ドゥルーズ: 2013年10月 Archives

プラトン主義の転倒

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 出来事は理念的である。ノヴァーリスが語ったことであるが、理念的な出来事と現実的で不完全な出来事の、二つの出来事の列がある。例えば、理念的なプロテスタンティズムと現実のルター主義である。しかし、この区別は、二種類の出来事の間にではなく本性的に理念的な出来事と事物の状態の中での空間的-時間的実現の間にある。出来事と事故の間の区別である。出来事は、〈唯一の同じ出来事〉において交流する観念的な特異性である。だから、出来事は永遠真理を有しており、出来事の時間(=時制)は、決して出来事を実現して実在させる現在ではなく、出来事が存続し存立する限りないアイオーン、不定形である。出来事だけが理念性である。プラトン主義の転倒とは、先ずは、本質を解任し、それに代えて特異性の噴出としての出来事を取ることである。二重の闘いの目的は、出来事と本質の独断論的混同を阻止することと出来事と事故の経験論的混同を阻止することである。(引用終わり)
(ドゥルーズ『意味の論理学』第9セリー 小泉訳 河出文庫 P106)

 そうなのです。中村哲の「三無主義」を「プラトン主義の転倒」とみるとどうなるか。彼の諸活動にはなにか人を惹きつける永遠真理のようなものがある。それは彼がヒーローイメージの「本質を解任」しているからだと思うのです。出来事を現在の時制に実現させることも重要だがそこにしがみついてはいない。そんな気がする。出来事は事故にとどまらない。無思想、無節操、無駄、というのはプラトニズムの理想と縁を切る、すなわち「本質の解任」を意味する。そこに無意識の戦略がみてとれる。中村哲はアイオーンを生きているのだ。そしてロマン派でもあるか。先日、散歩しながら考えてみよう、と言ったのはいわば戦略としてのプラトニズムの転倒のようなものを思っていたのです。中村哲氏の戦略、というのではありませんよ。出来事の系列(セリー)あるいは個体化のことを思っているのです。

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