2011年12月 Archives

「自己の構成」

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「自己の構成」とはなんだろう?
世が世なら学生さんの就活に必須の知恵、
ということにもなるだろうか。
僕にはもちろんそんなつもりはない。
近年これを気にしながら生活している・・
そんなところだ。
人が力を感じて生きる方法、と思っています。
ことほどさように実践できるかは別問題ですが。
1.実際の場面での離接は明らかじゃない。
2.仮に明らかでも自分の力能が不足。
というようなことかなあ、できないとすれば。
僕たちは身体のことも精神のこともよく知らない。
それは肝に銘じておくべきです。
にもかかわらず「自己の構成」です。
まるで自分で自分をどうにかできるみたいな
いいかたですね。それは無理です。
だからといって無力だと思わないでください。
波打つパラドックスを統御せんと欲して
神に祈っても何も解決はしないでしょう。

ニーチェは言っています。
「汝自身を助けよ、そうすれば誰でもが汝を助ける。
隣人愛の原理。」
これって健全ですなあ。(笑)
でもホントのところそうなんです。
「隣人愛」とはいま流行の「絆」ではない。

ニーチェはスピノザに負うところがある。
これは「内在」を説くアガンベンの「系譜」でも
明らかにされていますね。
そのニーチェの「善」に似たところもありますが、
僕は「善」を「自己の構成」と結んで考えます。
「善」=「自己の高揚」とでもしておきます。
(そこが似てるところなのです)
自分が高揚しないことならば
つとめて思いとどまりましょう。
そこから「自己の構成」の確かな足取りが開始します。
感じる人はおわかりですね。

「認識」はそれほど確かではない。
つまり人間はそれほどデキてはいないのです。
でも身に沸き立つ高揚感は少しは確かでしょう。
オレの力が弱まるなあ、と予感すれば
そこには手をそめずにおきましょう。
力をあなたの中で高めるもの、
それを引き寄せてみましょう。


ロレンス「黙示録論」

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当地の県立図書館に依頼していた
ロレンスとニーチェが24日に届く。
クリスマスプレゼント、お年玉、だ。



さっそく『黙示録論』からはじめる。

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至るところ、つねに権力標識のみ、
愛の標識は見出だしうべくもない。
つねに全能なる征服者クリストが
大いなる剣を閃めかし、無数の人間を殺戮し、
ついには血の海が馬の轡に達かんとする光景に
掩われている。
救世主クリストなどはどこにも求められない。

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ここにはPDFがあります。

さて。
上記のページは、
本書のテーマがよく出ている箇所です。
1.ドゥルーズが指摘するごとく
ロレンスは惹かれてもいます。
パラドキシカルなロレンスがいい。
2.画像でみて(読んで)気づくことがあります。
福田恒存そのひとの訳注が多い。
本書の3割は実に訳注なのです。
ですから新訳は出せませんな。(笑)
おそらくこれ以上のものはありますまい。
3.いわゆる『欽定訳』が最高だ、と
福田恒存は言う。これは文語訳のことです。
ロレンスが特殊な訳書で例示しても
福田は文語訳を当該箇所に割り当てる。

熱意ある方のために

ここに「ヨハネの黙示録」の文語訳PDFを。

愉悦なるかな、読書!

前立腺 針生検

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前立腺の針生検を実施。
PSAマーカー、値7.92。
2泊3日。当地の医療センターにて。



同じ運命を持つ方への参考的感想(要点のみ)
1.2泊3日は不必要。
2.僕の場合は10本。
3.仙骨麻酔。痛くない。
4.お産の体勢。
5.実行そのものは麻酔も入れて20分くらいか?
6.2時間安静。紙おむつ。
(2時間経過)
7.血尿あり。5回までは最初の出だしに血液が薄く。
(水をたくさん飲むべしとの指示あり)
8.血便なし。
9.熱も37度程度まで。(暖房のせいかも)
(12月23日、3日目に退院)

