2013年8月 Archives

P-01D現下の状況

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 P-01Dを3個持ったが1個はイジリ過ぎて(未熟)レンガに。2個はSIMなしWi-Fi運用。おおまかに以下のような状況。(画像はddmsで)
 ①rooted。不要アプリ撤去。
 ②MobileCube持ち歩き
 ③通話・メールはガラケーで(FOMAタイプSS_バリュー/i-modeメールのみ)。スマホのSPモード契約はなし。
 ④常時機内モード。airplane mode wi-fi tool使用。起動が速い。
 ⑤通知と自動更新を拒否(GooglePlay(Playストア)のmenu「設定」:画像参照)。通知をはずす。
 ⑥ちなみに本体のバージョンアップはしません。





 差異をとりあげてみる。一般に、差異は何ものかからの差異、あるいは何ものかにあっての差異として分析される。差異の向う側の差異を超えた地点に、とはいっても差異の支柱となってそれに場所を与えて限界を設定し、つまりは差異を統禦せんとする目的で、人は、差異がそれを幾つかの種に分割すると想定される類としての統一性を、概念によって措定する(アリストテレス的概念の有機界的視点の支配である)。そうなると、差異は、概念の内部で種的特性に分類されうるものとなり、概念を越えてあふれでるものとはなりがたい。それでいながらこの種よりも下部の水準には、個体がいっせいにたちさわいでいるのだ。種的分類から逃れ、しかも概念の外部にこぼれ落ちるこの尺度のない多様性は、反復のはね返り以外の何でありえようか。羊類より下の水準では、もはや羊の数をかぞえる仕事しか残ってはいない。以上の点からして、従属的視点の第一の相貌は次のごときものとなる。すなわち、種への分類作用としての差異(概念内の)と、個体の差異不在としての反復(概念外の)とがそれである。だが何への従属であるというのか。常識への従属である。そして常識とは、狂気の生成と無政府主義的な差異から顔をそらせ、いたるところ、しかもあらゆるものにあって同じやり方で同一的なるものの認識を心得ているものだ。善意の盟約によって認識主体の普遍性を確立するその瞬間に、常識は、対象における一般性をくっきりと浮かび上がらせる。まさに悪しき意志に自由な戯れを許してみたらどうなるか。思考が常識から自由になり、その固有性のぎりぎりの先端部でのみ思考せんと希望したらいったいどうなるか。正統説の構成要素としてある自分の市民権を程よい満足とともに是認するかわりに、陰険に逆説の策略を実践してみたらどうなるか。差異の下側に共通なるものを探究するのではなく、むしろ差異的に差異を思考してみたらどんなものであろうか。そうした場合、差異は、概念の一般性を塑型するほどほどに一般的な性格などではもはやありえまい。差異は―差異としての思考、差異をめぐっての思考として―純粋な出来事となっているかもしれないのだ。反復はどうなるかといえば、もはや同一的なるものの陰鬱なけばだちではなく、転移された差異となるかもしれぬ。善意から、そして分配し性格決定する常識の支配から脱した思考は、もはや概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する。常識にくるまって思考することの倫理的善意というものは、結局のところ、思考をその固有な「生殖性」に触れさせまいとする役割をはたしていたのだ。
(フーコー「劇場としての哲学」蓮実重彦訳)

 「いつもとはどこか違った朝だった・・」と人が言ったとする。そこでは朝における「差異」が述べられる。通常僕たちは「差異」をそんな意味で用いる。が、ドゥルーズの「差異」および「反復」はそうではない。違った朝と感じてもまた同じような朝になってしまう=再領土化されるそんな「差異」ではない。じゃどんなものか?フーコーによると「概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する」ものだということになる。
 差異は「いつもの朝」に対する違いではない、ということになるか。差異は違いそのもの、とでも。じっさい「差異の差異」という言い方もある。

 思えば、そんな差異こそが実は一般的なのだと気づく。表現(表象)的には「どこか違った朝」なのだが、事実はその朝を生きているその朝に身を置いているではないか。感じ、表象する以前に、差異を生きている。差異はそのまま差異なのだ。とまあ僕は思っているのです。

 さて。サンダーバードのトレーシー一家。天神のBOOK・OFFで買う。(笑)


(NEX-7/ANGENIEUX 17-68mm 1:2.2/Photoshop CS5.5/拡大画像あり)

アラーキーの東松照明

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 「アサヒカメラ」3月号に、追悼東松照明。らしきヒトがそれぞれ書いている。以下はアラーキーの言。

