大江健三郎 自同律の不快

|
「自同律の不快」は大江健三郎の朝日=文芸時評で
知る。90年代初頭と思う。
時評は単行本にもなったが、自分の書架にさがせない。
たしか司馬遼太郎か五木寛之かそこいらを批判していたと思う。
根拠になったのが「自同律の不快」。

つまりはそれは「主体」=「視点」が不動で
自己同一化に向けた策、回収の為の自己模倣・・
そんなときにでてくる感情だろう。
それは「不快」でしょう、と思ったものだ。


ベルクソンの円錐で、先端Sの「様態」は、
常に差異をともない出現するものでしょう。
これに対して、
「自同律の不快」はSを疑似的=意図的に固定させて
作家が安定的な主語=定点として物語ることにある、
とでもいいうるだろうか?
「記憶」と「自同律の不快」を30代から思い続けてきて
いままた、ドゥルーズ周辺を読むことで改めて考える。

大江健三郎といえば、3月11日の震災に関連して、
「ニューヨカー」に寄稿してます。ググれば読めます。
文中「記憶」という術語が現働の有効なバネとして、
用いられている。

-その人たちの記憶があることによって、
政治的現実主義の名のもとに
核兵器の破壊力を軽んじることができません。-
and their memory prevents us
from minimizing the pernicious nature
of nuclear weaponry in the name of political realism.

もうひとつ大江健三郎について思い続けてきたこと。
20年くらい前でしょうか、小説をやめる、と宣言しました。
で、スピノザを読む、と。
ふむふむなるほどと当時思ったものです。
その後小説のほうは再開したようですが
スピノザのほうはどうなったのでしょうね。
生活のなかに実践的に導入してるのでしょうね、きっと。

このブログ記事について

このページは、が2011年6月 9日 10:41に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「檜垣立哉『西田幾太郎の生命哲学』」です。

次のブログ記事は「福新樓 チャンズ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01

photo pages

photos

地上の夜の天使たち