ドゥルーズ: 2011年11月 Archives

さきごろBSプレミアムで
『ミツバチのささやき』と『エル・スール』が
あいついで放映された。ビクトル・エリセの作品である。
懐かしい。あらためて稀なる名作だと感じる。
梗概は検索してください。
「家族」は秘密めいてつねにそこにあるが
オィディプスのそれとしてではない。
むしろ子どもは父や母とは分かたれた存在として
描かれる。子どもは常に単独だ、と思わされる。

子どもは大人の「声」にどこか上の空で生きている。
実際に子どもと触れ合う機会をもつ大人であれば、
彼はそのことにじゅうぶん気づいているはずだ。
子どもはたまさか大人の内在の平面に接することがあっても
すぐに自分らの領分=領土、自分らの平面に立脚して生きる。
「大人はわかってくれない」のではなく、そもそも
「大人にはわからない」のだ。
ぼくはそう思っている。

では『ミツバチ』と『エル・スール』のそれぞれのラストを。

       
「世界」12月号を読むため図書館へ。
ロビーでは先約おじさんが読みふけっていた。(笑)
で、待機。かわりに「藝術新潮」を開く。

細江英公の『薔薇刑』でしょう?三島の。
いいなあこれ。(拡大画像あり)


さて、「世界」が棚にもどったので・・。


「地中海から時代が変わる」か-テオ・アンゲロプロスの言葉
を読む。藤原章生は毎日新聞にいたジャーナリストのようだ。
読んでみると、当人が「毎日jp」に記載したこんな記事と
気分の本流はほとんど同じ。二重記事ともいえる。
「論壇時評」で高橋源一郎が解釈したイメージとは
いささか異なる、と思った。
「扉を開こう」というアンゲロプロスの発話も
EUはギリシャを見捨てるわけに行かない、
解決の扉は待てばそのうちと開くさ、
つまり「扉を開こう」=「扉は開くさ」
というニュアンスではないか?
実はアンゲロプロスはまっとうで真正な放蕩グリーク
だったりしてね。(笑)

「思考のイメージ」はかくのごとく
先立つイメージ、錯誤や思い入れに浸潤されてもいる。
アンゲロプロスのシネマの影響から、僕が錯誤を導き入れた
としてもそれが内在の平面というものだろう。
僕の未熟な記事はちいさな「過誤」として
そのままにしておきましょう。(たんに訂正が面倒)

概念的人物

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「概念的人物」とは何者か?
「2 内在平面」に続きぬっと出てくる。(笑)

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デカルトのコギトは
概念として創造されたものであるが、
しかしそれにはいくつかの前提がある。
けれども、ひとつの概念にとって
他のいくつかの概念が前提になるようにして
(たとえば「人間」にとって「動物」および
「理性的」が前提になるようにして)、
前提があるわけではない。
いくつかの前提というのは、この場合、暗黙の、
主観的な、概念以前的前提のことであって、
それらが、ひとつの<思考のイメージ>を形成して
いるのである-すなわち、すべてのひとは
<思考する>ということが何を意味するか知っている、
すべてのひとは思考する可能性をもっている、
すべてのひとは真理を欲している・・・・
〔という前提である〕。

では、それら二つのエレメント以外に、
すなわち概念と、内在平面つまり思考のイメージ以外に、
何か他のものが存在するのだろうか。
思考のイメージとは、同じ群に属するいくつかの概念
(コギトおよびそれと繋がりうる諸概念)
によって占拠されるはずのものである。
デカルトのケースにおいて、創造されたコギト概念と、
前提された思考のイメージのほかに、
何か他のものが存在するのだろうか。

いささか神秘的な他のものが、
実際に存在するのである。
それは、時おり出現し、
あるいは透けて見えたりするものである。
しかもそれは、前概念的〔内在〕平面と概念との
あいだで行ったり来たりする、中間的な、
或る朧な存在をもっているように思われる。

