2011年11月 Archives
さきごろBSプレミアムで
『ミツバチのささやき』と『エル・スール』が
あいついで放映された。ビクトル・エリセの作品である。
懐かしい。あらためて稀なる名作だと感じる。
梗概は検索してください。
「家族」は秘密めいてつねにそこにあるが
オィディプスのそれとしてではない。
むしろ子どもは父や母とは分かたれた存在として
描かれる。子どもは常に単独だ、と思わされる。
子どもは大人の「声」にどこか上の空で生きている。
実際に子どもと触れ合う機会をもつ大人であれば、
彼はそのことにじゅうぶん気づいているはずだ。
子どもはたまさか大人の内在の平面に接することがあっても
すぐに自分らの領分=領土、自分らの平面に立脚して生きる。
「大人はわかってくれない」のではなく、そもそも
「大人にはわからない」のだ。
ぼくはそう思っている。
では『ミツバチ』と『エル・スール』のそれぞれのラストを。
『ミツバチのささやき』と『エル・スール』が
あいついで放映された。ビクトル・エリセの作品である。
懐かしい。あらためて稀なる名作だと感じる。
梗概は検索してください。
「家族」は秘密めいてつねにそこにあるが
オィディプスのそれとしてではない。
むしろ子どもは父や母とは分かたれた存在として
描かれる。子どもは常に単独だ、と思わされる。
子どもは大人の「声」にどこか上の空で生きている。
実際に子どもと触れ合う機会をもつ大人であれば、
彼はそのことにじゅうぶん気づいているはずだ。
子どもはたまさか大人の内在の平面に接することがあっても
すぐに自分らの領分=領土、自分らの平面に立脚して生きる。
「大人はわかってくれない」のではなく、そもそも
「大人にはわからない」のだ。
ぼくはそう思っている。
では『ミツバチ』と『エル・スール』のそれぞれのラストを。
「世界」12月号を読むため図書館へ。
ロビーでは先約おじさんが読みふけっていた。(笑)
で、待機。かわりに「藝術新潮」を開く。
細江英公の『薔薇刑』でしょう?三島の。
いいなあこれ。(拡大画像あり)
さて、「世界」が棚にもどったので・・。
「地中海から時代が変わる」か-テオ・アンゲロプロスの言葉
を読む。藤原章生は毎日新聞にいたジャーナリストのようだ。
読んでみると、当人が「毎日jp」に記載したこんな記事と
気分の本流はほとんど同じ。二重記事ともいえる。
「論壇時評」で高橋源一郎が解釈したイメージとは
いささか異なる、と思った。
「扉を開こう」というアンゲロプロスの発話も
EUはギリシャを見捨てるわけに行かない、
解決の扉は待てばそのうちと開くさ、
つまり「扉を開こう」=「扉は開くさ」
というニュアンスではないか?
実はアンゲロプロスはまっとうで真正な放蕩グリーク
だったりしてね。(笑)
「思考のイメージ」はかくのごとく
先立つイメージ、錯誤や思い入れに浸潤されてもいる。
アンゲロプロスのシネマの影響から、僕が錯誤を導き入れた
としてもそれが内在の平面というものだろう。
僕の未熟な記事はちいさな「過誤」として
そのままにしておきましょう。(たんに訂正が面倒)
ロビーでは先約おじさんが読みふけっていた。(笑)
で、待機。かわりに「藝術新潮」を開く。
細江英公の『薔薇刑』でしょう?三島の。
いいなあこれ。(拡大画像あり)
さて、「世界」が棚にもどったので・・。
「地中海から時代が変わる」か-テオ・アンゲロプロスの言葉
を読む。藤原章生は毎日新聞にいたジャーナリストのようだ。
読んでみると、当人が「毎日jp」に記載したこんな記事と
気分の本流はほとんど同じ。二重記事ともいえる。
「論壇時評」で高橋源一郎が解釈したイメージとは
いささか異なる、と思った。
「扉を開こう」というアンゲロプロスの発話も
EUはギリシャを見捨てるわけに行かない、
解決の扉は待てばそのうちと開くさ、
つまり「扉を開こう」=「扉は開くさ」
というニュアンスではないか?
