2011年6月 Archives

CF-R8をWindows7

|
パナのCF-R8をWindows7へ。

ここに「評価情報」なるものがある。

メーカーとしてはWindows7化けを推奨はしてませんね。
が、手順に従えばおおむねオーケーです。
僕は対応モジュールと手順書でやりました。
「評価情報」の存在は知らなかった。
よって「PC情報ビューアー」の件は後で知りました。

『PC情報ビューアーで、OSバージョンがWindows Vistaと
表示されます。PC情報ビューアーの制限事項です。』
というわけです。(笑)
情報はVistaですが中身はちゃんと7です。

500 Internal Server Error

|
500 Internal Server Errorは
サーバーにアクセスして初めて確認できる。
昨日は朝からクローラー対策をやっていた。
.htaccessを書き換えてFTPでUP。
このあと確認をしていなかった。
外出前に虫の知らせでアクセスすると、エラー。
2時間以上500を返していた勘定だ。
旅先でこれに気づいたこともある。(笑)
こいつはもっと深刻ですよね。
FTPができないホテルがあるくらいだもの。
(アンケート用紙に書いてチェックアウトしたけど
 たぶん対応してないと思うね、かのホテル)

自鯖やったお方は承知でしょうが、CGI設置で
これをしばしば出しますよね。
.htaccessの中のスペース1個の記述ミスで500エラー。
油断は禁物。
それにしてもクローラーもいろいろだ。
携帯サイト、モバイルサイトが多くなった。
これも時代なのだろう。
しつこさ、不正アクセス・・いたちごっこ。
サバ管さん、がんばってね。エールを送ります。

江山楼閉店

|
特に用事があったわけでもない。
長崎に出る。江山楼に行く。
店はいくつかあるので久しぶりにココウォークに行く。
バスを降り横断歩道を渡る。
エレベーターで5階に。
(今にして思えばエレベーターは5階までずっと一人だった)
降りるとあたりがシンとしている。
人がぽつんといるくらいだ。
あれ?降りる階を間違えたか、と思った。
が、中華模様のミセが向こうにあるではないか。うむ。
そちらに回る。ミセの前のロビーに誰もいない。
何か変だ。以前はごった返しの場所だったのに。

なんだなんだ、江山楼は閉店していたのだ!
2年少し前、諫早でも同じ経験をした。
江山楼諫早店で夕食をと出向いたら閉じていた。
このときも店の前で茫然とした。一人だった。
今日また「再現」された。
いやはや、なんでこんなことになるんだろう?


村上春樹流にいえば、
「そんなもんさ。それがどうした?」ってことになる。
社会実験終了後の有料道路を使って行ったのによ。
ちゃんぽん好きの男はついてない。

まことに「記憶」というのは今ここにしかない。
今ここで更新する、そこにしかない。
「第三の時間」を生きていた。
互いに「位相」の違う時間を生きていた、というべきか。
帰還後ブログ表象するとき、それらは別の容貌=顔貌だ。

別の容貌すなわち新しい時間に生きる。
絶対矛盾的自己同一=西田幾多郎にならえば
作られた時間が時間を作る。
表象にはココウォークでの時間はもはやない。
あそこでのやりきれなさは今の哀しみではない。

それらは分離している。とはいえ親密に(?)癒着してもいる。
追想を過剰に表象する不快を短歌に感じたとき
時間の中に生きるかのようなウタをやめた。
詩や短歌は自分に似合った表現方法だと思っていたが
罠もある。
とまれ江山楼がまたひとつ閉店したのだ。
そうなのです。(笑)
ダナ・ハラウェイの
『猿と女とサイボーグ』(高橋さきの訳 青土社)を読む。
船木亨=デジタル方法序説関連ですな。
分厚いのでジュンク堂での立ち読みが
いささか骨がおれる。当地の県立図書館から借りた。
まずは朱線のあたりを読んでみてください。
(厚みでスキャンに難あり)


