
ここの朱線部が『酔いどれ』のことです。
『酔いどれ』が野崎孝の名訳で日本に紹介される10年前には
JJこと植草甚ちゃんは唾つけていたのですね。さすが。
『酔いどれ=THE SOT WEED FACTOR』自体は1960年の作品だから、
日本には20年遅れてやってくる。まあ妥当でしょうか?
バースは、集英社版「世界の文学」で日本デビューをした。
これがその集英社の企画です。拡大アリ。
まあ、すごいもんです。圧倒的です。
この38巻は、捨てずにいまだに保有してます。(笑)
これくらいエポックメーキンな企画はない、とすら思う。
(いや、ま他にもありんすよ)
なんだなんだ、僕は今日は
「私とは私の記憶にすぎない」と「自同律の不快」について
ベルクソンやドゥルーズにからめて「表象」したかったのに・・
眼痛がしてきた。ちょっと次回にします。ごめんなさい。
とはいえサイボーグたちが
ニンゲンより「自由」であったとはとても思えない。
ヒューマノイドのアトムをみるといい。
アトムは天馬博士がなくしたトビオの代用だった。
それでも博士は、アトムが大きくならないのが不満で
サーカスに売り飛ばした。まあ、奴隷売買と変わらない。
エヴァも『寄生獣』のパラサイトたちもお上の指令を
負っている。ターミネーター、ロボコップもそうでしょう。
かれらは「非人称的」であるどころか
ほとんどニンゲンと同じく、超越的で存在論的な重荷を
しょっている。そう、ショッテんですよね、けっこう。
ニンゲンに似てますね。(笑)
一世を風靡した押井守のアニメ、
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』のラストです。
長いですから適当なところで止めてください。
「さらなる上部構造にシフトする・・」なんて
人形使いが草薙素子に言ってますね。
コードにも階層が、ヒエラルキーがあるのです。
サイボーグにも制約が多く、思いのほか不自由なのです。
ニンゲンより「自由」であったとはとても思えない。
ヒューマノイドのアトムをみるといい。
アトムは天馬博士がなくしたトビオの代用だった。
それでも博士は、アトムが大きくならないのが不満で
サーカスに売り飛ばした。まあ、奴隷売買と変わらない。
エヴァも『寄生獣』のパラサイトたちもお上の指令を
負っている。ターミネーター、ロボコップもそうでしょう。
かれらは「非人称的」であるどころか
ほとんどニンゲンと同じく、超越的で存在論的な重荷を
しょっている。そう、ショッテんですよね、けっこう。
ニンゲンに似てますね。(笑)
一世を風靡した押井守のアニメ、
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』のラストです。
長いですから適当なところで止めてください。
「さらなる上部構造にシフトする・・」なんて
人形使いが草薙素子に言ってますね。
コードにも階層が、ヒエラルキーがあるのです。
サイボーグにも制約が多く、思いのほか不自由なのです。
1995年は重要な年だと痛切に思うことが
しばしばある。
個人的にも、社会的にも。
出来事をクロノスで切断したようなWikiをみれば
一目瞭然です。
阪神・淡路震災と地下鉄サリン、マイクロソフトのWindows95。
なによりドゥルーズが自死したその年です。
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』ができ、
『新世紀エヴァンゲリオン』が開始された。
麻原=尊師が逮捕された日は阿蘇山にいました。
硫黄山が爆発した日は直下の坊ケつるでテン泊してました。
まあそんな年です。
『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が
コミック=貞本エヴァンゲリオンの第1巻の巻末に
こう書いていますね。
「オリジナル」はその場所にしかない。
この言まさにドゥルーズです。全文をどうぞ。(横1280)
ニンゲンが機械にシンクロする事態は
内在平面に稲妻が走ることと同義です。
それはオリジナルでありパラドックスでもあります。
接合されたかと思えば痙攣し、分離し
いくつもの切断面とさまざまな断層が生じます。
私たちの出来事は現前に再現(表象)したときには
すでに大きく後退しています。もう、そこにはない。