実はアンゲロプロスはまっとうで真正な放蕩グリーク
だったりしてね。(笑)
「思考のイメージ」はかくのごとく
先立つイメージ、錯誤や思い入れに浸潤されてもいる。
アンゲロプロスのシネマの影響から、僕が錯誤を導き入れた
としてもそれが内在の平面というものだろう。
僕の未熟な記事はちいさな「過誤」として
そのままにしておきましょう。(たんに訂正が面倒)
朝日新聞=「論壇時評」。高橋源一郎。
「老人の主張 暮らしを変えよう 時代と戦おう」
////////////////////////////////////////////////////
深刻な経済危機にあえぐギリシャを訪ねた藤原章生は、
「国がどうなろうが、知った事ではない」とストを
繰り返すギリシャ人たちを「豊饒で無茶苦茶な人たち」
と呼ぶ。いったいどうしてそんなことをするのか。
彼は、76歳の監督テオ・アンゲロプロスに疑問をぶつける。
監督は自らの生涯を振り返りつつ
「いまは、戦争と比べても最悪の時代だ」と答える。
「長く西欧社会は、ギリシャも含め、本当の繁栄を
手にしたと借じてきた。だが、突如それは違うと
気づいた・・・。問題はファイナンス(金融)が
政治にも倫理にも美学にも、我々の全てに影響を与えて
いることだ。これを取り払わなくてはならない。
扉を開こう。それが唯一の解決策だ」
「扉を開こう」とは、「経済が全てに優先する、
いまの暮らしを変えよう」ということなのである。
////////////////////////////////////////////////////
実はですね、僕もギリシャ騒動の映像に
アンゲロプロスを想起したのです。
アンゲロプロスはギリシャにいるのだろうか? と。
アンゲロプロスならどうするだろう、と。
いるんですね、ギリシャに。
記事をみて、図書館に『世界』を読まんと出かけた。
が、あいにく今日は休館日で果たせなかった。
ファイナンス(金融)が政治にも倫理にも美学にも・・・
というくだりにハッとするニンゲンがいったい
どれくらいいるのだろう。
そこが「分水嶺」だと気づいているニンゲンが
わが地球上にどれほどいるというのだろう?
わずかなセンテンスだけで、アンゲロプロスの
思考のイメージが伝わってくる。
資本や金融のからくりこそはひとつのドラマ、
ひとつの政策、ひとつの書評に浸透する・・そんな予見を
わたしたちは今こそ立てておかなければならない。
以下はオマケの自炊=スキャン。
「老人の主張 暮らしを変えよう 時代と戦おう」
////////////////////////////////////////////////////
深刻な経済危機にあえぐギリシャを訪ねた藤原章生は、
「国がどうなろうが、知った事ではない」とストを
繰り返すギリシャ人たちを「豊饒で無茶苦茶な人たち」
と呼ぶ。いったいどうしてそんなことをするのか。
彼は、76歳の監督テオ・アンゲロプロスに疑問をぶつける。
監督は自らの生涯を振り返りつつ
「いまは、戦争と比べても最悪の時代だ」と答える。
「長く西欧社会は、ギリシャも含め、本当の繁栄を
手にしたと借じてきた。だが、突如それは違うと
気づいた・・・。問題はファイナンス(金融)が
政治にも倫理にも美学にも、我々の全てに影響を与えて
いることだ。これを取り払わなくてはならない。
扉を開こう。それが唯一の解決策だ」
「扉を開こう」とは、「経済が全てに優先する、
いまの暮らしを変えよう」ということなのである。
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実はですね、僕もギリシャ騒動の映像に
アンゲロプロスを想起したのです。
アンゲロプロスはギリシャにいるのだろうか? と。
アンゲロプロスならどうするだろう、と。
いるんですね、ギリシャに。
記事をみて、図書館に『世界』を読まんと出かけた。
が、あいにく今日は休館日で果たせなかった。
ファイナンス(金融)が政治にも倫理にも美学にも・・・
というくだりにハッとするニンゲンがいったい
どれくらいいるのだろう。
そこが「分水嶺」だと気づいているニンゲンが
わが地球上にどれほどいるというのだろう?
わずかなセンテンスだけで、アンゲロプロスの
思考のイメージが伝わってくる。
資本や金融のからくりこそはひとつのドラマ、
ひとつの政策、ひとつの書評に浸透する・・そんな予見を
わたしたちは今こそ立てておかなければならない。
以下はオマケの自炊=スキャン。
「概念的人物」とは何者か?