******東松さんが校長を務めたWORKSHOP写真学校で講師を務めた荒木経惟さん。東松さんが晩年、気になる写真家として、森山大道、中平卓馬とともにその名前を挙げていた写真家でもある。******

 東松さんは、50年代に「中央公論」なんかのグラビアで撮っていた。気にして見ていたよ。「地方政治家」とか、ほかの写真家とは違う切り口でやっていた。プレていないしピントも合っている。それも本質にピントが合ってるって気がするじない?写真集の『日本』で初めてまとまった作品として見て、スジが通ってるなと思った。でも、その半面、写真はそんなたいそうなもんじゃないよという思いもあったな。政治とか社会とか時代とか、アメリカニゼーションとか。写真はそんな大きなテーマをやるもんじゃないんじゃないか。だから反発して「私写真」をやったってところも多少はあるよ。
 でも、WORKSHOP写真学校は東松さんみたいな人がいないとできなかったね。ああいう人がいないと新しいことはなかなかできない。でも、まだ安保の余韻があったり、東松さんと森山さんだけだと「運動」と思われちゃうぞ、と思ったから、俺が、細江(英公)さん、横須賀(功光)さん、深瀬(昌久)さんを入れようって言ったんだ。横須賀さんを入れれば生徒が集まるぞ、とかさ(笑)。でもさ、俺に声かけてくれて、先生として呼んでくれたのはうれしかったな。
 東松さんの作品としては『太陽の鉛筆』がサイコー。政治とか時代じゃなくて、生きていく「生」の終点が写ってるよな。あのなかには光と風を感じているような写真がいっぱいあるじゃない? そっちのほうがいいよ。
 最後は長崎かなと思っていたら沖縄へ行った。あの世に惹かれて、死に場所に選んだんだよ。東松さんは自分が撮った写真のなかに入っちゃった。まさに〝写真に死す″ですよ。(談):引用終わり

E2.8/20定点観測

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 E2.8/20での定点観測。
 定点とはここ天神MMT横赤マルだ。



 前にもNEX-7のE2.8/20で撮ったかもしれない。が、忘れてる。SILKYPIXでノーマル現像。絞り優先AE(F8)。データはISO320_1/60とでてる。NEX-7は1/60に落として次にISOを上げていく。(書いたかな?) 露出、色調、映りはフツーに満足のいくものです。何の変哲もない場所。でも好きなんだなここが。なるほどね、と思う人、なんで?と思う人、いろいろです。(笑)

SONY E2.8/20の近接

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 E2.8/20の近接。
 桔梗はまあまあ好みの雰囲気。



 吉田戦車の絵は寄りすぎでピントがきてない。 松尾スズキと吉田戦車はシゴト上以前からタッグがあったんですね、知らなかった。これは朝日の新聞小説「私はテレビに出たかった」。

 実際=朝日デジタルでは挿絵はカラーです。(違法です、ごめん)吉田戦車の絵も好みです。

 松尾スズキっていえばこないだTVのスイッチ入れるとそこに松尾スズキらしい男がいた。喫茶店のマスターかなんかだった。朝のNHKドラマ。たぶんあれは松尾スズキだ。

時間B系列的に

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 三菱地所アルティアム「からくりおもちゃの世界展」。流れる時間、で言おう。岩田屋本館地下B2から渡辺通りを横断する地下道を歩く。(イムズ地下入り口付近に通じている)イムズB2からスケルトンエレベーターで8階に。会場に入る。混雑なし。ある作品に撮影禁止のロゴ。ということは基本は許可、と判断しお隣のオブジェの動画。(NEX-7 E2.8/20)。さらに順路を進むと全館撮影禁止のプレートが。(あらら)会場を出る。1階に降りる。MMTジュンク堂に向かう。猛暑だ。これがそのときの順序系列です。これはA系列なのかそれともB系列か。
 では現在、動画を収めている時点をとり出そう。その内実は「出来事」だ。けれどこれはプレート地点の(=あらら、の時点)では「過去」となる。ということは未来でもあるということになる。「動画なう」の内実が現在・過去・未来を含む時間とはどうも不思議だ。これはたぶんA系列的な時間の記述だろうと思うが。どこか間違ってますかね?

時間 出来事

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 今日8月7日は立秋。
 1週間ほど前のことか土手を歩くとアカネが乱舞していた。前日まではいなかった。そのさらに1週間ほど前にはカナカナが桜の木を渡っていた。クマゼミのなかにいた。今朝もまだクマゼミは鳴いている。だが季節は推移している。
 推移する、っていえば、時間とか出来事とかをかんがえる。今この時点を基準にして、アカネとかさらに以前のカナカナとか言う。九月になったら旅行でもするか・・とか言うこともできる。ところでジョン・マクタガート(John McTaggart )的にはこれらのことは時間のA,Bどちらの系列なのか、僕にはよくわからない。文脈上(おなじ構造での表現上)アカネとカナカナは推移律が成立してる。(とおもう)一方、旅でもしようか・・というのは別のセリーのように思える。僕が主体となって思うことだ。これは現在・過去・未来のA系列のようだ。
 「時間」はよくわからない。マクタガートは、時間はない、という。そんな気もする。散歩するたびにそんなことを思う。つまり「出来事」をおもう。散歩=パセアルセの中途、そのなかで「出来事」を思う。思っている時空もすでに出来事だ。推移している。自動的だ。非対称だ。



(土門拳:高島屋/EOS5D/MACRO-ELMARIT-R 1:2.8/60/Photoshop CS5.5/拡大画像あり)

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