2011年7月 Archives

二重のセリー

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{パラドキシカルなまんま、帰ることにした。おしまい。}

で、「久住山」の記事を終えました。(笑)
では、も少し内実を話しましょう。
くじゅうテントサイト探し=逡巡、たいがいそんな時は
(そんな時にに限って)いろいろセリーが立つのです。
「パラドキシカル」というのはそんな意味です。
「存在論的な問い」はそこにはありません。
むしろオートポイエシス(autopoiesis )に親和性があります。
こんな僕にオーケーを出してくれたのがドゥルーズです。
ヤハウェみたいなお方ですなあ。(笑)

登山の満足感に浸る実在としての僕。
くじゅうエリアでの過去のテン泊を想起する潜在としての僕。
それらは対立的ではなく一義的な、そう即自的なセリーとして
出現します。それ自体は「出来事」といえます。
泉水キャンプ場は子供たちでいっぱいでした。
それをみて何かを思うのはベルクソン的な「純粋記憶」か、
いや、それこそ「精神分析」的なアプローチができることがら
なのかもしれない。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」を
適用してもいいかな。ま、どうとも解釈できます。
かかるドゥルーズ的な捕捉の「詐術性」を樫村晴香が
批判したのだと思っています。
樫村指摘のウィークポイントは当然僕にも波及しているわけでして、
一連の認識の手続きに見て取れるレトリックや幻想性を、
すなわち詐術性は僕としてそれなりに承知しているつもりですが。

今ここ、の行為の先端は、どのように僕に到来したのか。
出来事はかくかくしかじかの後、どのように僕に受肉するのか。
それを想うことはすなわち哲学することでもあります。
よって些末にみえるでしょうがこだわることは無益ではありません。
再び同じパターンで山行きをする・・
ハビトゥスとしての反復をやってみると、
意外な線が出てくるかもしれませんね?

先日、
暗室に入ると壁に貼り付けていたマスコのデータが散っていた。
強い風の仕業だろう。
西日を受けて、紙はさわるとばらけるくらい劣化している。

久住山

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この夏のくじゅう。
テン泊の予定。朝から食料を買い込む。
おっと、散髪しよう。谷川俊太郎ばりに坊主を注文。
夜9時半自宅発。
零時ころか玖珠サービスエリアに。
お店も営業している。ここで仮眠。デパスで2時間。
少しでも眠れれば百人力なのだ。うむ。
トイレを済ませる。なぜって、牧ノ戸のトイレは早朝は閉鎖。
(たぶん今でもそうだと思う)
3時過ぎに玖珠SAを出る。
カーナビが「嘘」を吐く。無視。
約1時間、4時20分牧ノ戸峠に着く。まだ暗い。
バナナを食ったり靴をつけたりしてもたもたしてると
明るくなってくる。で、開始。

うむ。久しぶりの久住山。やっぱりいいなあ。
このコースはアルペン気分ですいすい。楽しい。
7時過ぎに頂上着。ガスっていた。
僕のLEKIはシェラフォトでコンパクトデジカメをつけられる。
それでパチリ、だ。


このあとガスはなくなり、360度の展望。満足。
阿蘇方面や九州山地は雲海でおぼろだった。
もちろん、一番乗り。30分くらいして二番オッサンがくる。
それまでは独り占めで遊んだ。

下山して筋湯に。
誰もいない。一時間近くいて誰ともあわない。
わかば荘もひとめ荘もヒトが居ない。あれは筋湯はヤバイな。
薬師に浸かって、公営駐車場(がら空き)でストーブをたく。
ラーメンと鯖缶。(鯖管じゃないですよ。笑)
さてテン泊地だけど、なじみの沢水は除外。
爺には傾斜地はこたえるかな、と。
やまなみとか泉水とか、ひとつゴージャスなところを使おう、と。
が、実際に現場をチェックするとどちらも気が乗らないのだ。
さまざまなバリエーションをあげては捨てる。
で、パラドキシカルなまんま、帰ることにした。
おしまい。
Link Club Newsletterなるものがある。
LHXレンタルサバの顧客に送られてくる。
最新版の夏号は、「フクシマ」が中心だ。
巻頭の菅谷昭松本市長の言に少し衝撃を受けた。
以下がその部分ですが、諸子はどう感じますか?
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世界中がこの事故に衝撃を受けているなか、
松本市市長の菅谷昭さんは、もっとも具体的で実践的な
対処法を提案したうちの一人だった。3月22日におこなわ
れた市長記者会見で、放射性ヨウ素による内部被曝の予防の
ため、避難地域に住んでいた15歳以下の子供および乳幼児、
妊産婦を中心に、安定ヨウ素剤の投与を勧めたのだ。
それまでメディアで内部被曝の危険性が語られることが少な
かっただけに、人々の関心を引く発言だった。