「2 内在平面」に続きぬっと出てくる。(笑)
////////////////////////////////////////////////////
デカルトのコギトは
概念として創造されたものであるが、
しかしそれにはいくつかの前提がある。
けれども、ひとつの概念にとって
他のいくつかの概念が前提になるようにして
(たとえば「人間」にとって「動物」および
「理性的」が前提になるようにして)、
前提があるわけではない。
いくつかの前提というのは、この場合、暗黙の、
主観的な、概念以前的前提のことであって、
それらが、ひとつの<思考のイメージ>を形成して
いるのである-すなわち、すべてのひとは
<思考する>ということが何を意味するか知っている、
すべてのひとは思考する可能性をもっている、
すべてのひとは真理を欲している・・・・
〔という前提である〕。
では、それら二つのエレメント以外に、
すなわち概念と、内在平面つまり思考のイメージ以外に、
何か他のものが存在するのだろうか。
思考のイメージとは、同じ群に属するいくつかの概念
(コギトおよびそれと繋がりうる諸概念)
によって占拠されるはずのものである。
デカルトのケースにおいて、創造されたコギト概念と、
前提された思考のイメージのほかに、
何か他のものが存在するのだろうか。
いささか神秘的な他のものが、
実際に存在するのである。
それは、時おり出現し、
あるいは透けて見えたりするものである。
しかもそれは、前概念的〔内在〕平面と概念との
あいだで行ったり来たりする、中間的な、
或る朧な存在をもっているように思われる。
それは、さしあたって、《白痴》である。
《私》と言うのはまさに彼であり、
コギトを発するのはまさに彼であり、
主観的諸前提を抱え込んだり
平面を描いたりするのも、まさしく彼である。
白痴とは、公的教授(スコラ哲学者)に対する
私的思想家である。
教授は、教えることのできる概念
(人間-理性的動物)をたえず指示するのだが、
私的思想家は、ひとつの概念
(私は思考する〔コギト〕)を、
誰でもがそれぞれの立場で権利上所有している
生得的な諸力によって形成する。
そこには、とても奇妙なタイプの〔概念的〕人物が
現れている。それは、思考することを欲し、
「自然の光〔理性〕」によって、
自分自身で思考する者である。
白痴とは、ひとつの概念的人物である。
////////////////////////////////////////////////////
1.主体はコギトにあらず。むしろそれに繋がる
おぼろな存在である。
2.概念的人物とは私的思想家のことである。
3.それを「白痴」と呼称する。
4.「自然の光〔理性〕」とはたとえばスピノザを思え。
大阪=堀江。
「2 内在平面」に続きぬっと出てくる。(笑)
////////////////////////////////////////////////////
デカルトのコギトは
概念として創造されたものであるが、
しかしそれにはいくつかの前提がある。
けれども、ひとつの概念にとって
他のいくつかの概念が前提になるようにして
(たとえば「人間」にとって「動物」および
「理性的」が前提になるようにして)、
前提があるわけではない。
いくつかの前提というのは、この場合、暗黙の、
主観的な、概念以前的前提のことであって、
それらが、ひとつの<思考のイメージ>を形成して
いるのである-すなわち、すべてのひとは
<思考する>ということが何を意味するか知っている、
すべてのひとは思考する可能性をもっている、
すべてのひとは真理を欲している・・・・
〔という前提である〕。
では、それら二つのエレメント以外に、
すなわち概念と、内在平面つまり思考のイメージ以外に、
何か他のものが存在するのだろうか。
思考のイメージとは、同じ群に属するいくつかの概念
(コギトおよびそれと繋がりうる諸概念)
によって占拠されるはずのものである。
デカルトのケースにおいて、創造されたコギト概念と、
前提された思考のイメージのほかに、
何か他のものが存在するのだろうか。
いささか神秘的な他のものが、
実際に存在するのである。
それは、時おり出現し、
あるいは透けて見えたりするものである。
しかもそれは、前概念的〔内在〕平面と概念との
あいだで行ったり来たりする、中間的な、
或る朧な存在をもっているように思われる。
それは、さしあたって、《白痴》である。
《私》と言うのはまさに彼であり、
コギトを発するのはまさに彼であり、
主観的諸前提を抱え込んだり
平面を描いたりするのも、まさしく彼である。
白痴とは、公的教授(スコラ哲学者)に対する
私的思想家である。
教授は、教えることのできる概念
(人間-理性的動物)をたえず指示するのだが、
私的思想家は、ひとつの概念
(私は思考する〔コギト〕)を、
誰でもがそれぞれの立場で権利上所有している
生得的な諸力によって形成する。
そこには、とても奇妙なタイプの〔概念的〕人物が
現れている。それは、思考することを欲し、
「自然の光〔理性〕」によって、
自分自身で思考する者である。
白痴とは、ひとつの概念的人物である。
////////////////////////////////////////////////////
1.主体はコギトにあらず。むしろそれに繋がる
おぼろな存在である。
2.概念的人物とは私的思想家のことである。
3.それを「白痴」と呼称する。
4.「自然の光〔理性〕」とはたとえばスピノザを思え。
大阪=堀江。
『哲学とは何か』には
ドゥルーズにとって重要な概念である「内在平面」の
章が立てられている。「3 概念的人物」がそれに続く。
この箇所の移り行きは蠱惑的だ。
さて、ドゥルーズのセンテンスといっても、
それは「翻訳」されたものであり、
その意味では財津理氏に負うことが多いわけだが、
実際のイメージの塊りは翻訳者の仲介を意識することなく
内在に萌芽し育成もされる。
そのうえで言うのだが、たとえば『哲学とは何か』の
「2 内在平面」の最終部分を読むとき、
そこに「内在平面」が要約されている、と
思ってしまう。それは錯覚か?