それは、さしあたって、《白痴》である。
《私》と言うのはまさに彼であり、
コギトを発するのはまさに彼であり、
主観的諸前提を抱え込んだり
平面を描いたりするのも、まさしく彼である。
白痴とは、公的教授(スコラ哲学者)に対する
私的思想家である。
教授は、教えることのできる概念
(人間-理性的動物)をたえず指示するのだが、
私的思想家は、ひとつの概念
(私は思考する〔コギト〕)を、
誰でもがそれぞれの立場で権利上所有している
生得的な諸力によって形成する。
そこには、とても奇妙なタイプの〔概念的〕人物が
現れている。それは、思考することを欲し、
「自然の光〔理性〕」によって、
自分自身で思考する者である。
白痴とは、ひとつの概念的人物である。

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1.主体はコギトにあらず。むしろそれに繋がる
おぼろな存在である。
2.概念的人物とは私的思想家のことである。
3.それを「白痴」と呼称する。
4.「自然の光〔理性〕」とはたとえばスピノザを思え。



大阪=堀江。

内在平面とは

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『哲学とは何か』には
ドゥルーズにとって重要な概念である「内在平面」の
章が立てられている。「3 概念的人物」がそれに続く。
この箇所の移り行きは蠱惑的だ。
さて、ドゥルーズのセンテンスといっても、
それは「翻訳」されたものであり、
その意味では財津理氏に負うことが多いわけだが、
実際のイメージの塊りは翻訳者の仲介を意識することなく
内在に萌芽し育成もされる。
そのうえで言うのだが、たとえば『哲学とは何か』の
「2 内在平面」の最終部分を読むとき、
そこに「内在平面」が要約されている、と
思ってしまう。それは錯覚か?
僕は実際にはあらゆるページに「錯覚」してしまう。
それが正直な、つまり「告白」なのです。(笑)

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絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに
深い内部であるがゆえに、あらゆる外面的世界よりも
さらに遠い外である。すなわちそれは、内在であり、
「《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、
両者の相互反転」である。
〔内在〕平面の絶えざる<行ったり-来たり> -無限運動。
それはおそらく、哲学の至高の行為である。
すなわち、内在平面ソノモノを思考するというよりは
むしろ、内在平面ソノモノが、それぞれの平面において
思考されないものとして現にあるということを示す、
ということである。
内在平面を、そのような仕方で、
思考の内部にして外部たるものとして、つまり、
外面的ではない外部、もしくは内面的ではない内部として
思考することが必要なのだ。
思考されえないにもかかわらず
思考されなければならないものとは、
キリストがかつて、不可能なものの可能性を
そのとき示すために受肉したように、
かつて思考されたものなのである。

したがって、スピノザこそ哲学者たちのキリストであり、
そしてもっとも偉大な哲学者たちでさえも、
この神秘から離れていたり
それに接近していたりする違いはあるにせよ、
その使徒にすぎないと言ってよいだろう。
無限な<哲学者への-生成>、スピノザ。
「最善」 の、すなわちもっとも純粋な内在平面、
超越的なものに身をまかせることはなく、
超越的なものを回復することもない内在平面、
錯覚を、悪感情を、知覚錯誤を鼓舞することの
もっとも少ない内在平面、
これを、スピノザが示し、打ち立て、思考したのである・・・・。

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いかがです?
プリントアウトしてお便所に貼って、
毎日にらめっこする。と、すっとわかっちゃいます。

猥雑な電線がこの国の「文化」ならば、
それを「卑近美」として絵にすればいいのだ。
大阪=なんば。

映画『流れる』

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『流れる』(成瀬巳喜男 1956)をみる。
ch239で一回きりなので、録画し忘れないように
張り紙をしていた。(笑)

幸田文の原作が1955年なのだそうだ。
その翌年にはできている。成瀬の気合が知れる。
幸田文=「流れる」の梗概=成瀬巳喜男、それらについては
周辺を自身でWikiしてくださいませ。
落ちぶれてゆく置屋、
そこで暮らす芸子たちをとりまくさまざまな模様を
見てすごすお春(田中絹代)のまなざしがいい。
当時の名女優たちの芸は見事である。
山田五十鈴と杉村春子の 三味線と清元。
人間国宝級ですね。