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さてさて。
僕はかねてからここをブックマークしていました。
まあごらんください。

ここのセンセは日帰りでやります。
センセはPSA10以下で56%の癌を見つけてます。
「超音波検査での前立腺体積をもとに
癌らしいかどうかを計算し」針生検に踏み切る・・
いわば「確信犯」を追尾し、逮捕するのです。
「凄腕」のドクターと僕はひそかに思ってます。
ブラックジャックなのです。(笑)

10.僕は術後24時間後に、センセのWeb記述の
「セックスすると血が混じる」というのを
こっそりマスターベーションで実験しました。(笑)
すると、センセの記述どおりに
「トマトジュースのような鮮やかな赤色」の精液が出て
ホントにびっくり仰天しました。(笑)

このセンセね、横浜の開業医です。
でもキャリアはかなりのものです。
院長あいさつです。

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11.要はあわてない、ということです。
僕を担当したドクターは「前立腺は小さいですね」と。
つまり見立てはそれぞれの医師でかなり違います。
指触診で、ある医師は「大きい」と診断し、
別の医師はそれほどでもない、と言う。
CTスキャンで内科の主治医はかなり大きい、と・・・
つまりは大きさですから受け止め方も個人差がある。
医療センターの泌尿器科の主治医はPSAの値に
一喜一憂しないことです、とおっしゃる。

さればこそまずは自らが自らの主治医となる必要が
あると思うのです。
ただまあ針生検はヒットすればそこに癌があるわけです。
これは確実です。
どの時点で踏み切るか、先の横浜のセンセの方針は
僕にはとても得心のゆくものなのです。
あ、でも、マスターベーション実験はしないがいいですよ。
ちなみに僕の結果が出るのは来年になります。

メリー・クリスマス、ミスターPSA!

家政婦のミタ

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ロレンスは、黙示録をひどく嫌っていながら、
その嫌悪感をとおして、この本に対して不可解な共感、
さらには一種の賛嘆の念まで抱いてしまう。
まさにこの本には沈殿物があり、層をなしているからだ。
ドゥルーズ『批評と臨床』第6章。

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妻の話だと「ミタさん」の最終回はつまんなかった、と。
それはそうだろう。
最終回視聴率は40%でこれは歴代3位とか。
あのドクターズバッグをグッズとして売り出す・・・
価格65000円なり。
何かどこかがつまらない平凡な現象だ。
朝日の記事にへえ、と思いはしたものの、
脚本は陳腐=破綻しているように僕にはみえる。
仕事のできるミタさん、家族の幼稚な振る舞いは
ステレオタイプでクリシェに過ぎる。
皮相しかみえてこないのだ。
皮相は重要ではあるがその下に層がない。
ミタさんが不気味にふるまっても、
ちっとも怖くないのはそれがクリシェに終始するからだ。
上澄みがあっても沈殿物がない。
妻の妹の気持ちに気づかない男、あるべき層=陰影がない。
つまりかのドラマには、
ロレンスの「無教養なウェールズ人の坑夫」がいない。
のっぺりとした白痴的な群像だけなのだ。
視聴率こそがテレビの価値だ。世界中そうなのだ。
資本の論理といえばそれまでだけど、なぜそんなドラマが
もてはやされるのか?衆愚とはそんなものか?