身体/生体(と彼女は呼称する)をどのように捉えるかが
なんとなくわかると思います。
「身体は生まれるのではない。作られるのである。
記号、文脈、時間と同様、現在では身体も非自然化しつくされている。」
というわけだ。
第8章の「サイボーグ宣言」では「支配の情報工学」という
ひとつの見取り図を示す。
第10章においては、これは少し修正される。それを紹介します。
(スキャン合成。サイズ大。すみません。)


ご本人が言ってるように、
現在が下列のような状況だ、というわけではない。
あなたはご覧になっていかがですか。
自己のポリティクスで、境界を感じませんか?
接合面に佇んでいるような気がしませんか?
ある点では上列ゾーンに身を置いてる自分がいます。僕の場合。
まあ、認識を鍛えるチャートだと受け止めてます。

このチャートから亀裂・稲妻がみてとれる。
ジュンク堂でチャートを見たとき
咄嗟に浅田彰を思い起こしました。そう、『逃走論』です。
パラノ<>スキゾ
ハイアラーキー<>アナーキーのあれです。
実際、ヘテロ<>ゲイはハラウェイにもピッタリ来ます。
ま、そんなところです。

SetEnvIf Referer リファラー

|
アクセスログで、ここ2,3年のIT周辺の環境変化を感じる。
ケータイが進化したこと。スマホが伸びたこと。
タブレット型が出たこと。あれこれ。
画像・映像を手軽に閲覧できる。

僕の「芸名」(笑)は多くの写真関連のサイトに
無断でリンク「されて」いる。
画像や映像と言えば、
男の子だったらだれもが好きなソレがある。
リファラをみるとUSサバのさるサイトに

\xe6\x98\xad\xe5\x92\x8c30\xe5\xb9\xb4\xe4\xbb\xa3\xe3\x80\x80\xe3\x83\xa2\xe3\x83\x8e\xe3\x82\xaf\xe3\x83\xad\xe3\x83\x9d\xe3\x83\xab\xe3\x83\x8e

てなのがある。(逆スラッシュは¥)
これで僕の大阪ニコンサロンの写真が出る。
なんてこった!

横800とか1200とか、大きいものが標的にされている。

\xを%に置換してデコードすると、先の変なコードが
日本語で何と表現しているかがわかる。
露骨で、ちょっと書く気がしない。(笑)
似たようなサイトは他にもある。今のところgensun-imagesは
放置しているが、この先ひどくなったらdenyする。
今回denyするのはimg.hoge.info(仮称)で以下のように。
.htaccessの記述です。

SetEnvIf Referer "^http://img\.hoge\.info/" ref_hoge_info
(併記指定可能)
Options All -Indexes
order allow,deny
allow from all
(中略)
deny from env=ref_hoge_info

これで拒否。リンクをたどっても写真にはアクセスできない。
サーバーは403を返す。

リファラーをチェックするなんてああ面倒。
やりきれない。
檜垣立哉の『西田幾多郎の生命哲学』
(講談社現代新書)については先に触れた。

高校時代に西田の『善の研究』を手にしたが
てんで歯が立たなかった。
クラスに弊衣破帽を気取った友人がいて
彼に阿部次郎とか倉田百三を薦められた。
読み始めたがどちらも途中で放棄した。
僕のピントじゃなかったからだ。
むしろ当時は、岩波哲学講座の田中美智太郎が好きだった。
で、繰り返すが西田幾多郎は理解できなかった。

今回半世紀を経て、檜垣センセのおかげをもちまして、
ふたたび西田幾多郎に巡り合う。僥倖このうえない。
しかも今度はジャストピントなのだ。

さてさて。
檜垣センセが最終的に取り上げているのは
『絶対矛盾的自己同一』という論文だ。
これがどんな概念であるかは、
檜垣センセの前掲書を読むがよろしい、ということになる。
だが幸い、現在「青空文庫」で同論文を読める。
僕はそれを片手に檜垣=西田を読んだ。
それをパナのCF-R8上で読めるサイズにPDF化。
以下のパーティハットをダブクリすると、
たちまち祝祭的雰囲気が立ち込めまして、
西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』のPDFが開きます。(笑)