「内部被曝は外部被曝とは違います。まずはその違いを話し
ましょう。外部被曝は端的にいうと体外から放射線を浴びる
ことです。たとえば私たちはレントゲン検査で放射線(エッ
クス線)を浴びることがありますが、一度に浴びる放射線量
は安全値が決まっていますし、この検査により病気の診断や
治療の方向性が決まりますからね。それはとてもありがたい
ことです。
しかし内部被曝は、大気や食物の中にある放射性物質が体内
に取り込まれて、血液の中に入ります。早い話、放射性物質
というのは粒子なんです。放射性の粒子が血液に運ばれながら、
体内のあちこちに移動するわけです。たとえばその粒子が放
射性ヨウ素であれば、甲状腺に取り込まれる。セシウムであ
れば全身の筋肉。ストロンチウムはカルシウムと同じ性質が
あるので骨の中に取り込まれます。プルトニウムは肺胞に沈着
します。放射性物質といっても、このようにさまざまな種類が
あるんです」

体内のあちこちに取り込まれた放射性物質は、放射線を出して
細胞を攻撃し始めるという。
「放射線で怖いのは、アルファ線とベータ線です。これらの
放射線は破壊力が強い。しかも24時間ずっと放射線を出し
続ける。放射性ヨウ素の半減期は8日で短いと言われていますが、
そのあいだずっと浴びてしまうわけです。セシウムだったら
半減期は30年、プルトニウムにいたっては2万4千年
ですからね。細胞はずっと放射線の攻撃を受けるから、
どこかで何らかの影響が出る。細胞核の中にあるがん遺伝子が
影響を受け、その結果細胞ががん化する可能性が出てきます。
いっぽう、たとえばある放射性物質が体内から自然に排出
する割合が80パーセントだから、あまり心配する必要がない
などと言う専門家がいますが、じゃあ残りの20パーセントの
影響はどうなのか。そのあたりをはっきり指摘する人がいない
のが現実です。」
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内部被爆の恐ろしさはこのようにDNAを攻撃し続けることに
ある、と菅谷さんは言う。ちなみに彼は医師でもあり、
チェルノブイリ原発事故の被災地医療支援にも参加している。
5年半もベラルーシに住み小児甲状腺がんの治療にたずさわっ
てきたのだ。説得力があるハナシなのだ。
子供たちは一定期間、避難させるべきという意見だ。地元に住む
べきではない、とも言う。
うーむ。

何年ぶりかに「六本木クローバー」に行く。六本木とはいうが
イサハヤ長野の「六本木」なのだ。(笑)
少し改装されていた。席から窓の外を。
(拡大画像あり)


気になるのは枕木みたいな木材の朽ち具合。シロアリかな?

K20D TAMRON17-50

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ペンタのK20DにTAMRONの17-50 F2.8をつけて
マニュアル。アンダー1ほど。午前4時半ころ、寝床より。
(横1541の拡大画像あり)


台風6号が近づいているのだ。
あさっては「ノミ騒動」で出た不燃ごみを
たくさん出すので、大雨になるとちょっとね。

マクドナルドの品格

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一人勝ちのマクドナルドだけど、
ブランドを損なう店舗はつぶす、みたいな方針を聞いたことがある。
西鉄久留米駅前のマックはまさにその例かも知れない。
僕が使っていたときだったが、
ミセにひとりのJKがやってくる。何も注文せず2階に向かう。
スタッフが注意しても言い訳して聞かない。
見ると2階には「お仲間」がいて、やいのやいのと騒いでる。
そこは完璧な待合と化していた。
あんな調子だと他の客は寄り付かなくなりますね。

こちらは、一昨日の新天町マック。使うお方にはこのポイントは
わかるでしょうね。エアコンの真下で寒すぎる。

マックでは、「周りは自分で清掃する」心がけが大切。
店員がやってる場面に出くわしたことがほとんどない。(笑)
爺の今年の夏=ワイヤレスゲートは、
プレミアムローストアイスコーヒーか100円ソーダで
やり過ごす。電源があってソファー席というのがベスト。
それに香料対策のマスクも持参してる。

そうそう、閉鎖・閉店は深夜に済ませ朝はもう跡形もない、という方式。
ブランドを損壊させないうまいやり方ですね。さすがです。

ワイヤレスゲートは再入会時に元IDは使えない。
知ってました?