僕は実際にはあらゆるページに「錯覚」してしまう。
それが正直な、つまり「告白」なのです。(笑)
////////////////////////////////////////////////////
絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに
深い内部であるがゆえに、あらゆる外面的世界よりも
さらに遠い外である。すなわちそれは、内在であり、
「《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、
両者の相互反転」である。
〔内在〕平面の絶えざる<行ったり-来たり> -無限運動。
それはおそらく、哲学の至高の行為である。
すなわち、内在平面ソノモノを思考するというよりは
むしろ、内在平面ソノモノが、それぞれの平面において
思考されないものとして現にあるということを示す、
ということである。
内在平面を、そのような仕方で、
思考の内部にして外部たるものとして、つまり、
外面的ではない外部、もしくは内面的ではない内部として
思考することが必要なのだ。
思考されえないにもかかわらず
思考されなければならないものとは、
キリストがかつて、不可能なものの可能性を
そのとき示すために受肉したように、
かつて思考されたものなのである。
したがって、スピノザこそ哲学者たちのキリストであり、
そしてもっとも偉大な哲学者たちでさえも、
この神秘から離れていたり
それに接近していたりする違いはあるにせよ、
その使徒にすぎないと言ってよいだろう。
無限な<哲学者への-生成>、スピノザ。
「最善」 の、すなわちもっとも純粋な内在平面、
超越的なものに身をまかせることはなく、
超越的なものを回復することもない内在平面、
錯覚を、悪感情を、知覚錯誤を鼓舞することの
もっとも少ない内在平面、
これを、スピノザが示し、打ち立て、思考したのである・・・・。
////////////////////////////////////////////////////
いかがです?
プリントアウトしてお便所に貼って、
毎日にらめっこする。と、すっとわかっちゃいます。
猥雑な電線がこの国の「文化」ならば、
それを「卑近美」として絵にすればいいのだ。
大阪=なんば。
ドゥルーズにとって重要な概念である「内在平面」の
章が立てられている。「3 概念的人物」がそれに続く。
この箇所の移り行きは蠱惑的だ。
さて、ドゥルーズのセンテンスといっても、
それは「翻訳」されたものであり、
その意味では財津理氏に負うことが多いわけだが、
実際のイメージの塊りは翻訳者の仲介を意識することなく
内在に萌芽し育成もされる。
そのうえで言うのだが、たとえば『哲学とは何か』の
「2 内在平面」の最終部分を読むとき、
そこに「内在平面」が要約されている、と
思ってしまう。それは錯覚か?
僕は実際にはあらゆるページに「錯覚」してしまう。
それが正直な、つまり「告白」なのです。(笑)
////////////////////////////////////////////////////
絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに
深い内部であるがゆえに、あらゆる外面的世界よりも
さらに遠い外である。すなわちそれは、内在であり、
「《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、
両者の相互反転」である。
〔内在〕平面の絶えざる<行ったり-来たり> -無限運動。
それはおそらく、哲学の至高の行為である。
すなわち、内在平面ソノモノを思考するというよりは
むしろ、内在平面ソノモノが、それぞれの平面において
思考されないものとして現にあるということを示す、
ということである。
内在平面を、そのような仕方で、
思考の内部にして外部たるものとして、つまり、
外面的ではない外部、もしくは内面的ではない内部として
思考することが必要なのだ。
思考されえないにもかかわらず
思考されなければならないものとは、
キリストがかつて、不可能なものの可能性を
そのとき示すために受肉したように、
かつて思考されたものなのである。
したがって、スピノザこそ哲学者たちのキリストであり、
そしてもっとも偉大な哲学者たちでさえも、
この神秘から離れていたり
それに接近していたりする違いはあるにせよ、
その使徒にすぎないと言ってよいだろう。
無限な<哲学者への-生成>、スピノザ。
「最善」 の、すなわちもっとも純粋な内在平面、
超越的なものに身をまかせることはなく、
超越的なものを回復することもない内在平面、
錯覚を、悪感情を、知覚錯誤を鼓舞することの
もっとも少ない内在平面、
これを、スピノザが示し、打ち立て、思考したのである・・・・。
////////////////////////////////////////////////////
いかがです?