こんな映画を21世紀の技術で見れるということ、
それがどれほど革新的な「芸術」であるか、
それに気づいている人がどれくらいいるだろう?
「人間であることの恥辱」を映し出すしか能のない
現代アホテレビ。アホ番組。
それを繰り出す同じ機械装置で、
私たちはドゥルーズがなかばあきらめていた属性を
ふたたび手に入れることができるのです。
それこそが「来るべきビデオクリップ」なのだ、と
僕は確信しています。
畏怖して感謝すべきパラドックスです。

ま、それはともかく『流れる』のラスト6分です。
スタンダードです。

内在平面とは

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「内在平面」はドゥルーズの重要な概念です。
それがどのようなものかも論じられてもきた。
ドゥルーズ自身さまざまな場所で触れている。
ここでは『哲学とは何か』から抜粋する。

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思考するということは、
一般的な無差異〔いずれの側にも傾かないこと〕の状態を
引き起こす。それでもなお、思考することは
ひとつの危険な営みであると言っても間違いではない。
無差異の状態が止むのは、もろもろの危険が
明白になるときだけであるとさえ言えるのだが、
しかしそれらの危険は、しばしば隠れたままである。
ほとんど気づかれず、企てに内属しているからである。
ところで、内在平面は前-哲学的なものであり、
もとより概念によって作動するわけではない。
だからこそ、内在平面は、一種の手探り状態の実験を
折り込んでいるのであり、内在平面の描出は、
ほとんどおおっぴらにできない手段、
ほとんど適切でなく合理的でない手段に依拠して
いるのである。それは、夢、病的なプロセス、
秘教的な経験、酩酊あるいは過度といったレヴエルに
属する手段である。
ひとは、内在平面の上で、地平線に向かって走る。
そしてひとは、たとえ精神の目であっても、
自分の目を真っ赤にしてそこから戻る。
デカルトでさえも、おのれの夢をもっている。
思考すること、それはいつでも、
魔女の飛翔の線を追うことだ。
たとえば、猛り狂った無限運動と無限速度をそなえた、
ミショーの内在平面。
たいていの場合、そうした〔内在平面の描出の〕手段は、
結果のなかには現れないものである。
というのも、結果は、もっぱら結果そのものにおいて
かつ冷静に把握しなければならないものだからである。
しかしそのとき、「危険」は別の意味をもつ。
明白になった諸帰結ばかり問題にしているときにも、
純粋内在がオピニオンのなかに
或る本能的な強い拒絶を引き起こし、
創造された諸概念の本性が
さらにそうした拒絶を激化させるということだ。
それというのも、ひとは、思考するときには必ず、
他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、
或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、
それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させるからである。

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上記の箇所こそが適切な抜粋だとは思わないが
僕にはこんな言い回しが一番わかりやすいのだ。
なによりドゥルーズらしい表現だと気に入っている。
ちょっと乱暴かもしれないが、

1.内在平面は「概念」とは区別される。
2.内在平面は内在平面そのものの脱領土化へと向かう。
3.内在平面は摘出できない。

そのようなものと理解しているのです、僕は。
子どもたちが社会を震撼させる事件を起こしたときに
教育業界者さんの常套句となる「こころの闇」。
それこそは「内在平面」の諸問題だと思ってきました。
「こころ」といえばまだすむものを「こころの闇」という。
それがものごとを台無しにしている。
「闇」なんかではない。
だれにでもある「内在平面」の諸問題なのだ。
ドゥルーズは難解なことを言っているのではない。
「こころ」はあまりに手垢がつきすぎた概念だ。
新しく「内在平面」や「思考のイメージ」と言い表すことにより
私たちに現に今生きられている生の秘密を解き明かそうと
しているのです。
描出=摘出=表象できないplan(平面)について
実際のところ何も知ってはいないのではあるが。

庭にやってきたアサギマダラ。


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