2010年9月 Archives

ULTRON 40mmF2

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ULTRON 40mm F2 を装着すると
こんなふうになりますな。



パンケーキレンズは見るからに愛らしい。
ポルコ・ロッソの鼻のようで。

でまあ、商店街のカレを今日もモデルにした。



カレの向きが昨日と変わっていて、
店内が映り込んでいる。
うーむ。乱視もあるのでピントがつかみにくい。
そこそこ遊びだからね。愉しめればいいわけで。

昨日のカレは FA43mm F1.9 (K20D) です。これ。

記号と事件

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小泉義之は討議「来るべきドゥルーズ」のなかで
文庫化されて手にしやすくなったドゥルーズを
鋭意読み込んだ若者が出ることに期待する、
というようなことを言っていたと思う。
同感だ。
分厚い『千のプラトー』を持ち歩くわけにはゆかない。
寝転がって読むことも難しい。
単行本より少しは安い。
(それほど安くはないんですよね、これが)

ともかく僕みたいな爺にはもう時間がない。
若者が取り組み、新しい時代にふさわしい提言を
新しい概念のもとに言い始めるしかない(ように思う)。
それにはドゥルーズとその周辺を
字義通り読み込むことが必要だと思うのだ。

ジジイは 『記号と事件』は図書館から借りて読んだ。
今回、文庫本を買った。
文庫版あとがきによると、
訳語の手直しをした、とある。
なるほど。それは必要だろう。
読み手には統一されたタームの方がいい。
訳語だけではなく一部は全面的に改訳した、ともある。
これを機にアタマから新しい気持ちで再読しようと思う。

来るべきドゥルーズ

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老人はときおりマニュアルフォーカスで撮影しては
ピント・視度やらの確認をする。気まぐれにですが。
下の絵には拡大画像がありますので、見れたらどうぞ。
ピントが"12"にきてますでしょ?



フォクトレンダー ULTRON 40mm てのを使いたくて
とりあえずはフルサイズで自分の基本力能を
チェックするというわけです。ホントのところは。

閑話休題。
絵にある「現代思想12月号」(2008年)は
エポックメイキングであった。
「ドゥルーズは自分でぼちぼちやるから・・」と
買うのをしばらくためらったが
購入後そんな思いは粉砕された。

まずは小泉義之と檜垣立哉の討議、「来るべきドゥルーズ」。
ドゥルーズの位置づけを整理してくれた。
もひとつは日本初訳の『シネマ』翻訳の顛末。

「現代思想12月号」(2008年)という事物と
僕がそれをしぶしぶ(?)買ったという事態は
ジュンク堂での出合い・せめぎあいを繰り返し、
やがて出来事=事件となった。
その経緯にはたしかに
結晶イマージュに似た非知覚的な生成の流れがある、
・・ように思われる。
『シネマ』のそれぞれの翻訳者の熱い語りを
胡散臭く感じはしているものの
僕の「不明」も当然のことながら介入している。

王子の煙突

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村田刑事の向こう側に煙突が見える。



たぶん「王子の煙突」でしょう。
佇んでいる場所は勇払の海岸だと思う。
この場所ではないか。



村田刑事が喪失したものは
妻、仕事への情熱だけではない。
親しかった世界、まっすぐな道理、自信、信頼・・・
まさにファロスですね。
まっすぐのびる道路も同じ象徴かな。
(オィディプス=クリシェそのもので申し訳ないが)

ニンゲンは村田刑事のようにイメージに翻弄され、
それでも反省的に生きる。
同時にイメージを組成し、ほぐし、また組成し
反省を繰り返す。
あれは実際に起きたことだったのか、単に幻視なのか、
不分明のまま生きていくしかないかのようだ。

それでいいのだ。
まっすぐなものがあるわけがない。
迂回し逡巡して生きるのがまっとうなのだ。
村田刑事に悲劇性をみるのではなく
ニンゲンのありうべき美しい「襞」、美しい「綾」をみる・・
生成変化を受け入れる・・

どうでしょうか?

