ドゥルーズ: 2017年8月 Archives

大黒岳彦「情報社会の<こころ>」(現代思想8月号)を折につけ読み直す。
吉本隆明の「対幻想」を現代的に援用する。それがとても新鮮だ。
この僕は、いまここでもネット社会への参列に手を挙げ、露出し、体よく情報社会に「回収」される、そのようなニンゲンなのだろう。「秘密」はどこへいったのか。「暗部」は、そして「残余」は。「至宝」(というものがあるとして)が安売りされる。大黒岳彦のいう「社会幻想」(一種の共同幻想)から逃れるには、ツールとしてのネットから離れるしかないのか。

外に出て、ファインダで風景を切り取る。そこには「身体性」が付随する。街を小一時間スナップするとわかる。こころが汗をかく。それらの絵をアップロードするその過程(プロトコル)は、明示的で、毒もなければ秘密もない、消毒された自己が記述される。(かのようだ)
まあ、でもさ。僕のばやいは、しょせん「備忘メモ」じゃんか。w
僕ははなっから、自己満足をもくろんで「垂れ流し」しているのです。ちょっと言い過ぎかもしれない。すいません。ネタ探しの渉猟も、楽しい慰安をもたらすひとときがある。家に帰ってSILKYPIXのアイコンに、その日のファイルをドバッと上乗せして一覧する。気に入ったのがあるとしびれる。それだけでもシアワセと感じる。
以下は6ページ連続の抜粋です。ですが一部です。







綾屋紗月

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アマゾンのレビュー記事のキャプチャです。
綾屋紗月についてはサーチなさってください。2件のレビューが、一方は長く、他方は短く、評価は正反対。



以下は僕の「空想」です。一方はシンパシィを抱く、いわば支持者。他方は自身が発達障害をもつ当事者。
シンパと当事者の間には「偏差」はつきものです。
数日前の朝日のコラム。気になって切り抜いていた。アガる友達、はわかる気がする。ソフレやカモフレはどうですか?添い寝をしてくれる、っていいですねえ。
ボーイズラブ、これはアリです。歴史的にギリシャのころからあったわけだし、男友達でインティミットな関係だとノンケでも「友愛」感はふつうにわく。とまれ、記事を読んでみてください。



SNSが(総じてインターネットが)われと他者の相関関係を変えた、それはもう既定の社会現象だと思う。アガる友達とメールのやりとりをする場、そこにも吉本隆明の「対幻想」としての個体は立ち上るのだろうか?第三者が介入しないインティマシィが、秘密が、場を占め、そこに個体が表出するのだろうか?
恋人がいてもソフレの需要があり、自分がアガれば、セックスもいいわけですね。うむ。時代はよくなってるんですかね。
僕なんかにはこのような「恩寵」は降臨しないでしょう。気持ちで支持している自分を感じますね。
α7sとNIKKOR 28mm/2.8でLIGHT_BOX上のベーコンのスライドを撮影。



で、一枚をPlustekでスキャン。1953年の作品。



同じNIKKORで、2階からカーポートを。衛星円盤の下に職人さんが顔を出してます。先日プラフックが劣化して3枚が風で飛ぶ。100メートルほど先の道路に、しかもスレート自体は無傷。このテのスレートは壊れない、そう言ってました。台風来襲に備えて全部張り替えてもらう。12日に依頼したらば、盆の13日に朝から2時間ほどで一丁上がり。さすが餅は餅屋です。一度上って自分で補修しようかと試みたが開けた穴を合わせることができない。意地はって滑り落ちたらコトですもんね。九州は「ナフコ」。ブロンズフロスト8尺8枚、ステンレスフック、総額3万4千5百17円。風で飛ばされて、よそ様に迷惑かける懸念にくらべると安いもんです。胸をなでおろす。いい盆でした。
このレンズはシブイですなあ。うん。

NIKON NIKKOR 28mm F2.8 Ai kit 27

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α7sとNIKKOR 28mmF2.8。(Kタイプ)
最初のはフランシス・ベーコンの図録から。







定期購読の『現代思想』が届くと、おおむね立岩真也から読み始める。
60年生まれ。現在は立命館のセンセです。Wikiすれば大方知れます。連載中の「家族・性・市場」の書き出し見開き=GT7000U=Win10=GTX970騙し認識=Photoshop編集で。

弱者の生を、このように粘着し切り立つサーチライトで裂開し、照射し続ける社会学者を僕は他に知りません。そのスタイルには比類がない。拡大で読めます。読んだら何かを感じます。感受性の試金石、とまでは申しませんが。w



α7sに市販のLEICA R-NEXアダプタ、純正エクステンダー、カナダライツ製のMCRO ELMARIT-R 60mmF2.8の順につけている。全長はこうです。先日知人からエクステンダーを頂戴したので使ってみようと。MCRO ELMARITであればエクステンドしなくともいいのだが、「超常現象」をしたくてですね。w



「現代思想」は「コミュ障」特集。中に、國分功一郎と千葉雅也の対談があります。ここはラストの部分。意外やヘーゲル、人倫、ディーセンシィ(decency)が出てくる。
30代(千葉)と40代(國分)ですからたのもしい。内容は豊富で、オープンダイアローグ、貴族論、コミュニケーション障害のこと、教育論・・。拡大画像で読めます。上段と下段。





さて。すいません少し自分のこと。僕自身、「コミュ障」を飼いならしつつ生きている。「さ、一緒にやりましょう」は苦手。今をときめくオープンダイアローグ論は傾聴している。オープンは実は垂直方向でもある、そうでなければ意味がない。たとえば僕が自身の病のことをオープンの場で語るとする。それを他者がふむふむと聞く、それだけでも自己に作用する効用がある。しかしそれで終わるはずがない。他者は自分自身の病のことに思いをはせ、自己の奥深い場所に下りてゆく。そこが「ディーセンシィ(decency)」なのだ。
「人倫」とはしたがって「ディーセンシィ(decency)」に関与する。
アイザック・ディネーセンの「ディーセンシィ」を引用した大江健三郎を忘れることができない。『河馬に噛まれる』の最終章にある。僕は当時、直接ディネーセンの原本にあたって確かめた。(昭和60年)
少し長くなるが作中の大江訳で、タイピングします。

バークリー・コールと私とは、私ら仲間うちの言葉で立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)と品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)とをはっきり区別し、私らの知っている者たちを、人間であれ、動物であれ、この原理にしたがって区分けしていた。私らは家畜を立派なこと(ルビ:リスペクタビリティ)に、野生の動物を品格の良さ(ルビ:ディーセンシィ)ととらえた。そして前者の存在と特権は、かれらの共同体(ルビ:コミュニティ)との関係で決定されるけれども、後者は神との直接の接触のうちに立っている、と考えていた。

私らは自分たちを野生の動物の側に登録していた。共同社会つまりは譲渡抵当にサインするほうへ復帰することが、私らにはなしえぬことを悲しく認めながら、しかし周囲による最高の評価をかちとるためですら、神との直接の接触を断念することは、私らに可能でないと確認して。私らが河馬やフラミンゴとわけ持っている神との直接の接触を。

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