ドゥルーズ: 2011年12月 Archives

「自己の構成」

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「自己の構成」とはなんだろう?
世が世なら学生さんの就活に必須の知恵、
ということにもなるだろうか。
僕にはもちろんそんなつもりはない。
近年これを気にしながら生活している・・
そんなところだ。
人が力を感じて生きる方法、と思っています。
ことほどさように実践できるかは別問題ですが。
1.実際の場面での離接は明らかじゃない。
2.仮に明らかでも自分の力能が不足。
というようなことかなあ、できないとすれば。
僕たちは身体のことも精神のこともよく知らない。
それは肝に銘じておくべきです。
にもかかわらず「自己の構成」です。
まるで自分で自分をどうにかできるみたいな
いいかたですね。それは無理です。
だからといって無力だと思わないでください。
波打つパラドックスを統御せんと欲して
神に祈っても何も解決はしないでしょう。

ニーチェは言っています。
「汝自身を助けよ、そうすれば誰でもが汝を助ける。
隣人愛の原理。」
これって健全ですなあ。(笑)
でもホントのところそうなんです。
「隣人愛」とはいま流行の「絆」ではない。

ニーチェはスピノザに負うところがある。
これは「内在」を説くアガンベンの「系譜」でも
明らかにされていますね。
そのニーチェの「善」に似たところもありますが、
僕は「善」を「自己の構成」と結んで考えます。
「善」=「自己の高揚」とでもしておきます。
(そこが似てるところなのです)
自分が高揚しないことならば
つとめて思いとどまりましょう。
そこから「自己の構成」の確かな足取りが開始します。
感じる人はおわかりですね。

「認識」はそれほど確かではない。
つまり人間はそれほどデキてはいないのです。
でも身に沸き立つ高揚感は少しは確かでしょう。
オレの力が弱まるなあ、と予感すれば
そこには手をそめずにおきましょう。
力をあなたの中で高めるもの、
それを引き寄せてみましょう。


ロレンス「黙示録論」

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当地の県立図書館に依頼していた
ロレンスとニーチェが24日に届く。
クリスマスプレゼント、お年玉、だ。



さっそく『黙示録論』からはじめる。

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至るところ、つねに権力標識のみ、
愛の標識は見出だしうべくもない。
つねに全能なる征服者クリストが
大いなる剣を閃めかし、無数の人間を殺戮し、
ついには血の海が馬の轡に達かんとする光景に
掩われている。
救世主クリストなどはどこにも求められない。

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ここにはPDFがあります。

さて。
上記のページは、
本書のテーマがよく出ている箇所です。
1.ドゥルーズが指摘するごとく
ロレンスは惹かれてもいます。
パラドキシカルなロレンスがいい。
2.画像でみて(読んで)気づくことがあります。
福田恒存そのひとの訳注が多い。
本書の3割は実に訳注なのです。
ですから新訳は出せませんな。(笑)
おそらくこれ以上のものはありますまい。
3.いわゆる『欽定訳』が最高だ、と
福田恒存は言う。これは文語訳のことです。
ロレンスが特殊な訳書で例示しても
福田は文語訳を当該箇所に割り当てる。

熱意ある方のために

ここに「ヨハネの黙示録」の文語訳PDFを。

愉悦なるかな、読書!

家政婦のミタ

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ロレンスは、黙示録をひどく嫌っていながら、
その嫌悪感をとおして、この本に対して不可解な共感、
さらには一種の賛嘆の念まで抱いてしまう。
まさにこの本には沈殿物があり、層をなしているからだ。
ドゥルーズ『批評と臨床』第6章。