日本製紙勇払工場

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この場所、今回の苫小牧行きでは特定できなかった。
(『フリック』の冒頭とエンディングは同一シーン)



行く前は勇払に違いないと思っていたが、



・・あきらかに別物だ。支柱・柵がない。
こちらは日本製紙勇払工場の煙突。

海岸線に出て撮る。
勇払に心が残り、2日わたって足を入れた。

さて、
「煙突」の符牒といえば、精神分析的な
通俗化したクリシェが適用されることになりそうだ。
しかし随所にそれとなく現れる煙突は
やはり村田刑事が失ったそのものを想起させる。

記号と事件

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ジュンク堂で河出文庫の『記号と事件』を買う。



ついでに『批評と臨床』も。
バッグに入れておけば気儘に読める。うむ。

その文庫版『記号と事件』でいうと245ページ。

哲学者は反省するのではなく創造する人間だ

タイトルにみえるがそうでもない。センテンスだ。
この前後はいいですよ。
なにより『シネマ』の経緯がわかる。

◎不毛の時代が来ると、
哲学は「・・・について」の反省に逃避していく・・。
自分では何も創造できないとなれば、「・・・について」
反省する以外に何ができるでしょうか?◎

今日は福岡は暑い。
ここ新天町マックもエアコンがぬるい。
僕はこれから博多に出る。
「かつ亭」の味が復活したかを検証しにね。(笑)
のんきだなあ。

・・・・・
MTのパーマリンクは不変なので
毎度のように追加記事。(2時間経過)
14時を過ぎてたかもね、店入りしたのは。
誰もいなくてゆったりとテーブル席で食す。
ご主人はいなくて女の方がやっていた。
ちょっといやな予感がした。
・・・が、ロースカツが運ばれてきた瞬間、確信。
そう。ジューシーで味はバッチリだった。
やはり前回だけが変だったのか。
口蹄疫の最中だったからなあ。
これでまた「かつ亭」ができますな。

ベイコンのトリプティク

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ベイコンの数あるトリプティクのうち
これはなかでも衝迫的だろう。
三幅対のセンター部である。
キリスト教の伝統都的なトリプティクとのあまりもの断絶に
驚くとおもいます。
しかも家畜の解体=逆さ吊りです。



ベイコンその人は「否定」し、
「うそぶいて」もいたらしいが、
中央にはこのお方らしい刷り込みがあるのに気付きますか?



字義どおりの「襞」だなあ。
これはセンター部だけど
トリプティクの左右両側にも強力な磁場がある。
まずはこの絵が
あなたの何かに触れるなら、他も鋭意あたってみてください。

その過程でベイコンならではの「倫理」にゆきあたるでしょう。
「倫理」とはかくもしたたかな力なのです。

記号と事件

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僕は20代の半ばに子供たちに対して
きみたち、「光の束」という言葉から何をイメージする?
と発問したことがあった。

一方『記号と事件』の中では
「汚名に塗れた人とは光の束と音響の波動に
とらわれた微粒子のことなのです」とドゥルーズはいっている。
(汚名に塗れた人、とはフーコーの概念)

翻訳ではあるが同じ「光の束」というターム。
ふしぎだ。

さてこの『記号と事件』。河出文庫に生成(!)した。
さっそく買わなきゃね。
1冊だからバッグに入れて旅先で読める。
何度読んでもどこから読んでもオーケーだ。
ドゥルーズが今次々に文庫化されている。ブームなのか。
『シネマ』の翻訳あたりから新しい火がついたのかな。
そんな気がする。
いずれにせよ、歓迎だ。



"Actualité des arts plastiques" でBaconのポジを入手した。
ルーペにレンズを真上から。

ジュンク堂ではマイケル・ペピアットの
「フランシス・ベイコン」を読みふけった。
4階の美術書書架から持ち出して2階のカウンタ。



もう一冊、フィリップ・ソレルスの
『フランシス・ベイコンのパッション』(三元社)

今日はマクドナルドの泥水のような冷コーを
2杯やりました。エアコンはギンギンだった。
急ぎ足で涼しくなった一日。



にらチャンポン=福新樓でのアソビ。
(at the Shintenchō McDonald's.)
NPG= National Portrait Galleryに
Francis Goodmanのポートレイト作品がある。
(検索にて)

先の「みずゑ」ベイコンの別ショットがあった。
ぜひサムネールを拡大されたし。



出で立ちが同じだ。
ベイコンのおとぼけ顔(?)がいいなあ。独特。
1972年とあるから「みずゑ」と同年だ。
ベイコン63歳か?
いまの僕くらいだ。最盛期?円熟期?。
(at the Shintenchō McDonald's.)

フランシス・ベイコン

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ベイコンについては『磔刑』を知るのみだ。
(イェルク・ツィンマーマン 五十嵐訳 三元社 2006年)
それだけでも強度は十分だけど。
いまあちらこちらでベイコンについて精査中なんです、実は。
明日はジュンク堂で時間をかけてやる予定。



この絵は、「みずゑ」のNO.810 1972年 の見開き。
(これはネットにもないと思うので)
ベイコン知らない方のために。
この絵だけで、あなたの潜在イマージュに
何かが顕現しますか?
何かが滲み出てきますか?