プリントアウトしてお便所に貼って、
毎日にらめっこする。と、すっとわかっちゃいます。
猥雑な電線がこの国の「文化」ならば、
それを「卑近美」として絵にすればいいのだ。
大阪=なんば。
B737-800は完璧なモデルとみた。
実にシンプル。実にスタンダード。
TVなし。オーディオなし。
座席、通路は狭い。
けれどこれが飛行機というものだ、と思わせる。
それをスカイマークが使っている。
その組み合わせがいいではありませんか。
行きはWeb割で神戸まで5800円。
今回の大阪行きは学ぶことが多かった。
ひとつがスカイマーク。
加えて「阪神なんば線」。
アナタ知ってます?
僕は知らなかった。2009年3月に開通している。
尼崎から難波に行くのだ。さらに奈良まで行ける。
梅田に出る必要がない。
大阪滞在中に知った。
で、ためしに帰路は大阪難波から
乗り換えなしの17:34発、阪神三宮行きを使ってみた。
(日曜ダイヤです)
18:18に着く。所要44分。
まあ「大阪難波」は「南海なんば」からは、ちと遠いし、
「阪神三宮」からポートライナーまでもね、
ちょっと離れてて、なんですが、まあいいのです。
ひとり旅ではそれも楽しいものなのです。
ルイ・ヴィトンの卵。心斎橋。
実にシンプル。実にスタンダード。
TVなし。オーディオなし。
座席、通路は狭い。
けれどこれが飛行機というものだ、と思わせる。
それをスカイマークが使っている。
その組み合わせがいいではありませんか。
行きはWeb割で神戸まで5800円。
今回の大阪行きは学ぶことが多かった。
ひとつがスカイマーク。
加えて「阪神なんば線」。
アナタ知ってます?
僕は知らなかった。2009年3月に開通している。
尼崎から難波に行くのだ。さらに奈良まで行ける。
梅田に出る必要がない。
大阪滞在中に知った。
で、ためしに帰路は大阪難波から
乗り換えなしの17:34発、阪神三宮行きを使ってみた。
(日曜ダイヤです)
18:18に着く。所要44分。
まあ「大阪難波」は「南海なんば」からは、ちと遠いし、
「阪神三宮」からポートライナーまでもね、
ちょっと離れてて、なんですが、まあいいのです。
ひとり旅ではそれも楽しいものなのです。
ルイ・ヴィトンの卵。心斎橋。
久しぶりに大阪に行って来た。
今回の目的はシャシン。
以下は副産物。
(いずれも拡大画像あり)
大阪市立美術館。23日まで。
個人蔵を含め国内に存在するありとあらゆる岸田劉生を
網羅的に出展していた。(ものと思われる)
夏にポーラ美術館でみた麗子もいました。
(左下。横にリンゴのある。)
「岸田の首狩り」というらしい。
彼が数多く手がけた頭部だけの肖像画のこと。
夥しいばかりの知人の「首狩り」。
(そのなかによく知られた実篤もある)
自画像にいたっては2,30枚もある。
一種の「偏執」といえる。
それと、
彼は「卑近美」と称して身近な風景や静物を
数多く描いている。
「卑近美」という概念、いいですね。
そう。そこいらにあるのです。見るべきブツは。
それらを親しく美しく感得して生きていけば
生はそれだけでも豊かで満ちたものになります。
こちらは京都国立近代美術館。始まったばかり。
川西英のコレクションの全公開。
こちらも膨大なもの。
京都では、六本木で一度行った
「ワシントンナショナルギャラリー展」にも。
今回の目的はシャシン。
以下は副産物。
(いずれも拡大画像あり)
大阪市立美術館。23日まで。
個人蔵を含め国内に存在するありとあらゆる岸田劉生を
網羅的に出展していた。(ものと思われる)
夏にポーラ美術館でみた麗子もいました。
(左下。横にリンゴのある。)
「岸田の首狩り」というらしい。
彼が数多く手がけた頭部だけの肖像画のこと。
夥しいばかりの知人の「首狩り」。
(そのなかによく知られた実篤もある)
自画像にいたっては2,30枚もある。
一種の「偏執」といえる。
それと、
彼は「卑近美」と称して身近な風景や静物を
数多く描いている。
「卑近美」という概念、いいですね。
そう。そこいらにあるのです。見るべきブツは。
それらを親しく美しく感得して生きていけば
生はそれだけでも豊かで満ちたものになります。
