ドゥルーズ: 2013年9月 Archives

ドゥルーズ 出来事

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 ニーチェは、健康が病気に対する生ける観点になり、病気が健康に対する生ける観点になるように、健康と病気を生きることを勧める。病気を健康の探検とし、健康を病気の探求とすること。「病気において、最も健康な概念、最も健康な価値を観察すること、次いで、逆に、過剰に豊かで自信に溢れた生の高みから、類廃の本能の秘密の労働にまで眼差しをやること、これが、私が長きにわたって修練してきた実践であり、私の経験を特別なものにしたもの、そんな職があるとして、私が親方として通用した職である。今や、私は、遠近法を転倒させる技法を知っている…」。(『この人を見よ』川原栄峰訳)反対のものが同一化されるのではない。反対のものの隔たりのすべてが肯定されるのである。ただし、反対のものを一方から他方へ関係付けるものとして肯定されるのである。健康が病気を肯定するのは、健康が、健康と病気の隔たりの肯定の対象となるときである。隔たりとは、その手の届く限り、隔てるものを肯定することである。健康で病気を算定し、病気で健康を算定するこの方式こそ、まさに〈大いなる健康〉あるいは、〈悦ばしき知〉ではないだろうか。これによって、ニーチェは、病気であるまさにその時期に、高次の健康を経験するようになる。逆に、ニーチェが健康を失うのは、病気であるときではなく、もはや隔たりを肯定できなくなるとき、自身の健康を通して、病気をもはや健康に対する観点にできないときである(そのとき、ストア派の言うごとく、役は終えられ、芝居は終わる)。観点とは、理論的判断ということではない。「方式」とは、人生そのものである。既にライプニッツが教えていたが、事物に対する観点があるのではなく、事物・存在者が観点なのである。ただ、ライプニッツは、観点を排他的規則に従わせ、各観点は収束する限りで相互に開かれているとした。同じ都市に対する観点というわけである。反対に、ニーチェにあっては、観点は、発散に対して開かれ、これを肯定する。各観点に対応するのは別の都市であり、各観点は別の都市である。都市間の隔たりだけが都市を統一し、都市のセリー・家・街路の発散だけが都市を共鳴させる。そして常に都市の中に別の都市がある。各項は、隔たりを辿ることによって、別の項の端まで行く手段になる。ニーチェの遠近法・遠近法主義は、ライプニッツの観点よりも深い技法である。というのは、発散が排除の原理であることを止め、分離が離別の手段であることを止め、いまや共不可能なものが交流の手段であるからである。(引用終わり。 ドゥルーズ『意味の論理学』第24セリー 出来事の交流 小泉義之訳)

 まさにこのような倫理(倫理、と言っていいでしょう)をわがものにすることが、僕やあなたが、生を耐えがたくする事物・事態からどうにかこうにか遁れ、ともかくも離れることができる、と思うことにする。病気を悪と決め込むのは実はそうでもないかもしれない。病気に対する観測や観点があるのではなく、病気そして僕やあなたが観点なのです。このさいどんな超越者もそれを示したりはできないものなのです。


(東急ハンズ:NEX-7/E20mmf2.8/PhotoshopCS5)  

 直前のコマ。

ドゥルーズ 出来事

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 出来事。小泉訳「意味の論理学」(河出文庫)第21セリー。
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 出来事は、到来すること(事故)ではなく、到来することの中で、われわれにサインを送りわれわれを待ち受けている純粋な表現されるものである。先に述べた三つの規定によるなら、出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。さらにブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。すなわち、われわれに到来することに値する者になること、したがって、到来することを意志し到来することから出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること。出来事の息子であって、自分の作品の息子ではない。出来事の息子だけが、作品そのものを生産するからである。(引用終わり)


(G病院5階病棟より望む風景/NEX-7 E20mm 2.8/SILKYPIX)

 ここんところたまたまではあるが、読みなおす論考・著書がいくつかあった。古いものは桜井哲夫の「フーコー」(現代思想の冒険者たち26)。それほど古くもないのは小泉義之の「来るべき民衆」(「ドゥルーズ/ガタリの現在」所収)。とてつもなく古いのは瀬戸正二(似たような名の写真家がいるが)の「カフカ その謎とディレンマ」(1967年刊)。
 もう20年近くになるか、思想書を読み続けてきた。よくまあ飽きもせずに。手近に30~40冊の書物が散らされていて大概はこれらを寝て読む。小泉=来るべき、は引用部も参照すべくと、かの大著を枕元に運んだ。午前1時にもなろうかという時刻だ。ちなみにこんな具合だ。


(NEX-7/E 2.8/20/SILKYPIX/拡大画像あり)

 さて、さきの3冊。作家は時代の証言をなすように言説を出す、と思う。どれも時代の反照のごとき作品だ。
 よくよく哲学は男のするものだと思う。思弁は男専用のものなんだろうね。アートの領野では女は元気に闊歩してるが、哲学はしない。

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