ドゥルーズには
『感覚の論理~画家フランシス・ベーコン論』がある。
が、ベイコンに限らず、スピノザ、カフカ、フーコーを
ドゥルーズの著作にみたいと考える余裕がない。
ドゥルーズ本人のことで手にあまる。
そのうちにね。読みましょう。

72年の『みずゑ』のものは
フランシス・グッドマンという写真家によって
撮影されている。
これは僕のラインだけど、
おのおのがいわば秘儀をもって何かに接近してゆく。
概念化はそのようにして始められる場合がある。
ポートレートのモデルとしてのベイコンに何か
!と感じる。
他のモデルには感じられない何か、だ。
①全身である。
②表情は不自然を装ったふうである。
(彼の意図だとおもう)
③ポートレイトが何たるかを撮影者以上に知っている。
④全体に「いかがわしい」ムードである。

記号と事件

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心象風景は私たちの中にあるのではない。
イメージというものは普通考えられているように
私たちの中にあるのではない。
そうではなくて
私たちが心象風景の中にいる。
私たちがイメージの中にいるのだ。
ほんの少しおもいを凝らせば
誰もがそれに思い至るはずだ。

BAR27'sで赤面したのは
「フリック」のイマージュの中にいた自分が
過剰に「現実」であったからだ。
前日にすでにバーのフロントを撮影していながらも
まったく気づかなかったのも同じ理由だ。
ドアを開けるまでのシーンと
そのあと展開する内部シーンは別物だ、などとは
考えてもみなかった。

通りの向こうからやってきて車は左折する・・・
空き地の一番奥にそのバーはある。
そんな固着したイメージの中に僕がいて
僕の推理も判断もその心象風景の中にあった。
マスターから伺ってなるほどそれはアリだと了解した。
マスターによるトリックの解説は接線だ。補助線だ。
その「線」はベクトルのように
あきらかな力や方向があるわけではないかもしれない。
しかし何かを表象する線であったわけだ。

ドゥルーズならそれを「美しい線」と言うだろうか。

「ある種のイマージュが内部をもち、その内側から知覚される。
それが主体なのです」(記号と事件)



村田刑事も内側から知覚していた。
かくしてシネマ「フリック」にはドゥルーズとの親和性がある。

BAR27's 苫小牧 vol.2

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「私とはわたしの記憶に過ぎない」
(ジョン・バース『酔いどれ草の仲買人』野崎孝訳)
僕は30歳だった。
フランスでは実存主義は終焉を迎えようとしていた。
まだ浅田彰もドゥルーズもなく、「私とは?」を抱えたまま
悶絶しそうな日々だった。

苫小牧を訪ねたとき、バースの「記憶」を思い出した。
BAR27'sのカウンタで妙に赤面する自分を感じた。
僕は「記憶」を再現前化し「私」を回復しようと目論んでるのか?
少し気恥ずかしい自意識がにじむ。
今でこそ僕は『酔いどれ』のフレーズなり赤面が
僕の「出来事」全体にかかわる感情だと
知ることができはする。

ブログ「表象」は再領土化かもしれぬし、
失地回復(いったい何の?)かもしれぬ。
たとえば喪失のルサンチマンであったりもしよう。
旅全体が喪の作業といえなくもない。
いかん。このままでは「精神分析」にいっちまう。
・・・・・
まあ、2重化を犯しつつ記すことにする。



上の絵はBAR27'sを訪ねた翌朝6時。(店名はボカシてます)
村田刑事が入ったバーだ。
後でコマをみて気付いたが、
BAR27'sのマスターに案内される前に一度来ている。
不可思議だ。すでに導かれていたのだ。
下の絵。ドアをあければ伸子(大塚寧々)が立っている。



コマのシークエンスをみると空き地に反対側から入って
お店のプレート、空き地のヤカンやらを数十カット撮影している。
このお店の正面は妙に水平がとりにくい。
建物自体か工事に歪みがあるようだ。





午前9時半もう一度くる。(3度目)
バー側からみた空き地だ。緋色の丸が入り口。
黄色は村田刑事が倒れるあたりだ。

さて王子の煙突です。
「フリック」では煙突は重要なメタファだと僕は思ってる。
(それはまたあとで)
以前のコマとは違うけど上下黒枠=スクリーン風に処理。
(横800の拡大画像あり)

