ドゥルーズ: 2012年1月 Archives

テストステロン

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身体と精神の結びつきについて、
古くはスピノザの『エチカ』に多くを学ぶことができる。
「私たちは、身体の力と精神の力について本当に何も知らない」
とは小泉義之の言である。
両者の間には広くドゥルーズの領野が横たわる。

脳生理学がスピノザの時代に発達していたら
『エチカ』はどう書かれていただろう?
それに「あの有名な人」=デカルトは
松果腺などというものを考えなかったでしょうね。

ののちゃんと先生=朝日「DO科学」。
「インコはなぜしゃべれる?」を読む。
インコは音を聞き、大脳を経由して声を出す。
サルは人間に近いのにこれがない。
だからインコは人と同じ声を出せるのに
一方のサルは話せない。
だがインコもつがいで飼うと言葉はあまり覚えない。
1羽で飼えば相手は人だけだから、
コミュニケーションの必要から声を発する。
うむ。ちょっと感心した。

それともうひとつ。元となるリソースは
「DO科学」とは別だが、テストストロンという
男性ホルモンのこと。
検索結果知識だが、僕にはこの成分が多いのでは?(笑)
・攻撃的・むきになる・領土を侵されることを嫌う。
・親しさの後の冷淡さ・ひとりになりたがる。
・所有欲・欲しいと思ったら脳裏を離れぬズミクロン。

しかしです、
大脳生理学やテストステロンの知見があろうが
「身体の力と精神の力について本当に何も知らない」
ことに変わりはありません。
科学のことを言っているのではないからです。
むしろ「倫理」のことを言っているのですから。
とは言ってもインコの事態やテストステロンのことを
潜在力=変様へ導くピュイサンス、との思いに触発されて
記事にするのでありましょう。
ロレンスの『黙示録論』を大晦日に読み終えたその日、
玄関に『ニーチェの言葉』なるホンが届いている。
え?コレ誰の?
わたしが頼んだ、と妻。
ちょっと読ませて、と二階に上がり開く。
2ページ読んで・・ん?なにこれ、と。
オモテを見ると「超訳」とある。
なんだ、こりゃニーチェじゃねえ、と閉じる。
妻には何も言わずに戻す。

いやはや。そんなもんです。
帯には100万部売れたとうたってある。
これがベストセラーになるという現象がおいらには笑える。
あの天神三越で野生動物シャシンでホンを売りまくる
トンデモ写真家と同じだね。(笑)
(同じ会場で犬猫のシリーズがあるそうで。終わってる。)

お得意様がいるから市場(しじょう)が成立する。
人々が求めるのは「市にひさがれるものばかり」と
嘆いた(?)のはヘルダーリンだ。
「市にひさがれるもの」のなんとつまらないことよ!

さてそのニーチェの『反キリスト者』を
ちくま学芸文庫版で読み終える。
パウロに対するうらみつらみは凄いぞ。
ルサンチマンの丸出しだ。迫力がある。
パウロで思い出したが
バプテスト教会に行ってた高校生のころ
高校生グループを仕切るセンセは脳外科の研修医だった。
かれはパウロを「パウロさん」と呼んでいた。
パウロを尊敬していたのだろう。
パウロが並外れた情熱家であることは
高校生の僕にも手にとるようにわかった。

そのパウロ。ロレンス、ニーチェに徹底して断罪される。
(もしくは『ふしぎなキリスト教』においてもね)
「身から出た錆」ということになりますか。
『反キリスト者』は病に倒れる前年ということになる。
ロレンスの場合と重なって感じられる。

福音書のイエスに関する記述が
一応正当なものと仮定してみる。
そしてイエスのふるまいを想像してみる・・
すると僕には、自由で孤独なイエスが浮かび上がる。

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この「悦ばしき音信の報知者」は、彼が生きたごとく、
彼が教えたごとく、死んだのである――「人間を救う」
ためにではなく、いかに生くべきかを示すために。
実践こそ、彼が人類に残したものである。
すなわち、それは、裁判官に対する、捕吏に対する、
告訴人とすべての種類の誹謗や嘲笑に対する彼の態度、
――十字架上での彼の態度である。
彼は反抗せず、おのれの権利を弁護せず、
非道から身をまもる処置をなんらとることもなく、
それどころか、彼はそれをそそのかす・・・
そして彼は、彼に悪をくわえる者たちとともに、
この者たちのうちで、祈り、苦しみ、愛する・・・
防禦せず、立腹せず、責任を負わせず・・そうではなくて
悪人にも反抗せず、――悪人を愛する・・・
ニーチェ『反キリスト者』第34

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そう、イエスは「人間を救う」ために生きたのではない、
と言えるかもしれませんね。
「人はおのれ自身にたいして感謝するのであり、
そのためにこそ神が必要となるのである。」
ニーチェ『反キリスト者』

核心をついているなあ。
県立図書館から借り受けた理想社のハードカバーは、
重く、古書特有のにおいが鼻に苦しい。
よってちくま学芸文庫版をジュンク堂で買う。



シアトルズベストの喫煙席にもっとも遠い席、
そこにニーチェを持ち込みFREESPOTをやっている。
(それでも匂うが・・)
『ふしぎなキリスト教』や『黙示録論』は
『反キリスト者』と響きあうものがある。
その通奏低音のつぶやきはこうだ。
「キリスト教(教会)にイエスはいない」

ロレンス『黙示録論』

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ドゥルーズの『批評と臨床』第6章に
いざなわれるようなかたちで始めたロレンスの
『黙示録論』を大晦日に読了。
これは若き福田恒存の力技=偉業だと感じた。
福田といえばまあシェークスピアだ。
その福田訳をそっくり使って
高校生演劇=『ベニスの商人』を
やったことがあったなあ。笑える。
若いときはニンゲン何でもやる。
いやちがう、ニンゲンは死ぬまで何でもやる。

ロレンスは『黙示録論』を仕上げて
その2ヶ月後には45歳で死ぬ、とある。
しかも速筆2ヶ月で校了した遺作。
アポカリプスの最終章では
「個人は愛することはできない」と結ばれる。
愛の不可能性を断じ、「私は大いなる全体の一部」
と言い放つ。唐突に「構造」がくる。

そうした最終章は奇異に思える。が何か
ロレンスの衝迫=叫び、不幸を感じ取る。
死を予感していたのではなかろうか・・・
同時進行でロレンス=『アロンの杖』を
読むがこちらは100ページくらいで放棄した。
ちょっと現在には「退屈」が過ぎる。

福田恒存の仕事はすばらしいと思う。
これを残した「ちくま学芸文庫」に感謝。
「訳者が混同したか」と指摘する箇所、(P338)が
ほほえましい。

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