少年の僕を、いまここ、ブログ表象の僕に結びつける根拠は
実はどこにもない。そう、「コギト」はない。
でも僕らは「ぼく」というものを感じながら生きている。
それが唯一「オリジナル」なのです。
すべての出来事は「アイオーン」であり、
近づきつつあるサード・インパクトといえます。
まことに生成や出来事はパラドックスに満ちてます。
超越的な経験です。
痙攣しながらシンジはエヴァに「なる」わけです。
しばしばある。
個人的にも、社会的にも。
出来事をクロノスで切断したようなWikiをみれば
一目瞭然です。
阪神・淡路震災と地下鉄サリン、マイクロソフトのWindows95。
なによりドゥルーズが自死したその年です。
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』ができ、
『新世紀エヴァンゲリオン』が開始された。
麻原=尊師が逮捕された日は阿蘇山にいました。
硫黄山が爆発した日は直下の坊ケつるでテン泊してました。
まあそんな年です。
『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が
コミック=貞本エヴァンゲリオンの第1巻の巻末に
こう書いていますね。
「オリジナル」はその場所にしかない。
この言まさにドゥルーズです。全文をどうぞ。(横1280)
ニンゲンが機械にシンクロする事態は
内在平面に稲妻が走ることと同義です。
それはオリジナルでありパラドックスでもあります。
接合されたかと思えば痙攣し、分離し
いくつもの切断面とさまざまな断層が生じます。
私たちの出来事は現前に再現(表象)したときには
すでに大きく後退しています。もう、そこにはない。
少年の僕を、いまここ、ブログ表象の僕に結びつける根拠は
実はどこにもない。そう、「コギト」はない。
でも僕らは「ぼく」というものを感じながら生きている。
それが唯一「オリジナル」なのです。
すべての出来事は「アイオーン」であり、
近づきつつあるサード・インパクトといえます。
まことに生成や出来事はパラドックスに満ちてます。
超越的な経験です。
痙攣しながらシンジはエヴァに「なる」わけです。
船木亨の『デジタルメディア時代の《方法序説》』 を読む。
読み始めて半ばのころ、
本書が出た2005年当時の書評を発見した。
しかも小泉義之の書評である。ふむふむ。
サイボーグの挙動を
モンスターが見逃すはずもありません。
小泉の書評をベタ褒めと見る向きもあるでしょう。
が、僕には全然そうではない。
船木=『デジタル』のようには、誰も語ってこなかった。
2005年のテキストだが、5年を経過したいま、
本書の知見(予見)は明確な参照となりうる。
私たちがいまどこにいて、どこに向かうのか。
それを考えぬ思想家はいない。
その問いに、当たり前のように的確で
しかし誰も着手しなかった視座から応答する。
まっことそうぜよ!
僕らはデジタル・ガンダム、デジタル・アマルガムぜよ。
船木=『デジタル』のイニシエーションなしには
哲学を語れぬ、そういう時代に私たちはいる。
一か所だけ見開きスキャンをみましょう。
「ネット・コギト」です。
もっとも、あなたが若いおかたなら、
こんなことは当たり前のことなのです。
読み始めて半ばのころ、
本書が出た2005年当時の書評を発見した。
しかも小泉義之の書評である。ふむふむ。
リンクが切れなければ「図書新聞」のここです。
サイボーグの挙動を
モンスターが見逃すはずもありません。
小泉の書評をベタ褒めと見る向きもあるでしょう。
が、僕には全然そうではない。
船木=『デジタル』のようには、誰も語ってこなかった。
2005年のテキストだが、5年を経過したいま、
本書の知見(予見)は明確な参照となりうる。
私たちがいまどこにいて、どこに向かうのか。
それを考えぬ思想家はいない。
その問いに、当たり前のように的確で
しかし誰も着手しなかった視座から応答する。
まっことそうぜよ!
僕らはデジタル・ガンダム、デジタル・アマルガムぜよ。
船木=『デジタル』のイニシエーションなしには
哲学を語れぬ、そういう時代に私たちはいる。
一か所だけ見開きスキャンをみましょう。
「ネット・コギト」です。
もっとも、あなたが若いおかたなら、
こんなことは当たり前のことなのです。