ドゥルーズ: 2016年4月 Archives

朝日のコラム。鷲田 清一。「哲学って使えるの?」。
肝は哲学とアートなのである。
やっぱり、同世代の男はこうなんだなあ。w
記事をPDFにしてます。(朝日さん許して)
プロパティで100%表示に固定しています。あしからず。

Wikiによれば千葉雅也1978年生。綿矢りさ1984年生。
ローマクラブの「成長の限界」が1972年。オイルショック(トイレットペーパーの)がその翌年。
1ドル360円固定相場時代のジジイとはジェネレーションが違う。w
こんな若い人はたとえば見田宗介の2015年版「現代社会はどこに向かうか」をどのようにみるだろう。
あたりまえじゃんそんなの、と至極冷静に読めるのかもしれない。(想像)
さて、千葉雅也=読書欄。
(拡大画像で読めます)



書評には評者の姿があらわれる。
性、マゾヒズム(マゾキズム)、秘密(ラリュエルのとはいわないが・・)、ギリシャ由来の思弁、身体とこころうんぬんかんぬん・・と連想は終わりをしらない。千葉雅也という若い思想家のキャラがたってくる。
と、そうは思いませんか?
「多問題家族」ということばがあります。
団塊の世代は家族の絆が強い、また辛抱強い、ともいわれる。
働けないシングル(あるいは非正規の労働者)の子と団塊世代の親がともに暮らしている所帯が多くある。
親に問題が生じた場合、(たとえば病気、介護の必要)配偶者だけでなく(配偶者がいなければなおさらのこと)シングルの子が引き受けることになる。非正規の子に介護休暇の制度はない。「多問題」が一気に火を噴く。

いわゆる「下流老人」とはこんな事態から始まる。
誰にでも起こりうる。今はそうでなくとも子が新しい家族となって入り込んでくる事態は「出来事」として出来(しゅったい)する。

先の2016年4月16日=NHKスペシャル、

老人漂流社会 団塊世代 しのび寄る“老後破産”

をみる。
ここで取り上げられた問題も今や周知の事象。
「現代思想」2月号=老人崩壊、を枕元に置いている。ちょくちょく読む。自分に起こりうるイシューとして読む。
まあこんなことを宣えばルサンチマンになるが、だいたいが、経済的に何があってもやっていけるのは、資産家か天下り上級公務員くらいなもので、フツーの年金受給者はいつ破産するか知れたものではない。
地域の受け皿をうんぬん、セーフティーネットをうんぬん、そんなのはたわごとに過ぎぬ。
「多問題家族」の疲弊した親と子の「それぞれ」の困難を救う制度をつくらずして、どこに安心があるというのだろう。
この国の為政者と官僚は自分の取り分だけを増やすことしか考えてない。
税の真正な「再配分」がなされてない、と思うのだ。

世の男たちはおおむね「ネットワーク」をもたないまま老いてゆく。(僕もふくめて)
「町内会」に受け皿としての力量はない、と感じる老人は多いはずだ。(僕もそうだ)
では最終的に独り身となった老人が、つつましくとも安寧な老後を生きるための肝はなんなのだろう。
それを思考するゲンダイシソウであり、ゲンダイテツガクでありたい。と、言葉でいうのは簡単だが。
絶対的な内在というものがあるとしてそれがどれくらい持続的に生身のニンゲンの生活を支えうるコアなのか、けっきょくその時になってアンタがやってみなければわからんさ、ということだろうか?

記事に関係ない画像。



NEX-7にアンジェニュー35mmシネマ用35-140mm3.5 TYPE LA2。
F5.6,43mmあたり。Aモードで撮影したためISO1600でSSが1/50秒に落ちる。だがさいわいブレはない。ソニーIDC現像。補正なし。
シネマ用レンズの特徴が出る。
以下は「ポスト現代思想としての日本哲学」檜垣立哉+北野圭介の対談(現代思想1月号)中の部分。 

(檜垣)京都学派について内在的な話をすると、
西田の哲学のポイントは、「場所」論でもなければ「純粋経験」でもなく、「永遠の今」という問題だと考えています。
これは木村敏がよく書いていることでもあるのですが、「イントラ・フェストウム」、すなわち祭のなかを意味するような今の横溢、今の過剰のようなもので、分裂症的事態です。
永遠の今に対する西田の執着は大変なものがあります。時間的な今ということをあそこまで掘り下げ、永劫回帰に結びつけるという論点は、それこそドゥルーズがやったことですが、それは西田より三、四〇年後のことです。
そしてこの永遠の今という問題設定こそが、ヨーロッパが隠してきたものというか、ヨーロッパの近代が自由・平等・民主主義を掲げて広げてきた水平性を突き抜けてしまうような垂直性を持っています。

気になる箇所の多い対談だ。先日バスで福岡入りした際にもリュックに入れていった。
気になると完全に消化、ウンコになるまで読み返す。w
ラリュエルの「秘密」、吉本隆明の反時代的な60年代の記紀読み・・などもそうだ。
生きるということはそうやってずっと気になることを思いめぐらしながら、いまここに実存するということに相違ない。

これはバスの日、大名で撮った壁面。街にはこんなのがけっこうある。でもこれは初見。(だとおもう)
7sとNEOKINO。もう一枚は「のだ」のカップ。IDCのモノクロ現像。



リコーGR1 抽出レンズ

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これは4月1日。α7RにGR28mm抽出レンズ。(F11相当)。
周辺がマゼンタになるので、SILKYPIXのハードモノクロで遊ぶ。







屹立した(といえばオーバーか)一本の桜っていいなあ。

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