2012年9月 Archives

属性 様態 効果

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三菱地所アルティアムの会場は狭い。
それを塩田千春は工夫して使っていた。


(NEX-7/Hektor f=2,8cm 1:6,3/ISO3200)

パンフの装置とはちょっと違うでしょう?
スペースの狭さで新たな線が生じる。
属性が変われば様態も変容する。
効果、といっていいだろう。

少し蛇足を・・。
「書くことは逃走線と本質的な関係にあるのかもしれない。
書くこと、それは逃走線を描くことである。
逃走線は想像的なものではなく、人は逃走線を辿るように
まさに強いられている。
なぜなら、エクリチュールが私たちを逃走線に引き入れ、
実際に私たちを逃走線に乗り込ませるからである。
書くこと、それは生成することである。
とはいえそれは作家へと生成することではまったくない。
それは別のものへと生成することである。」
(『ディアローグ』ドゥルーズの思想 江川+増田訳 河出文庫)

塩田千春 他者である私

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みるべきアートをみてくる。
「塩田千春 他者である私」。三菱地所アルティアム。



中華風に言うと「絶対塩田」となるのかな?
ドゥルーズの「超越論的経験論」の情動をもろに感じた。
いいアートを前にすると、精神分析で言うところの
「対象a」を手中にしたような感覚だ。
(そんなものがあるとして)
あなたは塩田千春にご自身で出会うしかない。

CANON フィッシュアイ

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新宿区役所を水分補給と休憩の場所にして
ゴールデン街を撮る。
8-15mmと16-35mmの二本立てでゆく。
最初のは15mm側。次のは8mm側。
8mm=建物の隙間を撮るとまさに異形の風景となる。
ノーマル現像。アンシャープマスクなどの処理なし。
拡大してみてください。
現代レンズですな。よくうつります。うむ。
適正にうつればイイってもんでもないけど。





yell PV いきものがかり

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PV動画は著作権がらみで
僕のMPX(Extreme Edition)では
ダウンロードできないことが多い。
RTMPストリーミングだと
MPXのUltimate Editionでないと太刀打ち(?)
できないようだ。
「yell」(いきものがかり)も落とせないPVだ。
それを「神」に頼ってD/Lする。
動画の以下のような絵に惹かれて・・。
コマをキャプチャして並べてみる。
いい絵ですね。
こんなイメージに惹かれる潜在・現働が
ぼくの中にうごめくのを自覚しています。
ヴィデオ用のレンズって雰囲気あってよろしい。



もうひとつ。



上野で9月17日にあいついで終了した。
「マウリッツハイス美術展」(東京都美術館)と
「ベルリン国立美術館展」(国立西洋美術館)。
前者は「真珠の耳飾りの少女」が、
後者は「真珠の首飾りの少女」が話題になった。






人が多くて閉口した。自分もそのひとりだから、
どうにもできない。
このあと、「マウリッツハイス」は神戸に
「ベルリン」は九州国立博物館にやってくる。

大混雑の中で鑑賞することには慣れているとはいえ、
気持ちが満たされない。

福新樓のマンゴープリン

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久しぶりに福新樓へ。博多皿うどんのあとの
これはデザート、マンゴープリン。最高です。


(EOS5Dmk2/MCRO-ELMARIT-R 2.8/60)


丸善でこんなスクラップブックを買う。



(於、天神=シアトルズベスト)

ビストロひつじや

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知人と代々木寄りの「ビストロひつじや」へ。



彼がみているメニューは
これで、

もう一枚は
これです。

食べたものすべて、おいしかったです。うむ。

スタバのWi-Fi

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スマホのWi-Fi設定には、
at_STARBUCKS_Wi2 と出る。
(拡大画像あり)



これは羽田の3階スタバ内だ。
都内全域というが上野公園ではIP取得途中で切断。
使えなかった。ま、その日の状況かもしれない。

(EOS5Dmk2/アンジェニュー35-140mmTYPE LA2)

