ドゥルーズ: 2011年6月 Archives

ダナ・ハラウェイの
『猿と女とサイボーグ』(高橋さきの訳 青土社)を読む。
船木亨=デジタル方法序説関連ですな。
分厚いのでジュンク堂での立ち読みが
いささか骨がおれる。当地の県立図書館から借りた。
まずは朱線のあたりを読んでみてください。
(厚みでスキャンに難あり)


身体/生体(と彼女は呼称する)をどのように捉えるかが
なんとなくわかると思います。
「身体は生まれるのではない。作られるのである。
記号、文脈、時間と同様、現在では身体も非自然化しつくされている。」
というわけだ。
第8章の「サイボーグ宣言」では「支配の情報工学」という
ひとつの見取り図を示す。
第10章においては、これは少し修正される。それを紹介します。
(スキャン合成。サイズ大。すみません。)


ご本人が言ってるように、
現在が下列のような状況だ、というわけではない。
あなたはご覧になっていかがですか。
自己のポリティクスで、境界を感じませんか?
接合面に佇んでいるような気がしませんか?
ある点では上列ゾーンに身を置いてる自分がいます。僕の場合。
まあ、認識を鍛えるチャートだと受け止めてます。

このチャートから亀裂・稲妻がみてとれる。
ジュンク堂でチャートを見たとき
咄嗟に浅田彰を思い起こしました。そう、『逃走論』です。
パラノ<>スキゾ
ハイアラーキー<>アナーキーのあれです。
実際、ヘテロ<>ゲイはハラウェイにもピッタリ来ます。
ま、そんなところです。
檜垣立哉の『西田幾多郎の生命哲学』
(講談社現代新書)については先に触れた。

高校時代に西田の『善の研究』を手にしたが
てんで歯が立たなかった。
クラスに弊衣破帽を気取った友人がいて
彼に阿部次郎とか倉田百三を薦められた。
読み始めたがどちらも途中で放棄した。
僕のピントじゃなかったからだ。
むしろ当時は、岩波哲学講座の田中美智太郎が好きだった。
で、繰り返すが西田幾多郎は理解できなかった。

今回半世紀を経て、檜垣センセのおかげをもちまして、
ふたたび西田幾多郎に巡り合う。僥倖このうえない。
しかも今度はジャストピントなのだ。

さてさて。
檜垣センセが最終的に取り上げているのは
『絶対矛盾的自己同一』という論文だ。
これがどんな概念であるかは、
檜垣センセの前掲書を読むがよろしい、ということになる。
だが幸い、現在「青空文庫」で同論文を読める。
僕はそれを片手に檜垣=西田を読んだ。
それをパナのCF-R8上で読めるサイズにPDF化。
以下のパーティハットをダブクリすると、
たちまち祝祭的雰囲気が立ち込めまして、
西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』のPDFが開きます。(笑)


ビジネスモバイルのレッツノートで、
西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』だって?
そんなお方は万が一にもいますまいね。うむ。
「自同律の不快」は大江健三郎の朝日=文芸時評で
知る。90年代初頭と思う。
時評は単行本にもなったが、自分の書架にさがせない。
たしか司馬遼太郎か五木寛之かそこいらを批判していたと思う。
根拠になったのが「自同律の不快」。

つまりはそれは「主体」=「視点」が不動で
自己同一化に向けた策、回収の為の自己模倣・・
そんなときにでてくる感情だろう。
それは「不快」でしょう、と思ったものだ。


ベルクソンの円錐で、先端Sの「様態」は、
常に差異をともない出現するものでしょう。
これに対して、
「自同律の不快」はSを疑似的=意図的に固定させて
作家が安定的な主語=定点として物語ることにある、
とでもいいうるだろうか?
「記憶」と「自同律の不快」を30代から思い続けてきて
いままた、ドゥルーズ周辺を読むことで改めて考える。

大江健三郎といえば、3月11日の震災に関連して、
「ニューヨカー」に寄稿してます。ググれば読めます。
文中「記憶」という術語が現働の有効なバネとして、
用いられている。

-その人たちの記憶があることによって、
政治的現実主義の名のもとに
核兵器の破壊力を軽んじることができません。-
and their memory prevents us
from minimizing the pernicious nature
of nuclear weaponry in the name of political realism.

もうひとつ大江健三郎について思い続けてきたこと。
20年くらい前でしょうか、小説をやめる、と宣言しました。
で、スピノザを読む、と。
ふむふむなるほどと当時思ったものです。
その後小説のほうは再開したようですが
スピノザのほうはどうなったのでしょうね。
生活のなかに実践的に導入してるのでしょうね、きっと。
「ベルクソンの円錐」について、
檜垣立哉『西田幾太郎の生命哲学』の114ページを
スキャンしましたのでどうぞ。


先端を現在と考えれば、
ABを仮に1980年としてもいいのです。
中間があります。全体が「純粋記憶」です。
Sはたぶん運動の実在です。実働の現在ですが、
といっても、金太郎飴みたいにどこを切っても
同じイメージを出せるというものではないでしょうね。

まあ、檜垣センセの実物にあたってみてください。

ベルクソンの円錐

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オキシダントなのか、PM2.5なのか
喉のヒリヒリに耐えつつも長崎に出る。
何年振りか?知る人ぞ知るカラシマさんのコーヒーを賞味。
6月1日は「写真の日」だそうです。
そうでありんすか。

「江山楼本店」のちゃんぽん。注文するときは
フツーのちゃんぽん、と言えばよい。(笑)
奥にボケて写りこんでいるのは修学旅行の高校生。
2時半だから空いていた。



 檜垣立哉『西田幾太郎の生命哲学』を携えて
ちゃんぽんを食したその数日後、同著114ページ。
「ベルクソンの円錐」。なんだここにあるじゃないか。
「檜垣=西田」はおすすめです。
「ベルクソンの円錐」についてはググってください。

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