フーコー 性の選択、性の行為

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 以下は、フーコーコレクション第5「6性の選択・性の行為」J・オヒギンズとの対談。読んでみてください。僕の感想は無し。あなたの知で感じてください。

 ― 同性愛者について階級意識を云々するのは正当だとお考えですか。未熟練工や、一部の国ぐにおける黒人などと同じ資格で、自分たちがひとつの階級に属していると考えるよう同性愛者たちを奨励すべきなのでしょうか。あなたは、集団としての同性愛者がもつべき政治諸目標は、どのようなものであるべきだとお考えなのでしょうか。

 第一の質間にお答えして、同性愛者であるという意識は、たしかに、個人的な体験を超えるものであり、特定の社会集団に帰属しているという自覚を含んでいると申し上げておきましょう。これは、とても古い時代にまでさかのぼれる、否定できない事実です。もちろん、同性愛者たちによる集団意識の自覚、この自覚の現れ方は、時代とともに移り変わり、場所によって異なるものです。たとえば、その意識は、種々の機会に応じて、一種の秘密結社に帰属するという形態や、呪われた種族に帰属するという形態や、特権的であると同時に迫害された人類の一部分に帰属するといった形態をとったのです――ついでに申し上げるならば、同性愛者たちの集団意識は、まったく非執藤労働者の集団意識のように、数多くの変更をこうむったのです。一部の同性愛者たちが、もっと最近になって、政治のモデルにならいつつ、ある階級意識を作り出そうとしたというのは事実です。私の見解は、政治上の成果がいかなるものであれ、それは本当の成功とは言えないというものです。というのも、同性愛者は社会階級を構成してはいないからです。これは、同性愛者が社会階級を構成できるような社会システムを想像することができない、という意味ではありません。しかし、現行の社会的-経済的組織様態においては、そうしたものの輪郭が現われつつあるとは思えないのです。

 同性愛運動の政治目標については、二つの点が強調されるべきでしよう。まず第一に性を選択する自由をめぐる問いについて考察しなければならないという点です。私が言っているのは、あくまで性的選択の自由なのであって、性行為の自由ではあ。ません。というのも、強姦のような一部の性行為は、男女間であれ、男どうしであれ、許されるべきものではないからです。われわれは、性の分野において、一種の絶対的な自由を、完全な行動の自由を目標としてもつべきだとは思いません。その半面、性的選択の自由が問題となっているところでは、われわれは妥協してはならないのです。性的選択の自由は、その選択を表現する自由も包含しています。ここで私が言いたいのは、性の選択を表現する、あるいは表現しない自由のことです。たしかに、立法については、この分野において相当な進歩が達成され、いっそう大きな寛容へ向けての運動がはじまっています。しかし、なすべきことはまだ数多く残っているのです。

 第二に、同性愛運動は、性的選択や、性的行動や、個々の人間の性的関係の諸効果が、ある社会においてどのような場を個人のうちに占めるかという問いを立てるということ、これを目標として引き受けてもいいでしよう。これらの問いは、根本的に難解なものです。たとえば、ポルノグラフィーをめぐるあいまいさ、あるいは同性間関係を規定する法的資格の問題がかくも明断さに欠けているという事実を見てください。同性愛者どうしの結婚に関する立法が目標であるべきだと言っているのではあ。ません。そうではなく、個人どうしの関係をめぐる一定数の関係をいかに社会的かつ法的な枠組みのなかに組み入れ、認知させるかという一連の問いがここにあり、それに対して解答を見いださなければならないということが言いたいのです。

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このページは、が2013年6月15日 18:06に書いたブログ記事です。

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