美術館巡りをする場合、
まず主な会場の年間のスケジュールを
あらかじめ検索する。
で、それらの開催期間を横断する最も有効な日程を決定する。
(同時に順路を決める)
その日程に合わせて
ANAのスーパー旅割(!)を発売開始に合わせて予約。
・・・昨年もそうしたが
体調不良と新型インフルでキャンセルする。
(キャンセルのダメージは大)

今回は6企画を抽出。
その最終日がシャガール展と六本木でのマン・レイ展。
(上野→日比谷線六本木→大江戸線大門→東京モノレール)
(これはねえ、最終日乗り換えのツボなんですよ)
シャガール展は疲労で断念しかけたんだが
無理をしてでかけた。その甲斐はあった。
ロシアの作家たちやシャガールのキュビズムを
合わせてみることができたこと。
1964年ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で開催された
歌劇「魔笛」の舞台美術・デザインを見れたこと。
これは新鮮だった。

10月末には福岡市美術館に来ます。
九州のヒトはチャンスです。
サーバー内にリンクを安置(笑)

メインページ

主な展示品1

主な展示品2

主な展示品3

主な展示品4

主な展示品5

そうそう、館内ではDVD映画が上映されていた。

映画

僕はDVD買いましたね。
ここでも常設展のなかに逸品をみた。
(企画展は「カポディモンテ美術館展」)
ジョヴァンニ・セガンティーニ「羊の剪毛」である。
旧松方コレクションのものらしい。
若いころから何度も常設展を見てるのに
これはお初だった。
・・・・・
セガンティーニといえば、大原美術館に
「アルプスの真昼」がある。
倉敷には3度足を運んだが
セガンティーニをみたのは一度だけだった。
(福岡県立美術館で大原展が開催されたときもなかった)
国内に何点あるのか知らないが
セガンティーニに会えるなんて
ベイコンと同じくらいありがたかった。

羊↓(クリックで拡大)


アルプス↓


いま新天町マックにてアクセス。
今日は西鉄二日市駅ホームで電車を待つ間に
「あつ賀」を予約した。
これは正解だった。

ジュンク堂ではもっぱらベイコンの資料をあさる。
そんな日中である。

コレクション展は今日9月4日まで。リンク切れに注意

うーむ。
僕はこれまで横浜美術館に
ベイコンが所蔵されていることすら知らなかった。
横浜では今回、「ポーラ美術館展」が目当てだった。
それを終えた後の通常の「常設展」にあたる
「横浜美術館コレクション展 2010年度」に回ったのだ。
いわゆる「ヨココレ」がすばらしいのは体験済みだが
ベイコンに出会うとは思いもよらなかった。
第3ブースで一瞬、息を飲んだ。



もちろん「きたるべき生物」のことである。
「きたるべき生物」を描きえた例外的な画家として、
ドゥルーズがあげたのがベイコンである。
どうだろう?
あなたは「人間か動物か決められないゾーン」を
この絵に見て取れますか?
ネットで見れるベイコンのフィギュアと比べれば
まともなほうかなあ。体躯は変形が激しいが。

「企画展」に出向いて「常設展」でびっくりするのは
何も今回が初めてではない。
大原で、あるいは石橋、松方でも何度か経験した。

しかしまあ、今回はとびきりだね。
なんせかのフランシス・ベイコンだもの。
(近代美術館にも1枚あるらしい)

化学物質と終始格闘しつつ(ただ逃げるだけだが)
美術館めぐりを強行した3日間で、
びっくり玉手箱をいくつか拾った。
が、ころあいよろしく眼痛がきたので、
今日のところはハイここまで。
第3展示室

おお、性根疲れ果てた。

・横浜美術館:ポーラ美術館コレクション展
「印象派とエコール・ド・パリ」
・横浜美術館コレクション展 第2期

・国立西洋美術館: カポディモンテ美術館展
・オノレ・ドーミエ版画展
・常設展

・東京国立博物館平成館:誕生!中国文明
・法隆寺宝物館

上野では午前中西洋美術館で頭痛がひどくなり
ホテルにもどってロキソニンを飲み、休憩。
午後ふたたび上野公園に博物館を訪ねる。
いやはや。

午前3時にはデパス効果が切れて覚醒。
もぞもぞとブログ更新なんぞやってる。
旅行最終日の今日、黒川さん遺作の国立新美術館を
六本木にたずねる。「マン・レイ展」だ。

それ以外は何もできそうにない。
どこかでぼんやりと過ごそう。
カメラが重たい・・・



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