ドゥルーズ: 2012年8月 Archives

来るべき映画

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スクリーンはもはや
(その背後に何かがひそんだ)窓でも、
(その内部に何かを秘めた)フレーム=ショットでもなく、
その上を映像が「データ」のようにすべっていく
情報端末になった。
しかしほかでもない、世界が
「自前の」映画をつくり、それがテレビによって
直接の管理をうけ、瞬時に処理される、
しかもテレビは〈代補〉の機能をことごとく
排除するとなれば、芸術という言葉を使うことが、
はたしていまでも可能だといえるのでしょうか。
映画はそれをやめなければならない。
映画らしきものを作るのをやめ、ヴィデオ、
エレクトロニクス、ディジタルの映像を相手に
独自の関係を張りめぐらすことによって、
新しい抵抗運動を考案し、テレビがもつ
監視と管理の機能に抵抗できるようにならなければ
ならない。
(ドゥルーズ「記号と事件」)
今日は引用のみ。

語らい

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「語らい」の様態は端的には間主観性のレベル
でなされます。
しかし、ぼくは「語らい」をなによりも
自己との向き合いのなかで感じるタイプです。
したがってこれはぼく固有の概念です。

対象a(たいしょうプチットアー)も
あの黄金律もぼくの場合は、固有の概念で
とらえなおしています。
たとえば他者との「共感」を思ってみると
こうです。
他者のなかに自分を発見することを
あなたも何度か経験されたでしょう。
自分のコアのようなものを他者への「共感」の
なかに見出したことがおありでしょう。
見出されたものは共有できるものでは
ありません。それぞれが把持したものは別物なのです。
間主観とはそういうものですから、
接線(切線)のもつ点は別物です。
よって触れられたものは自己のなかで増殖するに
すぎません。たとえ相手に似たような様態があったと
しても。
ぼくはそれを自己との「語らい」と捉え、
対象aそのものと捉えています。
それを取り逃がさないようにと
自己を構成していきたいと思うわけです。
そう念じて生きることが
そのまま「語らい」を生きることになります。

状況はしかし、常になにがしかの言説・態度を
自己に強いてきます。
おおむね道徳的でステレオタイプです。
それに毒されまいと願っても、しかけは複雑ですから
簡単ではありません。なにしろ状況はいつも
市にひさがれる凡庸な平面をこそ要求するのです。
そういうものなのです。
それが私たちが置かれた領土です。
ですから、
状況を生きるということは、強いられる事物を
爬羅剔抉し、解体し、展開して・・
つまりここに暴きだして、そうして
「語らい」の自己と向き合わせる作業が
必然的に含まれることになります。
それが容易でないことは明らかです。

ちょっと二元論的な捕捉でいけないが
わかりやすく記述するための方便です。ご容赦を。
キーワードは、対象a、語らい、自己の構成、
間主観、生の様式、といったところでしょうか。



(NEX-7 アンジェニュー28mm)

生の様式

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いま説明した線は死に直結しているし、
激しすぎるばかりか、速度も大きすぎる。
これは、呼吸もままならないほど希薄な
大気のなかに私たちを引きずっていく線なのです。
この線は、ミショーが放棄したドラッグのように、
思考をあとかたもなく破壊してしまう。
エイハブ船長の「モノマニー」と同じように、
もはや狂気や錯乱以外のなにものでもなくなる。
だからこそ、線を越えることと、線を生き、
活用し、思考することが、同時に必要となるのです。
可能なかぎり、そしてできるだけ遠くまで見越して、
線を生の技芸につくりかえること。
線に挑みながら、もう一方では逃走し、
わが身の保全をはかるにはどうすればいいのか。
この問いが立てられたとき、
フーコーが頻繁にとりあげた主題が表面に出てきます。
(ドゥルーズ『記号と事件』)

私たちは「生きる様式」をあみ出しながら
ひしめく差異を生きる。思考する私は何か線を意識し、
その線に沿うような、あるいは越え、踏み外すような
具合に生きる。構造のただなかにいながら、
属性と様態を一挙に生きる。微分的で即時的な
応答の中に生きる。

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