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テレビの内側で、しかも(人に質問する、人にしゃべって
もらう、意外な映像を見るといった)テレビの根本に
かかわる要素を変革するような番組をてがけるというのは、
とても許されることではないのです。
ドゥルーズ『記号と事件』(Ⅱ映画)

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ロレンス「黙示録論」

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『批評と臨床』には検査入院のお供になってもらう。(笑)
その第6章、
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」
その章の原注"Apocalypse"を読むために
福新樓のあとはとりあえずジュンク堂へ向かう。

ロレンスの『黙示録論』である。
福田恆存訳なのだが
2004年、ちくま学芸文庫版である。
ドゥルーズの原注あたりから読み始める。
予想はしていたが拾い読みというわけにはゆかぬ。
分厚いのです、これが。
買うとまた死後の残滓がふえる。
この日は同じロレンスの『アロンの杖』や
ニーチェにもあたるつもりでいたのだが
はやばやと頓挫したかっこうになった。

今日になって当地の県立図書館へ
ニーチェ全集の第13巻を含めて借り受けの
予約を入れる。退院したころには着くだろう。
キリスト教にはそのひとはいない。
初期キリスト教にすらそのひとはいなかった。
そのひとは弟子たちのあいだでさえ孤独であった。
「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
むしろ何かを察知したのはピラトのほうかも知れぬ。
十字架をになったクレネ人シモンのほうが
弟子たちよりはマシだったのだと思う・・・

あ、でもどうでもいいことですね、そんなこと。
パトモスのヨハネの幻視がすごいなら
ロレンスのそれはもっとすごいと思う。
尋常ならざることは同じです。
3日間僕は科学の臨床の被験者となります。(笑)
『批評と臨床』はせめてもの僕の対抗の線ですが、
ひしめく差異のなかどのような積分としての魂が
産出されるのだろうか?
「流れとしての、流れの集合としての自分、
しかも他の流れと、自己の外で、そして自己の内で
関係を持つ自分を生きること」
(第6章より)

Gootkit auto-rooter scanner

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自サイトのセキュリティ関連で
手の内をオープンにするわけにはゆかないが
気になることをひとつ。

Gootkit auto-rooter scanner
というのがわがサイトの
ユーザエージェントでトップに立っている。
こんなことは前代未聞だ。
いろいろ調べるがどうもわからない。
日本語サイトでの情報がないのだ。
1箇所あるがそこの主も首をひねってる。

正体がはっきりしないので
ログをみて挙動不審のIPはすべてdenyする。
404、406などのエラーを吐くものを中心に。
ちなみにログによく出る
「echo%20YYYAAZ;uname;id;echo%20YYY;」
でググると、
このサイトがヒットします。
何かの役に立つとおもいます。

それにしても驚嘆したことがもうひとつ。
この件でLHXのサポートに問い合わせた結果です。
(拡大画像あり)



さも自信ありげなご回答ですが、
これは先ほど僕が、調べても1箇所しか出ない、
と述べたさるブログ記事からの
安直でモロ引用の回答なのでした。
(拡大画像あり)



おわかりでしょうか?
お粗末なものです。(笑)
まあサポセンもお忙しいのでしょう。
LHXを撤退する、というかもうブログなんて
いいかげんやめにしたがいいのかもね、ホンマ。
なんだやっぱり「予感」的中だ。
国税庁にアクセスすると、「確定申告」に
変更があった。そのスクリーン・ショット。



URLはここですが、消えます。

ああ、NTTのカードRWは買う必要なかった。
ついてないなあ・・まいいけど。
低所得者層ですからね。これも恩恵です。

朝日新聞 定義集

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12月14日「朝日」紙上の文化欄。
隣り合わせの記事をseo上別記事で仕立てます。
(ちなみに左隣に「家政婦のミタ」)

大江健三郎 「海外の学会へ出向く小説家」。
定義集。原爆を経験した日本文学。
(おお、どれがタイトルなんだろう?拡大画像あり。)



それとご丁寧に

ここにはPDFファイルがありんす。

ううむ。
実に大江健三郎ですなあ、これは。
でも大変ですね。外国に出かけて若者と討論なんて。

僕は老後は、暖かい日差しのあふれる2階で
ごろんとまどろむほうを選びます。(笑)
丈夫で元気なんですね、大江さんは。
スピノザはどうなったのでせうね。

個人的にはこの朝日記事は楽しめました。
若々しさ、夢、想像力・・を今も変わらず感受させる。
妙なもので魂が浸潤されるんですな。
おれも原民喜読もう、竹西読もう、というような気慨を
喚起させるところがあるんですね。
たとえ揮発的な微粒子ではあれ、それを散布する力が、
大江健三郎という人にはあるのでしょうね。
それは率直にたのしい。
この大江氏の顔シャシンもよろしいしね。
僕もまた髪のばそうかなあ。