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妻の話だと「ミタさん」の最終回はつまんなかった、と。
それはそうだろう。
最終回視聴率は40%でこれは歴代3位とか。
あのドクターズバッグをグッズとして売り出す・・・
価格65000円なり。
何かどこかがつまらない平凡な現象だ。
朝日の記事にへえ、と思いはしたものの、
脚本は陳腐=破綻しているように僕にはみえる。
仕事のできるミタさん、家族の幼稚な振る舞いは
ステレオタイプでクリシェに過ぎる。
皮相しかみえてこないのだ。
皮相は重要ではあるがその下に層がない。
ミタさんが不気味にふるまっても、
ちっとも怖くないのはそれがクリシェに終始するからだ。
上澄みがあっても沈殿物がない。
妻の妹の気持ちに気づかない男、あるべき層=陰影がない。
つまりかのドラマには、
ロレンスの「無教養なウェールズ人の坑夫」がいない。
のっぺりとした白痴的な群像だけなのだ。
視聴率こそがテレビの価値だ。世界中そうなのだ。
資本の論理といえばそれまでだけど、なぜそんなドラマが
もてはやされるのか?衆愚とはそんなものか?

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テレビの内側で、しかも(人に質問する、人にしゃべって
もらう、意外な映像を見るといった)テレビの根本に
かかわる要素を変革するような番組をてがけるというのは、
とても許されることではないのです。
ドゥルーズ『記号と事件』(Ⅱ映画)

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ロレンス「黙示録論」

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『批評と臨床』には検査入院のお供になってもらう。(笑)
その第6章、
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」
その章の原注"Apocalypse"を読むために
福新樓のあとはとりあえずジュンク堂へ向かう。

ロレンスの『黙示録論』である。
福田恆存訳なのだが
2004年、ちくま学芸文庫版である。
ドゥルーズの原注あたりから読み始める。
予想はしていたが拾い読みというわけにはゆかぬ。
分厚いのです、これが。
買うとまた死後の残滓がふえる。
この日は同じロレンスの『アロンの杖』や
ニーチェにもあたるつもりでいたのだが
はやばやと頓挫したかっこうになった。

今日になって当地の県立図書館へ
ニーチェ全集の第13巻を含めて借り受けの
予約を入れる。退院したころには着くだろう。
キリスト教にはそのひとはいない。
初期キリスト教にすらそのひとはいなかった。
そのひとは弟子たちのあいだでさえ孤独であった。
「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
むしろ何かを察知したのはピラトのほうかも知れぬ。
十字架をになったクレネ人シモンのほうが
弟子たちよりはマシだったのだと思う・・・

あ、でもどうでもいいことですね、そんなこと。
パトモスのヨハネの幻視がすごいなら
ロレンスのそれはもっとすごいと思う。
尋常ならざることは同じです。
3日間僕は科学の臨床の被験者となります。(笑)
『批評と臨床』はせめてもの僕の対抗の線ですが、
ひしめく差異のなかどのような積分としての魂が
産出されるのだろうか?
「流れとしての、流れの集合としての自分、
しかも他の流れと、自己の外で、そして自己の内で
関係を持つ自分を生きること」
(第6章より)
ドゥルーズの『批評と臨床』には
珠玉の論考がちりばめられている。そのひとつが第6章の
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」である。
僕は高校生の時分に聖書に親しんで、
ついにはバプテスマを受けたくらいだから
聖書の熱心な読者であった、といってもいいだろう。
『ふしぎなキリスト教』がすこぶる痛快だったのも
僕のそうしたキャリアにもよる。
この第6章がお気に入りなのも、
『ふしぎな』の場合と根は同じなのです。
お断りしますが、ロレンスの
『黙示録論』については不知です。
ドゥルーズだけに準拠してます。
まずは冒頭から3ページ分全部あげますね。
気になる人は読んでみてください。
ロレンスもニーチェもドゥルーズも
キリスト教のまがまがしき秘密の胚に触れる。
凡庸な「信者」には姿を見せない核心がある。
見過ごすどころか、凡庸な「信者」には影さえ見えない、
そんな核心なのだ。
「キリスト教にはイエスはいない」
そんなふうにも思えてくるのだ。