ティアラこうとう(江東区)での23日の新妻聖子のコンサート。
チケットを取っていたがキャンセルする。
ワシントン・ナショナル・ギャラリー展(国立新美術館)行きに
合わせて計画したのだが、気分が停滞した。今年は旅は秋にしよう。
今日も午後はマックだ。
アイスコーヒーに加え100円炭酸ドリンクまでやっちまった。

昨日・今日とマックで努力したことがある。
手前にあるような雑誌のテキストをケータイカメラとか
コンデジで撮影して「読んde!!ココ」での画像解析、
つまりOCRができないか、ということだ
結論、無理です。使えるレベルに達しない。
てことはハンディスキャナの画像もOCRは難しいと思われる。

おなじことを考えてるヒトのためにメモしますね。
1.ケータイの撮影モードを文字にしてもてんでダメ。
2.デジカメ。シーン撮影で文字に設定してもコピーみたいでいけません。
3.raw撮影→Photoshopで現像する際に黒レベルを上げたりして
地と図を明瞭にする。300dpiくらいで保存する。これでも3,4割が
認識エラーだ。
カメラ撮影画像をOCRに、これは事実上不可能とみた。
やはりTWAIN経由でOCRするのがベストなのですね。

さてテキストは樫村晴香の『ドゥルーズのどこが間違っているか?』
なのです。そう謎のヒト、樫村です。(笑)
これも1996年の緊急特集=ジル・ドゥルーズです。
が、論考は小説家保坂和志のWebサイトに
樫村晴香のページとして掲載されています。
なんでも保坂の友人なんだそうです。

前もたしか記事にしたと思う。この論考を全面的に支持します。
そのうえでドゥルーズの岸に立っているのです。(笑)
これは「好み」の領野です。いや「倫理」かな?
『ドゥルーズのどこが間違っているか?』に興味があるお方は
ここをあたってください。
暑いので家の近くのマックでワイヤレスゲート。
ダナ・ハラウェイのチャートから抜粋します。粉飾してますが。

1.表象ではない、シミュレーションなのだ。
2.生物というより構成部品として。
3.完璧ではなくとも最適を。
4.それは退廃ではない老朽なのだ。
5.衛生ではなくストレス管理を。
6.個体というよりレプリコンとして。

7.自然/文化というよりは差異の場がある。
8.フロイトではなくラカンであって、
9.性的交渉より誰もが自由に代理母であっていい。
10.労働ではなくロボットにやらせよう。
11.精神/こころはたいしたことはない、人口知能なのだ。
12.戦争はもうない、スターウォーズになってしまう。

これらは違和感なく肯定できる。
ゆらぎはまったくありませんか?と問い詰められれば、
強いて2,6,11 あたりをあげることになるでしょう。

チャート全体は
ここにありんす。

午後も4:30ともなる時分にはマックもJKで溢れかえる。
きつい香水を避けて場所替えをする・・
この季節におきまりの、我が悲劇だ。
「現代思想」(1996年1月 緊急特集=ジル・ドゥルーズ)に
大澤真幸の『二つの自殺』という論考がある。
『ふしぎなキリスト教』つながりで取り出して読む。
読んde!!ココのOCRで気軽にスキャンできるので、
以下に論考のラスト部分を出します。
徹底して「差異」を受け入れるドゥルーズ。
さてその差異の自己準拠、社会学でいうオートポイエシスが
ドゥルーズとどうかかわりがあるのか、
社会学者、と分類(?)される大澤のシステム理論(?)の
ようなハナシに疑問を重ねながら読んでみてください。(笑)

ドゥルーズによれば、
差異を差異として維持するのは、常に、
その度に特異的なものを個別化=差異化していく反復
である。だが、もし反復ということが、その本性上、
同一物の反復ということであるならば、永遠の反復と
いうことは、それ自身、究極の終わりを前提にせざる
をえない、ということになろう。
反復される多数の事例を、まさに「同一物」として指示する、
最終地点からの回顧的な視線を前提にするからである。
三島由紀夫の自殺は、まさに、そのような究極の終わり
を画する操作にほかなるまい。それは、容易に想像が
つくように、金閣寺を焼き尽くす行為と等価なものである。
だから、三島の自殺は、何も残さない虚しいものだが、
徹底して劇的なものでなくてはならない。この自殺に
おいて、同一性の一切を絶対的に否定する超越性が顕示
されなくてはならないからだ。