(追記:『心願の国』を青空文庫で読みました)

朝日新聞 家政婦のミタ

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12月14日「朝日」紙上の文化欄。
隣り合わせの記事をseo上別記事で仕立てます。
まずは、「家政婦のミタ」
(拡大画像あり)



それとご丁寧に

ここにはPDFファイルがありんす。

妻が階下で「家政婦のミタ」。僕ものぞいてみる。
ネットで視聴率のことや松嶋菜々子のギャラが
倍増したことなどを見ていたので。

おお、松嶋菜々子も年相応にふけてきたなあ。
ドラマの印象はといえば、
家庭崩壊の原因たる父親のなさけない姿、
すごすぎるミタの仕事・・
でもばかばかしいドラマ、と。

が、しかし、上記の「朝日」記事である。
なるほどそんなふうに「人気」を分析するわけだ。
ふむふむ。ちょっと感心しました、素直に。

NTT-ME SCR3310

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HITACHIのカードリーダライタM520Uは
公的認証サービスに対応しなくなった。
HITACHIのWebページ
e-Tax向けに購入したのに使ったのは1度だけ。
割り切れないが致し方ない。
かわりにNTT-ME SCR3310を購入した。
左がHITACHI、右がNTTです。



あらためてJPKI利用者ソフトを入れる。
SCR3310のドライバとJavaも導入。
JPKI利用者ソフトのユーティリティにある設定や
Java実行環境への登録も行う。
で住基カードを入れて「自分の証明書」を見る。
するとエラーが出る。
どうもパスワードが違うようだ。
あれかな、これかな、とやったがダメだ。
カードRWが変わったからかなあ・・と疑念を・・
そのうち「ICカードがロックされています」なんて
出てくるではないか?
それでも男はしばらく試し打ちをしていました。

さすがに何か変だ、と感じてJPKIサイトを探ると
ミスを5回繰り返すと市がICカードをロックする、
とある。市役所に出向いてください、と。
おやまあ。なんてこった。

よって今朝はいの一番に行ってきた。
住民課でできる。
その場でパスの再設定ができる。
(解除に123456789とか入れてたみたいでした)
e-TaxのためだけにカードRWを購入するってのは
考えてみれば不経済なのかも知れぬ。
3月の確定申告までのあいだに
今度はSCR3310が対応をせず、となったりして。
ま、いいけどさ。

前立腺とMRI画像

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検査部位 前立腺
臨床診断 前立腺癌の疑い 前立腺肥大症+慢性前立腺炎
検査目的 PSA漸増です。(7台)前立腺は超クルミ大ですが、
圧痛、硬結は認めません。MRではいかがでしょうか?

ということでMRIを。
しかし読影所見は前立腺癌は認められなかった。
念のため後日針生検をおこなうことになった。
いやあ、僕もここまできました。
日本国の医療=検査システムに乗っかって、ついに。
これが今日のMRI画像。



おなじ病の方は自分なりに「読影」もできるでしょうね。
僕は3年前からPSAが漸増しています。
一度も下がったことはありません。
これまで超音波、骨シンチ(これは蝶骨との関連で)、
そして今日のMRIと経てきました。
で、年内に(たぶん)2泊3日の入院で
針生検ということにあいなった次第です。

当地の医療センターに僕はいろいろ縁があって、
通いなれてはいます。(笑)
ですが自分が入院するという経験はなかったのです。
紙おむつも院内のローソンで買いましたよ。
こんなふうに1枚モノがあるんですね。