こちらは京都国立近代美術館。始まったばかり。
川西英のコレクションの全公開。
こちらも膨大なもの。
京都では、六本木で一度行った
「ワシントンナショナルギャラリー展」にも。
新聞広告の下段突き出しで
雑誌や週刊誌を読んだ気分になれますよね。
だけど今回、
分厚い「噂の真相」というべき『文藝春秋12月号』を
スーパーでの買い物のついでにカゴにいれた。
(見出しの拡大画像あり)
まずは尾崎豊の「遺書」を読み、
続いて「真相開封35」。
スキャンダラスだけど、テレビよりましか。(笑)
それはそうと
「書籍が勝手にスキャンされている!」
という自社広告も本誌に1ページ分出している。
それによれば、
「書籍を裁断・スキャンし、デジタルデータにする複製」
のことを「自炊」というらしい。
いや初耳でした。驚き。「自炊」ときたね。
「スキャン事業者という第三者が対価を取り、
本人に代わって書籍をスキャンし、デジタル化するビジネスは、
著作権上、許されない違法行為」
ふむふむ。
個人でチマチマするのは許されるらしい。
代行業者が存在するんですねえ。やりますな。
コレたぶんね、需要がうんとあるんですよ。
だから代行してやってあげますよ、てなるのです。
必要は発明の母ですもん。
雑誌や週刊誌を読んだ気分になれますよね。
だけど今回、
分厚い「噂の真相」というべき『文藝春秋12月号』を
スーパーでの買い物のついでにカゴにいれた。
(見出しの拡大画像あり)
まずは尾崎豊の「遺書」を読み、
続いて「真相開封35」。
スキャンダラスだけど、テレビよりましか。(笑)
それはそうと
「書籍が勝手にスキャンされている!」
という自社広告も本誌に1ページ分出している。
それによれば、
「書籍を裁断・スキャンし、デジタルデータにする複製」
のことを「自炊」というらしい。
いや初耳でした。驚き。「自炊」ときたね。
「スキャン事業者という第三者が対価を取り、
本人に代わって書籍をスキャンし、デジタル化するビジネスは、
著作権上、許されない違法行為」
ふむふむ。
個人でチマチマするのは許されるらしい。
代行業者が存在するんですねえ。やりますな。
コレたぶんね、需要がうんとあるんですよ。
だから代行してやってあげますよ、てなるのです。
必要は発明の母ですもん。
『流れる』(成瀬巳喜男 1956)をみる。
ch239で一回きりなので、録画し忘れないように
張り紙をしていた。(笑)
幸田文の原作が1955年なのだそうだ。
その翌年にはできている。成瀬の気合が知れる。
幸田文=「流れる」の梗概=成瀬巳喜男、それらについては
周辺を自身でWikiしてくださいませ。
落ちぶれてゆく置屋、
そこで暮らす芸子たちをとりまくさまざまな模様を
見てすごすお春(田中絹代)のまなざしがいい。
当時の名女優たちの芸は見事である。
山田五十鈴と杉村春子の 三味線と清元。
人間国宝級ですね。
こんな映画を21世紀の技術で見れるということ、
それがどれほど革新的な「芸術」であるか、
それに気づいている人がどれくらいいるだろう?
「人間であることの恥辱」を映し出すしか能のない
現代アホテレビ。アホ番組。
それを繰り出す同じ機械装置で、
私たちはドゥルーズがなかばあきらめていた属性を
ふたたび手に入れることができるのです。
それこそが「来るべきビデオクリップ」なのだ、と
僕は確信しています。
畏怖して感謝すべきパラドックスです。
ま、それはともかく『流れる』のラスト6分です。
スタンダードです。
ch239で一回きりなので、録画し忘れないように
張り紙をしていた。(笑)
幸田文の原作が1955年なのだそうだ。
その翌年にはできている。成瀬の気合が知れる。
幸田文=「流れる」の梗概=成瀬巳喜男、それらについては
周辺を自身でWikiしてくださいませ。
落ちぶれてゆく置屋、
そこで暮らす芸子たちをとりまくさまざまな模様を
見てすごすお春(田中絹代)のまなざしがいい。
当時の名女優たちの芸は見事である。
山田五十鈴と杉村春子の 三味線と清元。
人間国宝級ですね。
こんな映画を21世紀の技術で見れるということ、
それがどれほど革新的な「芸術」であるか、
それに気づいている人がどれくらいいるだろう?