ビジネスモバイルのレッツノートで、
西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』だって?
そんなお方は万が一にもいますまいね。うむ。

福新樓 チャンズ

|
ZHANG'S(チャンズ) は福新樓の1階です。
湯麺、粥、コラーゲン、甘味。
前回に続き行きました。(芸がないか)
11時30分開店まもなく入ります。混む前に。
ぎょうざ、お汁粉は前回と同じ。(拡大アリ)


ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』を
ジュンク堂で立ち読みしました。疲れる。
この日は大雨。帰りも運転がしんどい。

「自同律の不快」は大江健三郎の朝日=文芸時評で
知る。90年代初頭と思う。
時評は単行本にもなったが、自分の書架にさがせない。
たしか司馬遼太郎か五木寛之かそこいらを批判していたと思う。
根拠になったのが「自同律の不快」。

つまりはそれは「主体」=「視点」が不動で
自己同一化に向けた策、回収の為の自己模倣・・
そんなときにでてくる感情だろう。
それは「不快」でしょう、と思ったものだ。


ベルクソンの円錐で、先端Sの「様態」は、
常に差異をともない出現するものでしょう。
これに対して、
「自同律の不快」はSを疑似的=意図的に固定させて
作家が安定的な主語=定点として物語ることにある、
とでもいいうるだろうか?
「記憶」と「自同律の不快」を30代から思い続けてきて
いままた、ドゥルーズ周辺を読むことで改めて考える。

大江健三郎といえば、3月11日の震災に関連して、
「ニューヨカー」に寄稿してます。ググれば読めます。
文中「記憶」という術語が現働の有効なバネとして、
用いられている。

-その人たちの記憶があることによって、
政治的現実主義の名のもとに
核兵器の破壊力を軽んじることができません。-
and their memory prevents us
from minimizing the pernicious nature
of nuclear weaponry in the name of political realism.

もうひとつ大江健三郎について思い続けてきたこと。
20年くらい前でしょうか、小説をやめる、と宣言しました。
で、スピノザを読む、と。
ふむふむなるほどと当時思ったものです。
その後小説のほうは再開したようですが
スピノザのほうはどうなったのでしょうね。
生活のなかに実践的に導入してるのでしょうね、きっと。
「ベルクソンの円錐」について、
檜垣立哉『西田幾太郎の生命哲学』の114ページを
スキャンしましたのでどうぞ。


先端を現在と考えれば、
ABを仮に1980年としてもいいのです。
中間があります。全体が「純粋記憶」です。
Sはたぶん運動の実在です。実働の現在ですが、
といっても、金太郎飴みたいにどこを切っても
同じイメージを出せるというものではないでしょうね。

まあ、檜垣センセの実物にあたってみてください。

ベルクソンの円錐

|
オキシダントなのか、PM2.5なのか
喉のヒリヒリに耐えつつも長崎に出る。
何年振りか?知る人ぞ知るカラシマさんのコーヒーを賞味。
6月1日は「写真の日」だそうです。
そうでありんすか。

「江山楼本店」のちゃんぽん。注文するときは
フツーのちゃんぽん、と言えばよい。(笑)
奥にボケて写りこんでいるのは修学旅行の高校生。
2時半だから空いていた。



 檜垣立哉『西田幾太郎の生命哲学』を携えて
ちゃんぽんを食したその数日後、同著114ページ。
「ベルクソンの円錐」。なんだここにあるじゃないか。
「檜垣=西田」はおすすめです。
「ベルクソンの円錐」についてはググってください。

このアーカイブについて

このページには、2011年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年5月です。

次のアーカイブは2011年7月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.01

photo pages

photos

地上の夜の天使たち