「特別権力関係」という法律用語があります。
たとえばそれを心理学の用語として使えるとします。
病院職員と患者の間には何か特別の「関係」があります。
これは学校にもあります。
教師は子供に対して、「こらあ、そこのオマエら!」という
実に自然な「関係」を当たり前のごとく保持しています。

病院では僕の年配ともなればもう子供扱いです。
珍妙です。笑えます。
自分でもそんな身振りをしているのかもしれませんね。
検査入院が決まったらさらに血液検査、レントゲン、
心電図、とあちこち回ることになりました。
そのせいで待ち時間の「読書」もなかった。
それでもなお、
「自己の内で関係を持つ自分を生きること」を想起しつつ
半日を過ごしたのだった。

GA-EX58-UD4 メモリ認識

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ギガのGA-EX58-UD4というマザボを使っている。
先日HDD2台を使ってRAID(ストライプ)を
やってたんだがこれがクラッシュした。
にっちもさっちもいかない。
復元イメージにもアクセスできない。
RAID構成の復元ってそもそもできるのかな?

でセブンの再インストール。
100個くらいのアップデートとアプリのインストール。
もうへとへと。胃痛がする。
RAIDはやめる。500GのHITACHI1個にOSを。
アプリは同じ500GのHDDにインストール。
別にもう1個のデータドライブもある。
あれこれやってるとブートの場所を探せないエラー。
やれやれ。
BIOSで確認する。なんだこいつがC:\になってる、とか。
ついでにCMOSクリアを実行。
マザボのメイン電源コネクタをはずす。
ボタン電池をはずす。
そのそばのCLR_CMOSのピンをショートさせる。

でまあBIOSの設定もデフォルトを尊重する。
起動。オーケー。
ところがメモリが6G実装、2G使用可能、なんて出る。
何これ?
リソースモニタをみると物理メモリの
ハードウェア予約済みが4Gとなっている!
ちょっとちょっと。

いろいろやりました。
BIOSは最新のヴァージョン。
BIOS設定のメモリに関するクサイところ。
(これはナシでした)
しかしよくみると
メモリをBIOSでは2Gしか認識していない。
つまりWindowsでは実装6Gと認識していても
BIOS上は別なのですな。知らなかった。(笑)
逆に言えば「使用可能」がプロパティで出たらヤバイ、
と考えていいかもね。
最終的にはマザボの電源コネクタ側から
1個ずつ認識させました。そう、1本さして認識を確認し、
また電源抜いて次にもう1本てな具合に6回繰り返す。

BIOSで6G認識した時点でSAVEする。
これでハードウェアの予約は2Mになりました。



プロパティはこんな表示に。



ドゥルーズの『批評と臨床』には
珠玉の論考がちりばめられている。そのひとつが第6章の
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」である。
僕は高校生の時分に聖書に親しんで、
ついにはバプテスマを受けたくらいだから
聖書の熱心な読者であった、といってもいいだろう。
『ふしぎなキリスト教』がすこぶる痛快だったのも
僕のそうしたキャリアにもよる。
この第6章がお気に入りなのも、
『ふしぎな』の場合と根は同じなのです。
お断りしますが、ロレンスの
『黙示録論』については不知です。
ドゥルーズだけに準拠してます。
まずは冒頭から3ページ分全部あげますね。
気になる人は読んでみてください。
ロレンスもニーチェもドゥルーズも
キリスト教のまがまがしき秘密の胚に触れる。
凡庸な「信者」には姿を見せない核心がある。
見過ごすどころか、凡庸な「信者」には影さえ見えない、
そんな核心なのだ。
「キリスト教にはイエスはいない」
そんなふうにも思えてくるのだ。