 だが、このような華々しい自殺は、結局、
「同一性の絶対的な否定」それ自身を「同一性」へと
転換することである。つまり、それは、一見、
差異の自己準拠を可能にしているように見えて、本当は、
差異の徹底した肯定を停止してしまうことである。
だから、差異の差異性を真に肯定しようとすれば、逆に、
どのような同一性にも反転することのないような仕方で、
言い換えれば、輝かしい超越性を投射することが到底
できないような仕方で、終わり=否定を刻印するしかない。
それは、たとえば、劇的な要素を欠いた、余分で無意味な
ひっそりとした自殺という形式をとるだろう。
現実的な部屋から窓を通じて潜在的な事物へと飛び込む、
ドゥルーズの自殺のように。

 それは、差異の哲学を停止においやろうとする限界
を越える、本当に数少ない方法の一つだったのではないか?
しかし、それが自殺であるとするならば、
やはり、こう言わなくてはならないようにも思う。
この哲学にとって、限界の超克自身が、限界なのだ、と。
一九九五年の哲学者の自殺は、このことをまじめに
受け取ることを教えたのだ、と。

以上です。 いかがですか?大澤37、8歳の論考です。

記号と事件

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教師の実生活が面白いということはまずありえません。
もちろん、旅をすることはあります。ですが、
教師は言葉や経験によって旅費をまかなうわけで、
学術会議や討論会に出席し、いつも、ひっきりなしに
しゃべっていなければならないのです。
知識人は膨大な教養を身につけていて、
どんなことについてでも見解を述べる。
私は知識人ではありません。
すぐに役立つような教養もないし、知識の蓄えも
もちあわせていませんからね。
私が何かを知っているとすれば、
それは当座の仕事の必要上知っているだけなのであって、
何年もたってから過去の仕事にもどってみると、
一切を学びなおさなければならなくなっているほどです。
かくかくしかじかの点について見解も考えももたない
というのはとても気持ちがいい。
私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、
逆に、たいして言うべきこともないのに
意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから
悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で
何かを言ったかと思うと、また何かを言うために
戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、
旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。
だから、私はとても旅をする気になれない。
生成変化を乱したくなければ、
動きすぎないようにこころがけなければならないのです。
トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。
「ノマドとは、動かない人たちのことである。
旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」
というのがそれです。
『記号と事件』(河出文庫 P277)

ここは好みの箇所です。
ドゥルーズってヒトは実に謙虚なんですねえ。
うがった詮索なしでつい聞かされる。人徳ですな。

さて、上記のテキスト、
これはテキスト化を「読んde!!ココ 体験版」で試した。
これだけの長さで訂正は1箇所。使えますね。
橋爪大三郎×大澤真幸の
『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)を読んだ。
うむ、痛快であった。
アタマの切れるお二人だ、期待した通り。
オチョクリック感覚で気に入った箇所をいくつか。
括弧内の数字は当該ページ。

①ヤハウェはシナイ半島あたりで信じられていた腕っぷしの
強い神だった。破壊、怒りの神。イスラエルの人々は、
周辺民族と戦争しなければならなかったので、
ヤハウェを信じるようになった。日本の八幡と似ている。
八幡も武士の守り神。(26)
②なぜヤハウェの偶像がないのか?
それは技術水準が低くて偶像がつくれなかったから。
偶像崇拝がいけないというのは負け惜しみ。(29)
③偶像崇拝がいけないという論理がマルクス主義にもある。
労働の価値の実体が商品になり貨幣になり資本になって、
物神崇拝される・・それと知らずにあがめる転倒した世界。(89)
④「ユダよ。お前は弟子たちの中でいちばん信頼できる。
私を、銀貨で売り渡してほしい。これを頼めるのはお前だけだ」
イエスにそう頼まれてユダは売った、と「ユダの福音書」にある。
これはマズイので聖書には入らなかった。(216)
⑤マリアはたぶんかわいかった。それでイエスはマルタに
「お前はどうでもいいことばっかり気にしている」
と言った、そこにイエスの人間味を見る。(227)
⑥定言命法は、カント風にアレンジされた、キリスト教的隣人愛。
(325)などなど。

九州北部もそろそろ梅雨明けかなあ?
ひさかたぶりに天神=ジュンク堂=下のスタバで
向かいのシアトルズベストの電波を「借用」している。
チャンズでこんなもん食べたあとに。
左上が黒ごま坦々麺、
右が春巻三昧、
(海老マヨ・マーボー豆腐・ザーサイの三種具の春巻 )
下は中国風お汁粉、(甘栗、さつま芋、小豆入り)
おまけのコラーゲン、というわけです。
現地レポートですな。

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