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それは同じ者ではない、同じ者でありえるはずがない・・。
福音書と黙示録を書いたのが同じヨハネかと問う学問上の
議論にロをさしはさんだロレンスは、そう述べる。
ロレンスはきわめて情熱的に論拠を出してくるわけだが、
そこまで強く言い立てるのは、評価方法、
つまりは類型法がからんでくるからだ。
福音書と黙示録を書いたのは同じ類型の人間ではない。
だからといって、両者の本文のそれぞれが
複雑だったり複合的だったりするとか、
結果的に違うことをいくつも作りだしている、
というわけではない。
問題となっているのは、二人の個人、二人の著者ではなく、
二つのタイプの人間、魂の二つの領域、
まったく異なる二つの集合なのである。

福音書は貴族的、個人的で、甘く、愛情にあふれ、
退廃的で、まだかなり教養に満ちている。
黙示録は集合的、大衆的で、教養とは無縁で、
憎悪に満ち、野蛮だ。
誤解を避けるために、こうした言葉の一つひとつを
説明しておくべきだろう。だが、すでに福音書の著者と
黙示録の著者は同じではありえなくなっている。
パトモスのヨハネは福音書の著者の仮面をかぶる
ことすらできないし、キリストの仮面もかぶれず、
もう一つ別の仮面を作り上げる、
もうひとつ別の仮面をでっちあげ、それは、
われわれの好み次第で、キリストの正体を暴いたり、
キリストの仮面に重なったりするものとなるのだ。
福音書とキリストが人間的な愛や
宗教的信仰への愛に磨きをかけていたのに対し、
パトモスのヨハネは宇宙的な恐怖と死のうちで
仕事をする。
キリストは愛の宗教
(信仰ではなく、一つの実践、一つの生き方)を
創り出したが、黙示録は権力の宗教―一つの信仰、
一つの恐ろしい裁き方―をもたらす。
キリストの恵みに取って代わる、無限の負債。

ロレンスの文章は、もちろん、黙示録を読んだあと、
あるいは再読したあとに読むほうがいい。
そうすれば、黙示録の今日性、
ひいてはそれを告発するロレンスの今日性を
理解できる。
この今日性は、ネロ皇帝=ヒトラー=反キリスト者
といった類の歴史的照応に存するのではない。
かといって、核や経済や環境の分野で
SF的なパニックを引き起こす世界の終わりとか
千年説に存するのでもない。
われわれが黙示録に浸りきっているのは、
むしろ、黙示録がわれわれの各人のうちに生き方、
生き残り方、裁き方を吹き込むからだ。
それは、自分は生き残りだと考える者一人ひとりの
ための書物である。ゾンビのための書物なのだ。

ロレンスはきわめてニーチェに近い。
ニーチェの『反キリスト者』がなければロレンスの
著作も存在しえなかったと仮定できるほどだ。
しかしニーチェ自身も開拓者だったわけではない。
スピノザでさえ違う。
幾人かの「幻視者」が、キリストは愛する者なのに、
キリスト教は死の企てだと対比させた。
彼らはキリストに対して特別の好意を抱いて
いるわけではないが、キリストをキリスト教と
混同しないようにする必要を感じている。
ニーチェにおいては、キリストは聖パウロと
まっこうから対立している。キリストは、
古代ローマ退廃期の人びとの中でも最も優しく、
最も愛情に充ちた人間、いわば仏陀のような存在で、
われわれを祭司による支配から解放し、
誤り、罰、償い、審判、死といった観念のいずれからも、
そして死のあとに来るものからも
われわれを自由にしてくれた―こうした福音の人に、
キリストを十字架の上にとどまらせ、
絶えず十字架に戻しては蘇らせ、
永遠の生についての重心をそっくりずらし、
以前の祭司よりさらに恐ろしい新しいタイプの祭司を
創り出す黒き使徒の聖パウロが二重写しになってくる。
「祭司職の専横を基にした彼の技術、
人だかりを作り出す彼の技術、要するに不死の信仰、
つまりは審判の教理」。