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それは同じ者ではない、同じ者でありえるはずがない・・。
福音書と黙示録を書いたのが同じヨハネかと問う学問上の
議論にロをさしはさんだロレンスは、そう述べる。
ロレンスはきわめて情熱的に論拠を出してくるわけだが、
そこまで強く言い立てるのは、評価方法、
つまりは類型法がからんでくるからだ。
福音書と黙示録を書いたのは同じ類型の人間ではない。
だからといって、両者の本文のそれぞれが
複雑だったり複合的だったりするとか、
結果的に違うことをいくつも作りだしている、
というわけではない。
問題となっているのは、二人の個人、二人の著者ではなく、
二つのタイプの人間、魂の二つの領域、
まったく異なる二つの集合なのである。

福音書は貴族的、個人的で、甘く、愛情にあふれ、
退廃的で、まだかなり教養に満ちている。
黙示録は集合的、大衆的で、教養とは無縁で、
憎悪に満ち、野蛮だ。
誤解を避けるために、こうした言葉の一つひとつを
説明しておくべきだろう。だが、すでに福音書の著者と
黙示録の著者は同じではありえなくなっている。
パトモスのヨハネは福音書の著者の仮面をかぶる
ことすらできないし、キリストの仮面もかぶれず、
もう一つ別の仮面を作り上げる、
もうひとつ別の仮面をでっちあげ、それは、
われわれの好み次第で、キリストの正体を暴いたり、
キリストの仮面に重なったりするものとなるのだ。
福音書とキリストが人間的な愛や
宗教的信仰への愛に磨きをかけていたのに対し、
パトモスのヨハネは宇宙的な恐怖と死のうちで
仕事をする。
キリストは愛の宗教
(信仰ではなく、一つの実践、一つの生き方)を
創り出したが、黙示録は権力の宗教―一つの信仰、
一つの恐ろしい裁き方―をもたらす。
キリストの恵みに取って代わる、無限の負債。

ロレンスの文章は、もちろん、黙示録を読んだあと、
あるいは再読したあとに読むほうがいい。
そうすれば、黙示録の今日性、
ひいてはそれを告発するロレンスの今日性を
理解できる。
この今日性は、ネロ皇帝=ヒトラー=反キリスト者
といった類の歴史的照応に存するのではない。
かといって、核や経済や環境の分野で
SF的なパニックを引き起こす世界の終わりとか
千年説に存するのでもない。
われわれが黙示録に浸りきっているのは、
むしろ、黙示録がわれわれの各人のうちに生き方、
生き残り方、裁き方を吹き込むからだ。
それは、自分は生き残りだと考える者一人ひとりの
ための書物である。ゾンビのための書物なのだ。

ロレンスはきわめてニーチェに近い。
ニーチェの『反キリスト者』がなければロレンスの
著作も存在しえなかったと仮定できるほどだ。
しかしニーチェ自身も開拓者だったわけではない。
スピノザでさえ違う。
幾人かの「幻視者」が、キリストは愛する者なのに、
キリスト教は死の企てだと対比させた。
彼らはキリストに対して特別の好意を抱いて
いるわけではないが、キリストをキリスト教と
混同しないようにする必要を感じている。
ニーチェにおいては、キリストは聖パウロと
まっこうから対立している。キリストは、
古代ローマ退廃期の人びとの中でも最も優しく、
最も愛情に充ちた人間、いわば仏陀のような存在で、
われわれを祭司による支配から解放し、
誤り、罰、償い、審判、死といった観念のいずれからも、
そして死のあとに来るものからも
われわれを自由にしてくれた―こうした福音の人に、
キリストを十字架の上にとどまらせ、
絶えず十字架に戻しては蘇らせ、
永遠の生についての重心をそっくりずらし、
以前の祭司よりさらに恐ろしい新しいタイプの祭司を
創り出す黒き使徒の聖パウロが二重写しになってくる。
「祭司職の専横を基にした彼の技術、
人だかりを作り出す彼の技術、要するに不死の信仰、
つまりは審判の教理」。

