ドゥルーズ: 2012年11月 Archives

フーコーコレクション6の「生命―経験と科学」
(P436-P439 途中略)
本書は冒頭から、認識とは何か、について
スピノザやニーチェを引き合いに論じられます。
そして最終章ではまたも、認識・主体・概念などの
捕捉について洗いなおすかのようにもみえる。
仮に哲学するアナタがフーコーをしらなくとも、
たとえば以下の箇所を繰り返したどれば
新しい襞ひだに出会うことは可能だろうと思うのです。
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4 生命の科学は、その歴史のあらたな作法を要求する。
このようにして、哲学的な認識問題を特異なかたちで
提起するのである。
かつて生と死はそれ自体で物理学的な問題で
あったことはなかった。物理学者が仕事で自分や他人の
生命を危険にさらすようなことがあろうとも
事情はかわらない。
そんなことはモラルと政治の問題であり、
科学的な問題ではない。
A〔アンドレ〕・ルヴォフが言うように、
遺伝子の突然変異が致死的であろうとなかろうと、
物理学者にとってはそれはたんに、
ひとつの核酸塩基が別の塩基に置き換わったという
以上のことでも、それ以下のことでもない。
しかし生物学者のほうは、
この違いに対象の特徴を認める、しかも彼自身が
属しているような対象を見いだす。
というのも彼は生きているからであり、
この生体の本性を彼は顕在化し、実践し、
認識活動として展開するからだ。
この活動のことを
「人間と環境のあいだの緊張の
直接的ないしは間接的解消の一般的方法」として
理解しなければならない。
生物学者は、生命を特異な認識対象たらしめているものを
把握しなければならない。
そして、生体はまさに生きているのだから、
そのなかに認識することができるような存在、
要するに生命それ自身を認識しうるような存在を
あらしめているようなものを把握しなければならないのだ。
 現象学は「生きられた体験」のなかに
認識作用の根源的な意味を求めた。
しかしむしろそれを「生体」そのもののなかに
探すことができるのではないか、
あるいは探すべきではないのか。

(中略)

そしてこれらの問題の中心には誤り(エラー)
の問題がある。
というのは、生命のもっとも根源的なレベルにおいて、
コードと解読の働きは偶然(アレア)に
ゆだねられている。
それは病気や欠陥や崎型になる以前の、
情報システムの変調や「取り違え」のようなものだ。
極端な言い方をすれば
―そしてそこから生命の根源的な特徴が生じるのだが―、
生命とは誤ることができるようなものである。
異常(アノマリー)の概念が生物学全体を
横断している理由はこうした前提条件、
いやこうした根本的な偶発性に求められるだろう。
こうした偶発性ゆえにこそ、
突然変異や進化のプロセスが導き出される。
同様に、こうした偶発性があるからこそ、
生命は人間の出現とともに、
けっしておのれの場に落ち着けないような生体に到達する。
それは「さまよい(エレ)」、
「誤る」よう運命づけられている。
だからこそ、特異でもあり遺伝的でもあるこの誤りを
問題にしなければならないのだ。
 そして概念とは、
生命みずからがこの偶然に与える答えである
ということを認めれば、誤りとは人間の思考と歴史を
かたちづくるものの根元だと考えなければならない。
真と偽の対立、真偽に付与される価値、
さまざまな社会や制度がこの分割に結びつけて考えている
権力効果など、すべてが生命に固有な誤りの可能性への
遅ればせながらの回答にすぎないのかもしれない。

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カンギレムに重きを置いてるフーコーの面目が
あらわれています。

フーコーの笑い

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「フーコーの場合は」とドゥルーズはいう。
「その笑い声ですら一個の言表だったのです。」
(ドゥルーズ『記号と事件』)
フーコーの高笑い、哄笑というのをどこかで
読んだ記憶がある。
『現代思想の冒険者たち』かもしれない。
ちょっと手元にないのでわからない。

あはは、と高く笑うときに味わう自己乖離の気分。
あれは健康にいいのかな?
ぼくもその種の笑いをやってるとおもう。
昔々、フーコーに興味を抱いたのは彼の「笑い」に
何かを感じたからかもしれない。
(聞いたこともない笑いを感受させるエクリチュール!)
僕の余生には、『フーコー・コレクション』をそろえて
読むくらいの時間はまだ残されているのじゃないか、
と思う。冗談=本気半々で全巻買おうかな、と
夢見ごちのきょうびだ。
では、P195「4社会医学の誕生」より自炊。
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 新しいかたちの社会医学がイギリスで誕生します―
イギリスは産業の発達を経験し、その結果、
プロレタリアの形成が他の国々よりも大規模で、
急速だったからです。ただしそれは、他方で
ドイツ的な国家医学の計画がなかったという
意味ではありません。
たとえばチャドウィツクは一八四〇年頃、
ドイツのやり方から多くの示唆を得てみずからの計画を
練りあげています。またラムゼーは一八四六年に、
『都市住民の健康と病い』と題された本を書きましたが、
これはフランス都市医学の内容を反映するものです。

