2013年5月 Archives
「芸術新潮」(藝術、じゃないんですね)のベーコン特集から。今回の企画担当者でもある東京国立近代美術館の主任研究員とかいう保坂健二朗(1976生)との対談がいくつかある。そのうちのひとつ「ゲイ。そこを隠さずに話そう」。お相手は都築響一。これは納得できましたね。
都築 言い換えれば「抱き心地」ってやつ。
保坂 (爆笑)さすがですねー。触覚性って言おうとしたんですけど。
都築 だってゲイは別にボディビルダーみたいなのが好きな人だけじゃないから。ちょっとタブンとした、そういうほうが好きな人、多いじゃないですか。デブ専だっているくらいだし。ゲイに触れないようにしてベーコンの絵を語っていくとどんどん本人の思いから外れていくような。
保坂 確かに、初期の絵はちょっとマスキュリン(男性的)っていうか、筋骨隆々としてるんですけど、だんだんポワンとしてくるんですよ・・・あ、だんだん分かってきたな(笑)、なんでカッコ悪い人体を描くんだろうと思ってたんですけどね。
都築 カッコ悪いと思うのはノンケの見方。
保坂 そうか、価値観の違いがあるのか。美術史的にはそうした表現を、肉体に対するレクイエムみたいに言っちゃうんですけど。
都築 それが、うがち過ぎだっていうんです。ゲイが見るベーコンとノンケが見るベーコンって絶対違うと思うんですよ。
保坂 海外の論文で、同性愛が禁じられた国でベーコンが何を考えていたのかについて、一生懸命考究したのはあるんですが、でもさすがに「抱き心地」までは突っ込んでいない(笑)。
都築 だって、法律は生きてたって、50~60年代のロンドンって、ある意味オープンですよね。だからベーコンの絵は抑圧から生れたもんでもない気がする。まあ、本人にそういう抑圧された体験があったかどうかは分かんないですけど。でも、抑圧されて捩じくれ曲がった欲望みたいな感じにとっちゃうと、違うのかなと。ベーコンの絵って、そっいうふうに考えられがちじゃないですか。彼の中の悪魔が、闇が、みたいな。でも意外とね、好みのタイプをカッコよく描いてるつもりだったかもしんないという。クリケットだって上流階級の男のスポーツだしさぁ。
保坂 クリケット、よく描いてますよね。あ、そういう意味だったのか。
都築 違うんですか(笑)。勝手な憶測ですけど。クリケットで投球する時、白いユニフォームの太腿のあたりで球を拭くわけよ。そうすると股間のあたりがちょっとシミになる。それがイギリスのゲイなら誰しも胸キュンになるポイント。
保坂 ベーコンのアトリエからは柔道や空手の本も見つかっていて、そうすると僕らはスポーツでまとめちゃうんですね。スポーツの写真を見て身体をどうしたこうしたとか。
都築 白いユニフォーム・フェチだったかもしれないし。
保坂 僕らはベーコンの絵の中の白いブリーフにも言及することないですからね。
都築 いずれにしろ、ひとつの見方だけでベーコンを見ちゃうと面白くないと思いますよ。展覧会のオーディオ・ガイドに副声音つけたらどうですか? ゲイの人を起用して。
保坂 ゲイの目で見ると新たな光が。15年近くベーコンを研究してきて、目からウロコです。
都築 本人としては素直に描いてきたつもりが、もしかしたら誤解されてばかりだったかもと、僕も話していて思いました。保坂さんも今日から別の人生を歩んでみたら?
(オレンジの背景にクリケットの脛当ての白がまぶしい!)
《人体のための習作》 1982年
リベラ。メジャーただひとりの背番号42の男。リベラだってもちろん打たれる時がある。2013年5月29日。TV観戦した。リベラだけではなくイチローにも「潮時」の寂寥感がある。これは致し方ないことである。以下の映像は、今日のサブウェイシリーズ第2戦、サヨナラの場面。黒田が7回を無失点で後を任せた試合だ。9回リベラの3分間。それに続くウォークオフ(walk off)。敗戦とはこんなものです。
ベーコンの古いカタログなどがウチにはいくつかある。
(EOS5Dmk2/16-35mm 1:2.8/PhotoshopCS5.5)
①1977年はCNDP(パリ)のactualite des arts plastiquesシリーズ、NO39です。スライドのうちNo.3のPapeⅡ(1951)とNo.19のGeorge Dyer(1969)の2点が欠品。
②1983年の国立近代美術館でのベーコン展の図録
③1972年「みずゑ7月号 NO.810」
④今回のベーコン展の図録
過去の資料に一度も出なかったのがこれだ。(というか①-③のあとに制作されてるわけだから当たり前ですがね)
(EOS5Dmk2/16-35mm 1:2.8/PhotoshopCS5.5)
横1536の拡大画像があります。これは竹橋の最後の部屋にありました。最後の部屋はとても印象に残った。1992年スペインに若い恋人をたずねその地の病院でなくなる数ヶ月前の作品ということだ。圧倒的な作品だ。この記憶を留めておきたいばかりに図録を購入したのです。半世紀にわたって描き続けたベーコンの遺作です。三幅対(Triptych)がそれぞれ198.1x147.6cmの大きさです。図録解説によると、ニューヨーク近代美術館は2003年の増改築時に、「ベーコンの作品を含むいくつかの所蔵品を手放してまで、この最後の三幅対を購入した」とある。
インタビューの映像をみる。60年代? 70年代? ベラスケスの教皇インノケンティウス10世の絵はローマ滞在時にも見に行かなかったそうだ。ベラスケスを冒涜したと感じる、と。晩年(?)のインタビュー記事(図録:メネケスとの対話)を読むと教皇シリーズは腹立たしい、と述べている。ベーコンはまさに生成変化をなし続けた作家だったのだ。そうだろうね、納得。82歳まで現役作家とは恐れ入る。
美を愛するオトコはたましいに触れるものに敏感でかつ弱い。モノが増えるのは困るがいたしかたがない。今朝ほどAmazonから「美術手帖」と「芸術新潮」を発送したとメールがくる。まあこちらの方はご愛嬌と思っている。ああ、でもPM2.5で今日は朝から喉が痛い。当地は現在57だ。OXも基準値を超えている。やれやれ。身体と精神のおのおのがはげしくせめぎあう。
「戦争と平和」(ソ連:1966年)全編を四夜連続で見る。セットやロケも壮大だが、雰囲気は現代映画にはもうないものばかりだ。なんだか残念な気がする。HDカメラにとって代わられて、フィルム+シネレンズの味わいはもう望めないのか?