先だって不思議な経験をする。
知人を訪問する。
と小泉義之の『ドゥルーズの哲学』を差し出して、
大変な昔、これをあなたに借りていた、と言う。
咄嗟のことだ。
え?そうだった?いつごろのハナシ?
彼「~のころだと思います。」
奥付をみる。2000年発行だから、「~のころ」とは
時期が合わない。

ウチにも一冊あるので、彼に貸して別に買い求めた、
ということになる。だがその記憶は全くない。

そこで僕は仮説をたてる。
彼は僕の紹介に触発をうけて、自ら買い求めた。
時間がたつうちに僕から借りたものと錯覚する。
どうだろう。ありうるハナシではないか。
そもそも内在はそんなふうに作動するものでしょう?
違うか。やはり僕の忘却か?
いやだなあ。(笑)
ドゥルーズの「欲望」について今少し。
『ディアローグ』第三章第二部の冒頭です。

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欲望に関する三つの誤解とは次の通りである。
すなわち、欲望を欠如あるいは法則と関係づけること、
自然的あるいは自発的な実在と関係づけること。
快楽や、ひいては祝祭とさえ関係づけること。
欲望は内在平面あるいは合成平面の上でつねに
作動配列(アジャンスマン)されており、機械状になっている。
この平面はそれ自身、欲望が作動配列し、機械状になるのと
同時に構築される。私たちはただ単に、欲望が歴史的に
決定される、と言いたいわけではない。歴史的決定は、
法則の、あるいは原因の役割を演じるような、またそこから
欲望が誕生するような構造的審級に訴えるのである。
それに対して欲望は、ひとつの作動配列の諸変数と
そのつど見分けがつかない現実の操作子(オペラトウール)
なのだ。欲望を与えるのは、欠如でも欠乏でもない。
欠如が感じられるのは、自らが除外されている作動配列との
関係においてだけであるが、人々が欲望するのは、
自らが内含されている作動配列
(それが略奪や反乱の結集であるにせよ)によってだけである。
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「ないものねだり」は欲望を押しとどめる戒めとして
使われることが多い。欲望は欠如と関係づけられる、と
おもうのはそれほど不思議ではない。
しかしドゥルーズはもっと端的に欲望を肯定するのだ。
欲望が沸き立つ平面をあらかじめ任意に準備する、
というような芸当はできない。戦うコートを配分して
おくことはできない。欲望の沸き立つ場に自らもそっくり
配分されるからだ。

ドゥルーズ=欲望

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欲望に主体はない。これはドゥルーズの持論です。
言表行為に主体はない。これもそうです。

ドゥルーズに縁がない人は驚くだろうと思う。
「欲望」と「言表行為」は精神分析の素材でもある。
それもきわめて重要な素材だ。
その「精神分析」をドゥルーズはさまざまな場面で
おおいに(?)批判している。
『アンチ・オイディプス』。『記号と事件』。
『ディアローグ』には第三章
「分析せよ死せる精神分析を」がある。

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子供ににおいてさえ、
諸々の作動配列(アジャンスマン)からなる
もろもろの政治しかない。
この意味であらゆるものは政治的である。
プログラムしかない、あるいはむしろダイヤグラムや
平面しかないのであって、記憶も幻想さえもない。
生成とブロックしかない。ブロックとは
幼少期のブロック、女性性のブロック、
動物性のブロック、生成の現働的なブロックのことであり、
記憶に関するもの、想像的なもの[想像界]、
象徴的なもの[象徴界]など何もない。
欲望は、形象的ではないのと同じように象徴的な
ものでもなく、シニフィアンでないのと同じように
シニフィエでもない。
欲望は相互に交叉し合い、結合し合い、あるいは
妨害し合う様々な線によって、内在平面の上で
しかじかの作動配列(アジャンスマン)を構成する
様々な線によってつくられるのだ。
しかしその平面は、当の平面を合成するそれらの
作動配列(アジャンスマン)に先立って、
その平面を描くそれらの抽象線の先立って
存在するのではない。
(『ディアローグ』第三章)
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過激ですね。
「精神分析」の批判です。このなかには
「ぼくの欲望」といってみたところで当のぼくの
主体性などないことを示唆しています。
また、「内在平面」(存立平面)がどのようなものか、も
垣間見えます。

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