「人間であることの恥辱」を映し出すしか能のない
現代アホテレビ。アホ番組。
それを繰り出す同じ機械装置で、
私たちはドゥルーズがなかばあきらめていた属性を
ふたたび手に入れることができるのです。
それこそが「来るべきビデオクリップ」なのだ、と
僕は確信しています。
畏怖して感謝すべきパラドックスです。
ま、それはともかく『流れる』のラスト6分です。
スタンダードです。
「内在平面」はドゥルーズの重要な概念です。
それがどのようなものかも論じられてもきた。
ドゥルーズ自身さまざまな場所で触れている。
ここでは『哲学とは何か』から抜粋する。
////////////////////////////////////////////////////
思考するということは、
一般的な無差異〔いずれの側にも傾かないこと〕の状態を
引き起こす。それでもなお、思考することは
ひとつの危険な営みであると言っても間違いではない。
無差異の状態が止むのは、もろもろの危険が
明白になるときだけであるとさえ言えるのだが、
しかしそれらの危険は、しばしば隠れたままである。
ほとんど気づかれず、企てに内属しているからである。
ところで、内在平面は前-哲学的なものであり、
もとより概念によって作動するわけではない。
だからこそ、内在平面は、一種の手探り状態の実験を
折り込んでいるのであり、内在平面の描出は、
ほとんどおおっぴらにできない手段、
ほとんど適切でなく合理的でない手段に依拠して
いるのである。それは、夢、病的なプロセス、
秘教的な経験、酩酊あるいは過度といったレヴエルに
属する手段である。
ひとは、内在平面の上で、地平線に向かって走る。
そしてひとは、たとえ精神の目であっても、
自分の目を真っ赤にしてそこから戻る。
デカルトでさえも、おのれの夢をもっている。
思考すること、それはいつでも、
魔女の飛翔の線を追うことだ。
たとえば、猛り狂った無限運動と無限速度をそなえた、
ミショーの内在平面。
たいていの場合、そうした〔内在平面の描出の〕手段は、
結果のなかには現れないものである。
というのも、結果は、もっぱら結果そのものにおいて
かつ冷静に把握しなければならないものだからである。
しかしそのとき、「危険」は別の意味をもつ。
明白になった諸帰結ばかり問題にしているときにも、
純粋内在がオピニオンのなかに
或る本能的な強い拒絶を引き起こし、
創造された諸概念の本性が
さらにそうした拒絶を激化させるということだ。
それというのも、ひとは、思考するときには必ず、
他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、
或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、
それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させるからである。
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上記の箇所こそが適切な抜粋だとは思わないが
僕にはこんな言い回しが一番わかりやすいのだ。
なによりドゥルーズらしい表現だと気に入っている。
ちょっと乱暴かもしれないが、
1.内在平面は「概念」とは区別される。
2.内在平面は内在平面そのものの脱領土化へと向かう。
3.内在平面は摘出できない。
そのようなものと理解しているのです、僕は。
子どもたちが社会を震撼させる事件を起こしたときに
教育業界者さんの常套句となる「こころの闇」。
それこそは「内在平面」の諸問題だと思ってきました。
「こころ」といえばまだすむものを「こころの闇」という。
それがものごとを台無しにしている。
「闇」なんかではない。
だれにでもある「内在平面」の諸問題なのだ。
ドゥルーズは難解なことを言っているのではない。
「こころ」はあまりに手垢がつきすぎた概念だ。
新しく「内在平面」や「思考のイメージ」と言い表すことにより
私たちに現に今生きられている生の秘密を解き明かそうと
しているのです。
描出=摘出=表象できないplan(平面)について
実際のところ何も知ってはいないのではあるが。
庭にやってきたアサギマダラ。
それがどのようなものかも論じられてもきた。
ドゥルーズ自身さまざまな場所で触れている。
ここでは『哲学とは何か』から抜粋する。
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思考するということは、
一般的な無差異〔いずれの側にも傾かないこと〕の状態を
引き起こす。それでもなお、思考することは
ひとつの危険な営みであると言っても間違いではない。
無差異の状態が止むのは、もろもろの危険が
明白になるときだけであるとさえ言えるのだが、
しかしそれらの危険は、しばしば隠れたままである。
ほとんど気づかれず、企てに内属しているからである。
ところで、内在平面は前-哲学的なものであり、
もとより概念によって作動するわけではない。
だからこそ、内在平面は、一種の手探り状態の実験を
折り込んでいるのであり、内在平面の描出は、
ほとんどおおっぴらにできない手段、
ほとんど適切でなく合理的でない手段に依拠して
いるのである。それは、夢、病的なプロセス、
秘教的な経験、酩酊あるいは過度といったレヴエルに
属する手段である。
ひとは、内在平面の上で、地平線に向かって走る。