ドゥルーズやフーコー、はたまたスピノザやニーチェに惹かれる諸氏よ、あなたは旅先に一冊どれをバッグに入れますか? 毎度のことながら僕もけっこう選択に思案します。今回は「ディアローグ」にしました。
ドゥルーズを開く。ほどなくなんとも名状しがたい夢見をします。夢見心地はたぶん「現働」と「潜勢」が混ざり合うそんな界隈です。そのような様態が発生する、それが気持ちいいのです。へたな文学(レトリック)よりもはるかに心地よいこの状態を僕は好み手放せないでいます。まあこれは僕に固有の経験かもしれません。しかしドゥルージアンの諸氏には「発生論」的に思い当たる事実ではないか? と確信してもいます。違います?
で、「ディアローグ」はまず厚さが300ページ足らずで手ごろ。後期ドゥルーズに接近できる。夢見心地は請け合い・・などなど半病み上がりの僕には好都合と判断したわけです。
さらに諸氏がシャシン好きであればもうひとつ難題に直面しますよね。これもNEX-7にE2.8/20mmと赤Elmarで極力軽くする。フルサイズEOSと一緒に歩く元気はない。(拡大画像アリ)
(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5/f5.6/Photshop CS5.5)エレクトロラックスの掃除機。吸塵力が最強というふれこみに、ネットで「自然館」というところから2台買う。使用頻度は2週間か3週間に一度、10分程度。一年半ほどで一台が故障。電源を入れると5秒ぐらいで切れる。10秒ぐらいすると再び電源が入る。そして5秒ほどで切れる。その繰り返し。「自然館」に問い合わせる。お客様が直接エレクトロラックスに送ってください、とのこと。仕方がない、そんなものかと、送料1900円で送る。東京は港区海岸3丁目だ。
4、5日すると0120のお姉さんから連絡が入った。「修理ができました。モーターの交換です。1万6千しかじか・・です。」おいおい。僕は修理依頼に添えた文書に見積もりが高かったら修理を見合わせる、と明記して送ったはずだ。普通は修理する前に連絡するのではないだろうか? 1年半でモーターが壊れる? 2週間に一度10分ほどの頻度で? 修理の担当者を出してほしい、とただすと、取り次げないとおっしゃる。あまりの対応に(そもそも対処がこちらの依頼とは明らかに違うので)、僕は腹をたて、「そんなやりかたでは受け取れない、そちらで処分してください」と言い放つ。
すると、そのとおりになりました。4日後には何の添え文もなく「自然館」の保証書だけが送り返されてきた。滑稽なハナシだ。SAGAWAの封筒には「修理中止処分済伝票」とある。笑える。ちなみにこの掃除機は一台6万3千円する。それを2台買ったのだから、見る目のなかったボクがばかなのだ、と自嘲してそれですむ。まあしかし、エレクトロラックスという会社はそういう会社なのだ。とんだ掃除機もあったもんだ。家にはもう一台ある。もう使いたくないなあ。ゴミに出すか? 欲しけりゃあげますよ、と広告を出したいくらいだ。いやはや。
(追記):この事件の後1年、別の一台もアタッチメントを立てて留める部分が毀れる。
当地の空港に行く。ビジネスサポートセンターから窺う外は霞んで見える。いわずと知れたPM2.5である。(この日最大32マイクログラム)山際がくっきりとした夏は去ってしまったのか? いつとは知らずこのように環境も様態も変容(変様)する。それが常態となる。
(NEX-7/E16mm F2.8 SEL16F28/Photoshop CS)
社会(世間:巷間)もいつの間にか変化する。テレビや新聞で連休中の山岳遭難が取り上げられた。今日5月7日のYahooニュースの記事はこうだ。
中高年が多い。中高年の登山ブームは20年前にはすでにあった。けれど連休中に17人の死者(不明者)というのは多すぎないか? 「経済」の世代間較差と無関係ではあるまい。69歳の医師が山中でテントの中で死ぬ、という出来事は「普通」ではない。シュラフはもって行ったと思う。何が男性に起きたのか? 石川県山毛欅尾(ぶなお)山、夜間は零下になるだろう。どんな線が彼を襲ったのだろう。69歳=石川=五月初旬の幕営登山、僕には実行不可能だ。しかし事件は交差する諸線のただなかで生起した。人にはさまざまな諸力が到来し貫く。さまざまな波が向こう側から殺到してくるのだ。誰だっていつ溺れ死ぬかもしれない。出来事・事件とはそのようなものだ。いわゆる「老後」をどのように生きるか、真摯に向き合う必要がある。