 イギリスの医学が社会医学になっているのは、
主として「貧民救済法」のおかげです。
この法律の条項には、貧窮者たちを医学的に管理する
ということが含まれているのですから。
貧しい人々が扶助制度の恩恵をこうむるように
なったときから、さまざまな方法で彼らを医学的に
管理することが義務化されます。
貧民救済法にともない、曖昧なかたちではあれ、
社会医学の歴史に重要な要素が入ってきます。
それまでは貧困ゆえに期待できなかった健康への
欲求を、もっとも貧しい人々でも満たせるよう
助けてあげる手段となるような、
税金でまかなわれる扶助あるいは
医学の介入という考え方です。
同時に、それは管理の継続を可能にしました。
豊かな階級あるいは政府におけるその代表者たちは、
管理をつうじて困窮した階級の健康をまもり、
したがって特権的な人々を保護しようとしました。
こうして都市のなかで、豊かな人々と貧しい人々の
あいだに、いわば権威主義的な検疫警戒線が
設けられたのです。そのため貧しい人々には無料で、
あるいはより安く医療を受ける可能性がもたらされました。
豊かな人々はこうして、貧しい階級が生みだす
疫病の犠牲になるという危険から解放されたのです。

 医療法制を見ると、当時のブルジョワジーの大きな問題が
移し替えられているのがはっきり分かります。
いかなる代価を払って、どのような条件で、
いかにしてみずからの政治的安全を守るか、
という問題です。
貧民救済法に含まれている医療法制は、
そのようなプロセスに対応するものでした。

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(PENTAX K20D/43mm Limited)

生きる技芸

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(NEX-7/Summaron f=3,5cm 1:3,5/SILKYPIX/ at Kobe)

正倉院展(奈良国立博物館)
興福寺国宝館展
エル・グレコ展(国立国際美術館)
北斎展(大阪市立美術館)
大エミルタージュ美術館展(京都市美術館)
ザ・大阪ベストアート展(旧出光美術館大阪)
マウリッツハイス美術館展(神戸市立博物館)

奈良・大阪・京都・神戸、と歩く。
何度言ってもいいが、人には旅に出る必然性はない。
まったく、ない。
しかも人は旅に出る。
そうすることで定住地を後にする。

シニフィアンとか記号とか象徴とかいうものなのか、
人の精神と身体に帯電するのは。人はそれを放出しなければ
おさまらないようなのだ。よって動くのだ。
磁場は鎮まるかのような偽装をとる。
その節は、人は水面から顔をだした時のような
新しい空気を吸う。しばし平面を歩く。
やがてふたたび襞が生じ波動があらわれる。
差異と反復が人の現働なのであり生の技芸なのです。

フーコー 生政治

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『フーコー・コレクション』6生政治・統治

橋爪・大澤の『不思議なキリスト教』や
ロレンスの『黙示録論』、いやそれより
『偶像の黄昏』『反キリスト者』のニーチェに
触れたときに感じる、ニンゲンのでっちあげ主体、
でっちあげ認識を、えぐりだしてくれる。
(かの「汚辱に塗れた人々の生」も入っている)


(EOS5D/アンジェニュー35-140mm TYPE LA2)

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キリスト教は、
ギリシア世界で使われていた二つの重要な道具を
自分のものとしました。
良心の究明と良心の指導がそれです。
キリスト教はこの二つを採用しました。
しかし、それを著しく変質させたうえでのことです。
 良心の究明ということは、周知のように、
ピタゴラス派、ストア派、エピクロス派の人たちの
間では、日常的な義務との関連において
善と悪の日常的な貸借表を作成する手段として
広く受け入れられていました。
このようにして、完成への道、すなわち克己心と、
自己の情念の統御への道にどれだけ突き進んだかを
測ることができたのです。
良心の指導もまた、教養のある階層では一般的でしたが、
こちらの方は著しく困難な境遇、
たとえば悲嘆に暮れている時とか、
運命の急転に苦しんでいる時とか、において
アドヴァイスを与える(ときにそれは報酬さえ
ともなうものでした)そういう形をとっていました。
 キリスト教の牧人制は
以上の二つの実践(プラチック)を密接に
結びあわせたものでした。
良心の指導の方は恒常的な絆を成り立たせていました。
羊はある危険な状況を首尾よく越える必要がある時だけ
おとなしく導かれていくわけではありませんでした。
羊は四六時中導きを受けることになっていたのです。
導かれることがひとつの状態となっていたのです。
そして、もしそこから逃れようなどと試みたときには、
必ずや道に迷ってしまう運命にありました。
忠告を受け入れないものは枯れ葉のように萎れてしまう、
と決まり文句のように繰り返されていました。
では、良心の究明の方はどうかというと、
その目的は、自己の認識を深めることなどではなく、
良心の指導者に自己の全部を見せられるようにすること、
魂の奥底まで開いて見せられるようにすることなのでした。
「全体的なものと個的なもの-政治的理性批判に向けて」
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