ロレンスも対立を取り上げるが、
彼の場合はキリストを、黙示録の作者である赤き使徒、
パトモスのヨハネに対立させるのだ。
これはロレンスにとって死を招く書となるが、
というのも、喀血で真っ赤に染まる彼の死に先立つこと
わずかな時期に書かれたのであり、
それは『反キリスト者』がニーチェの精神的瓦解の
直前に書かれたのと同じだ。
死ぬ前の最後の「喜ばしきメッセージ」、最後の福音だ。
ロレンスがニーチェを模倣したと言いたいわけではない。
むしろ彼は矢を、ニーチェの矢を拾い、
別の場所で違う方向に向け、異なる彗星をめざし、
別の公衆に囲まれてもう一度射る。
「自然は哲学者を人類の中に矢のように送り込む。
どこかを狙っているわけではなく、
矢がどこかに引っ掛かったままでいることを望む」。

ロレンスはニーチェの試みを繰り返すが、
標的を聖パウロではなくパトモスのヨハネに据える。
最初の試みと二度目の試みでは多くのことが
変わっていたり、補い合っていたりするが、
共通のものが積み重なって力を増し、新しくなるのだ。
キリストの試みは個人的なものだ。
個人は、それ自身では、集団とそれほど対立する
わけではない。だがわれわれ一人ひとりのうちで、
魂の異なる二つの部分として、
個人性と集団性が対立するのである。
ところが、キリストはわれわれのうちにある集団的な
ものにはほとんど訴えかけない。
彼の問題は「むしろ祭司職=旧約聖書の集団的体系、
ユダヤの祭司職とその権力の集団的体系を
解体することだが、それはただこの不純物から
個人の魂を解放するためである。
皇帝はといえば、
キリストは彼にその取り分を残すだろう。
その点においてこそ彼は貴族なのである。
彼は、個人の魂の錬磨をすれば、
集団の魂の中に埋もれた怪物を
追い出すのに充分だろうと考えていた。
誤った策だ。集団の魂との関係、われわれの外にせよ、
内にせよ、皇帝との関係、われわれの内にせよ外にせよ、
権力との関係を自分自身で切り抜けるように、
彼はわれわれに仕向ける。
この点に関し、彼は使徒や弟子を失望させ続けてきた。
彼はわざとそうしているのではないかとまで思えてしまう。
彼は主人になろうともしないし、
弟子を助けようともしない
(彼らを愛するだけだ、と彼は言っていたが、
その裏には何が隠されているのか?)」。

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スライドショーFLVを少しはマシな画質に。
380*254サイズの画像をTMPGEncのスライドショーで。
ポイントは映像をAVI出力、「非圧縮RGB」で。↓



FLV化はAny Video Converter Goldの以下の設定。↓



実演(?)は横380埋め込みJWPlayerで。
ホントに高画質になったか、
僕の閾値が作業時はマヒしてるだろうから
定かではない。
最終的にFLVコーデックを使うわけだから、
その時点で画質は決定的な打撃を受ける・・
そうとも言える。わからない。
ま、ご検分のほどをという程度で以下に。



解像度のことを考えるならやはり素直に、
音声抜きでFlashを使うほうがいいか。
JWPlayerはSWFファイルをサポートするらしいので
音声なしFLVというのではなく、SWFそのものを
埋め込むことができる。
しかしどうもJWに取り込むと、
再生時には画質が落ちるという按配なのだ。

よって横380のFlashと比較してみてください。
こちらが画質はいいと思います。
最後はブラックアウトします。



ちっちゃな時から

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浅川マキの「ちっちゃな時から」を
youtubeで検索すると、
1971年12月31日=紀伊国屋ホール=ライブ
というのがある。さすがyoutubeだ。
音声だけいただく。
TMPGEncのスライドショーを使う。
書き出しをMPEG-4にすると、
フォーマットを自由にできない。
そこで一般的なMPEGファイルにする。
それでも制約がある。
シャシンサイズ380*254を入力しても384*256になる。
(まあいいけど)
絵は大阪モノ。
FLVスライドシャシンのこの画質の悪さはどうだ。
ただただムゴイというほかはない。