そしてひとは、たとえ精神の目であっても、
自分の目を真っ赤にしてそこから戻る。
デカルトでさえも、おのれの夢をもっている。
思考すること、それはいつでも、
魔女の飛翔の線を追うことだ。
たとえば、猛り狂った無限運動と無限速度をそなえた、
ミショーの内在平面。
たいていの場合、そうした〔内在平面の描出の〕手段は、
結果のなかには現れないものである。
というのも、結果は、もっぱら結果そのものにおいて
かつ冷静に把握しなければならないものだからである。
しかしそのとき、「危険」は別の意味をもつ。
明白になった諸帰結ばかり問題にしているときにも、
純粋内在がオピニオンのなかに
或る本能的な強い拒絶を引き起こし、
創造された諸概念の本性が
さらにそうした拒絶を激化させるということだ。
それというのも、ひとは、思考するときには必ず、
他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、
或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、
それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させるからである。
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上記の箇所こそが適切な抜粋だとは思わないが
僕にはこんな言い回しが一番わかりやすいのだ。
なによりドゥルーズらしい表現だと気に入っている。
ちょっと乱暴かもしれないが、
1.内在平面は「概念」とは区別される。
2.内在平面は内在平面そのものの脱領土化へと向かう。
3.内在平面は摘出できない。
そのようなものと理解しているのです、僕は。
子どもたちが社会を震撼させる事件を起こしたときに
教育業界者さんの常套句となる「こころの闇」。
それこそは「内在平面」の諸問題だと思ってきました。
「こころ」といえばまだすむものを「こころの闇」という。
それがものごとを台無しにしている。
「闇」なんかではない。
だれにでもある「内在平面」の諸問題なのだ。
ドゥルーズは難解なことを言っているのではない。
「こころ」はあまりに手垢がつきすぎた概念だ。
新しく「内在平面」や「思考のイメージ」と言い表すことにより
私たちに現に今生きられている生の秘密を解き明かそうと
しているのです。
描出=摘出=表象できないplan(平面)について
実際のところ何も知ってはいないのではあるが。
庭にやってきたアサギマダラ。
前立腺がんPSA検査関連の朝日新聞の記事。
(2011.11.1)
「様子見」療法とでもよぶ現在の状況です。
(拡大画像があります)
同じ症状をもってらっしゃる方がおられるでしょう。
僕は2年間で4台から7近くまで上昇しています。
10になったら生体検査を受けようと思います。
新聞の記事の方は最初から検査を受け
「がん」と診断されています。
僕はがんである確立的は33%といわれました。
「検査しますか?」
「今回は見合わせます」
自分の意思で受けませんでした。
生体検査でもみつからないケースがある、と
言われたからです。
前立腺炎もあるのでセルニルトンを
服用してはいます。
2年前の僕の判断、正しかったかどうかは
わかりません。いずれ結果はでるでしょう。
ただしPSA検査は毎年血液検査の項目に
追加して入れてもらっています。
これも、医療センターの泌尿器科ではなく
かかりつけの内科での血液検査です。
待ち時間と医療費の節約になります。(笑)
当然内科医は何のコメントも出しません。
医療センターの泌尿器科に出向くタイミングは
僕が決めなければなりません。
新聞記事にあるガイドラインは
日本泌尿器学科学会のものです。
多少は「政治性」もあるでしょう。
このガイドラインでは6.92の僕は
精密検査を受けることになります。
2年半ほってきたわけです。
そろそろ受けるべきかもしれません。
だけどまあだ受けないでしょうね、きっと。(笑)
(2011.11.1)
「様子見」療法とでもよぶ現在の状況です。
(拡大画像があります)
同じ症状をもってらっしゃる方がおられるでしょう。
僕は2年間で4台から7近くまで上昇しています。
10になったら生体検査を受けようと思います。
新聞の記事の方は最初から検査を受け
「がん」と診断されています。
僕はがんである確立的は33%といわれました。
「検査しますか?」
「今回は見合わせます」
自分の意思で受けませんでした。
生体検査でもみつからないケースがある、と
言われたからです。
前立腺炎もあるのでセルニルトンを
服用してはいます。
2年前の僕の判断、正しかったかどうかは
わかりません。いずれ結果はでるでしょう。
ただしPSA検査は毎年血液検査の項目に
追加して入れてもらっています。
これも、医療センターの泌尿器科ではなく
かかりつけの内科での血液検査です。
待ち時間と医療費の節約になります。(笑)
当然内科医は何のコメントも出しません。
医療センターの泌尿器科に出向くタイミングは
僕が決めなければなりません。
新聞記事にあるガイドラインは
日本泌尿器学科学会のものです。
多少は「政治性」もあるでしょう。
このガイドラインでは6.92の僕は
精密検査を受けることになります。
2年半ほってきたわけです。
そろそろ受けるべきかもしれません。
だけどまあだ受けないでしょうね、きっと。(笑)