ロレンスも対立を取り上げるが、
彼の場合はキリストを、黙示録の作者である赤き使徒、
パトモスのヨハネに対立させるのだ。
これはロレンスにとって死を招く書となるが、
というのも、喀血で真っ赤に染まる彼の死に先立つこと
わずかな時期に書かれたのであり、
それは『反キリスト者』がニーチェの精神的瓦解の
直前に書かれたのと同じだ。
死ぬ前の最後の「喜ばしきメッセージ」、最後の福音だ。
ロレンスがニーチェを模倣したと言いたいわけではない。
むしろ彼は矢を、ニーチェの矢を拾い、
別の場所で違う方向に向け、異なる彗星をめざし、
別の公衆に囲まれてもう一度射る。
「自然は哲学者を人類の中に矢のように送り込む。
どこかを狙っているわけではなく、
矢がどこかに引っ掛かったままでいることを望む」。

ロレンスはニーチェの試みを繰り返すが、
標的を聖パウロではなくパトモスのヨハネに据える。
最初の試みと二度目の試みでは多くのことが
変わっていたり、補い合っていたりするが、
共通のものが積み重なって力を増し、新しくなるのだ。
キリストの試みは個人的なものだ。
個人は、それ自身では、集団とそれほど対立する
わけではない。だがわれわれ一人ひとりのうちで、
魂の異なる二つの部分として、
個人性と集団性が対立するのである。
ところが、キリストはわれわれのうちにある集団的な
ものにはほとんど訴えかけない。
彼の問題は「むしろ祭司職=旧約聖書の集団的体系、
ユダヤの祭司職とその権力の集団的体系を
解体することだが、それはただこの不純物から
個人の魂を解放するためである。
皇帝はといえば、
キリストは彼にその取り分を残すだろう。
その点においてこそ彼は貴族なのである。
彼は、個人の魂の錬磨をすれば、
集団の魂の中に埋もれた怪物を
追い出すのに充分だろうと考えていた。
誤った策だ。集団の魂との関係、われわれの外にせよ、
内にせよ、皇帝との関係、われわれの内にせよ外にせよ、
権力との関係を自分自身で切り抜けるように、
彼はわれわれに仕向ける。
この点に関し、彼は使徒や弟子を失望させ続けてきた。
彼はわざとそうしているのではないかとまで思えてしまう。
彼は主人になろうともしないし、
弟子を助けようともしない
(彼らを愛するだけだ、と彼は言っていたが、
その裏には何が隠されているのか?)」。

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概念的人物

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映画館を出たとき、
自分がいまみた映画のヒーローででもあった
かのような気分で歩いたことはありませんか?
そのとき実際にヒーローになっていたのだと
ぼくは思います。
内在する平面に「概念的人物」としてのヒーローが
顕れていたのです。
もちろん
映画のヒーローがそこに存在したというのではなく、
あなたがヒーローに成った、という具合にです。
ドゥルーズの言葉を引きましょう。

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しかし、概念的人物というものは、
ニーチェにおいても他の誰においても、
神話的擬人化でも、歴史上の人物でも、
文学あるいは小説の主人公でもない。
プラトンのソクラテスが、《歴史》に登場するソクラテス
ではないように、ニーチェのディオニュソスは、
神話に登場するディオニュソスではない。
生成〔~になる〕は、存在〔~である、~がある〕
ではないのであって、
ニーチェがディオニュソスに生成すると同時に、
ディオニュソスが哲学者に生成するのである。

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さてもうひとつ、「隠れた三人称」のこと。
「隠れた三人称」を証拠立てする例、
〈私は父親としてお前に話してるんだ〉・・
この場合《私》とは誰のことか?
「隠れた三人称」のことでししょうね。
だが「隠れた三人称」は概念的人物ではない、と
ドゥルーズは言っているのか?
どうもはっきりしないように読める。
「哲学的転位語」と言っている。
「父親として」が「愛するものとして」に転位すれば
(「仲介者」が代われば、ということ)運動は異なる。

「生成」と「転位」は同じようなものではないか?
つまり仲介者がいて
その者がとってかわって運動をなせば、
《私》はじゅうぶん「成って」いる。
よって僕の結論、以下のものたちは同じように
概念的人物の電荷を帯びている。
①映画館を出た男
②ディオニュソスに生成したニーチェ
③父親としてお前に言う私

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