(注:高画質化=修正版を
ここに置いてます。)

ナインソウルズ

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『ナインソウルズ』(豊田利晃作品)をみる。
脱走犯9人、荒唐無稽のB級映画。R-12指定。
シナプシスはWikiしてください。
7分間のFLV。前半、ストリップ。
浅川マキの「ちっちゃな時から」が使われている。
これがピタリとくる。うむ。
踊るのはユリナ(伊東美咲)。
ユリナの腎臓移植をしたのが白鳥先生(マメ山田)。
後半、松田龍平のラリッたシーン。
こんな演技はいつもながらいいよねえ。

荒馬と女

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『荒馬と女』(1961)。
劇場のシネマスコープでみたとき、
マリリン・モンローに訪れた「老い」に驚いた。
映画のシナプシスについてはWikiしてください。
クラーク・ゲーブル、マリリン・モンロー、
それにモンゴメリー・クリフトにまでもが
悲しげにみえるのはいたしかたない。
個人的にはちょっとツライ映画です。
まあそれは置くとして・・
録画したTSを詳細に《読む》と
あらためて気づくことがありますね。
ラストシーン1分間をどうぞ。



1.当時の僕に、星の下に道はありませんでした。(笑)
2.いまみても原題のとおり彼らは《misfits》です。
3.カメラはM.Mのときにはぼかして撮ってますな。
拡大画像でTSの1920サイズでゲーブルと比較すると
明らかです。





チネチッタの魂

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BS-hiの時代にTS保存をしていた「チネチッタの魂」を
チェックしたらば『ベン・ハー』の、あのイルカが出てきた。
驚いたことに
かの戦車シーンはチネチッタで撮影されたのだそうだ。
イタリア経済は厳しく、国の興亡が話題になるこのごろ。
チネチッタは大丈夫かなあ。
余興です、どうぞ。

概念的人物

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映画館を出たとき、
自分がいまみた映画のヒーローででもあった
かのような気分で歩いたことはありませんか?
そのとき実際にヒーローになっていたのだと
ぼくは思います。
内在する平面に「概念的人物」としてのヒーローが
顕れていたのです。
もちろん
映画のヒーローがそこに存在したというのではなく、
あなたがヒーローに成った、という具合にです。
ドゥルーズの言葉を引きましょう。

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しかし、概念的人物というものは、
ニーチェにおいても他の誰においても、
神話的擬人化でも、歴史上の人物でも、
文学あるいは小説の主人公でもない。
プラトンのソクラテスが、《歴史》に登場するソクラテス
ではないように、ニーチェのディオニュソスは、
神話に登場するディオニュソスではない。
生成〔~になる〕は、存在〔~である、~がある〕
ではないのであって、
ニーチェがディオニュソスに生成すると同時に、
ディオニュソスが哲学者に生成するのである。

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さてもうひとつ、「隠れた三人称」のこと。
「隠れた三人称」を証拠立てする例、
〈私は父親としてお前に話してるんだ〉・・
この場合《私》とは誰のことか?
「隠れた三人称」のことでししょうね。
だが「隠れた三人称」は概念的人物ではない、と
ドゥルーズは言っているのか?
どうもはっきりしないように読める。
「哲学的転位語」と言っている。
「父親として」が「愛するものとして」に転位すれば
(「仲介者」が代われば、ということ)運動は異なる。

「生成」と「転位」は同じようなものではないか?
つまり仲介者がいて
その者がとってかわって運動をなせば、
《私》はじゅうぶん「成って」いる。
よって僕の結論、以下のものたちは同じように
概念的人物の電荷を帯びている。
①映画館を出た男
②ディオニュソスに生成したニーチェ
③父親としてお前に言う私

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