2015年6月 Archives
八木一夫(陶芸家)についてはご自身で検索して人となりや作品を知られたし。
これはNHKのアーカイブから。1981年の「日曜美術館」。司馬遼太郎58歳ころか。
①八木は「センティメント」を造形化した。
②陶芸の歴史も「まねし」であるが、彼はどこにも属しないはざまのニンゲンだった。
③純粋哲学の偉い先生です、あ、そうですか、でおしまい。要は自分で考えるひとにならんと・・・うんぬん。
司馬遼太郎の 独壇場です、w。
6分半ありますがどうぞ。
なにかヒントがありそうな・・。
TS抜いちゃって、NHKさんホントにごめんなさい。
これはNHKのアーカイブから。1981年の「日曜美術館」。司馬遼太郎58歳ころか。
①八木は「センティメント」を造形化した。
②陶芸の歴史も「まねし」であるが、彼はどこにも属しないはざまのニンゲンだった。
③純粋哲学の偉い先生です、あ、そうですか、でおしまい。要は自分で考えるひとにならんと・・・うんぬん。
司馬遼太郎の 独壇場です、w。
6分半ありますがどうぞ。
なにかヒントがありそうな・・。
TS抜いちゃって、NHKさんホントにごめんなさい。
『文藝春秋』のグラビアをスキャン。
ホテルオークラ東京別館のロビー。
拡大画像で、壁面意匠もみえます。
イルミネーション派としては気になる灯りだなあ。w
広角で絞り込んで撮っている。いい絵だ。
キャッチコピーの中身は僕には不明。
こんな場所で自由にレンズを試せるといいなあ。
ここは来月から改修工事なんだそうだ。
プレスリリース(PDF)がここにある。
ホテルオークラ東京別館のロビー。
拡大画像で、壁面意匠もみえます。
イルミネーション派としては気になる灯りだなあ。w
広角で絞り込んで撮っている。いい絵だ。
キャッチコピーの中身は僕には不明。
こんな場所で自由にレンズを試せるといいなあ。
ここは来月から改修工事なんだそうだ。
プレスリリース(PDF)がここにある。
引き延ばしレンズGnome-Wilon 1:4.5/50 will,Wetzlarについては、
ここに過去記事があります。
知人から頂戴したもので、Eマウントフルサイズのない当時は、NEX-7で撮影してます。
近場のものは、
ここに絵があります。
で、梅雨の晴れ間、今回これをα7sにつけてみる。
(拡大画像あり)
光線が溢れる外ではデジタルカメラの「宿命的な」影が出る。が、室内は平気です。
解像度はとても高い。
このレンズで「実写」した男はいないと思われる。
希少性とか特権性とかいったら、これほどのものはそうそうありますまい、ホント。w
知人のおかげで、主体化のプロセスを一本頂戴したようなものです。うむ。w
ここに過去記事があります。
知人から頂戴したもので、Eマウントフルサイズのない当時は、NEX-7で撮影してます。
近場のものは、
ここに絵があります。
で、梅雨の晴れ間、今回これをα7sにつけてみる。
(拡大画像あり)
光線が溢れる外ではデジタルカメラの「宿命的な」影が出る。が、室内は平気です。
解像度はとても高い。
このレンズで「実写」した男はいないと思われる。
希少性とか特権性とかいったら、これほどのものはそうそうありますまい、ホント。w
知人のおかげで、主体化のプロセスを一本頂戴したようなものです。うむ。w
ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史の一部ではないからです。
歴史から締め出されても変身という手段にうったえ、まるで別人のようになって再び姿を見せたかと思うと、まったく予想もつかなかった外観に隠れて、社会の領域をつらぬく逃走線に忍び込むあたりが、ノマドのノマドたるゆえんなのです。
ここに私たちとフーコーをへだてる違いのひとつを見ることもできるでしょう。つまりフーコーにとって、戦略でがんじがらめになった閉域が社会であるとしたら、私たちが見た社会の領域はいたるところで逃走の水漏れをおこしていたのです。68年5月は歴史のなかにひとつの生成変化がなだれこんできた特異な出来事であり、だからこそ、歴史学にはこれがさっぱり理解できなかったし、歴史にしばられた社会はこれを自分のものにすることがまったくできなかったのです。
(ドゥルーズ『記号と事件』第4章)
シャシンしない日は「ほとんど」ない。
ドゥルーズやフーコーを読まぬ日は「まったく」ない。w
生成変化する現動態の生き物だから、ボクは毎日哲学をしています。
というか、ひとはみな、逃げてゆく「いまこの時」を鷲づかみにし、はたまた検証し、すなわち哲学のなかに生きています。
SNSやLINEなんかには及びもつかないスピーディなシナプスがわが小さな脳に生成し、進むかと思えば引き返し・・そうノマドを生きることになるのです。
(レンズSOLAGONを。7s/GR28mm改F5.0相当)
歴史から締め出されても変身という手段にうったえ、まるで別人のようになって再び姿を見せたかと思うと、まったく予想もつかなかった外観に隠れて、社会の領域をつらぬく逃走線に忍び込むあたりが、ノマドのノマドたるゆえんなのです。
ここに私たちとフーコーをへだてる違いのひとつを見ることもできるでしょう。つまりフーコーにとって、戦略でがんじがらめになった閉域が社会であるとしたら、私たちが見た社会の領域はいたるところで逃走の水漏れをおこしていたのです。68年5月は歴史のなかにひとつの生成変化がなだれこんできた特異な出来事であり、だからこそ、歴史学にはこれがさっぱり理解できなかったし、歴史にしばられた社会はこれを自分のものにすることがまったくできなかったのです。
(ドゥルーズ『記号と事件』第4章)
シャシンしない日は「ほとんど」ない。
ドゥルーズやフーコーを読まぬ日は「まったく」ない。w
生成変化する現動態の生き物だから、ボクは毎日哲学をしています。
というか、ひとはみな、逃げてゆく「いまこの時」を鷲づかみにし、はたまた検証し、すなわち哲学のなかに生きています。
SNSやLINEなんかには及びもつかないスピーディなシナプスがわが小さな脳に生成し、進むかと思えば引き返し・・そうノマドを生きることになるのです。
(レンズSOLAGONを。7s/GR28mm改F5.0相当)