ドゥルーズ: 2013年1月 Archives

ドゥルーズ『フーコー』

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 ドゥルーズの『フーコー』を読んでると、いちばんフーコーのことを理解していたのはやはりドゥルーズではなかったのだろうか?と思う。「フーコーにとって私が必要だったというよりも、私のほうがフーコーを必要としていたのです」と別の場所では言っている。以下はドゥルーズ『フーコー』宇野訳P174-177から。

 すでに、一九七〇年以後の監獄運動の最終的な挫折はフーコーを落胆させ、世界的レベルの他の様々な事件によって、落胆は大きくなったにちがいない。もし権力が真理の構成要素であるなら、権力の真理でないような「真理の権力」を、権力の統合線からではなく抵抗の横断線から出てくるような一つの真理を、どうすれば着想することができるだろうか。いかに「線を越える」か。そして、外の力としての生に到達しなければならないなら、この外が恐るべき空虚ではないという保証、抵抗するようにみえるこの生が、単に、「部分的、漸進的で、緩慢な」死を空虚のなかに配置することでない、という保証があるだろうか。私たちは、「分割できない、決定的な」出来事において、死は生を運命に変える、と言うことさえできない。むしろ死は多様化し差異化して、生に様々な特異性をもたらし、それゆえ真理をもたらす、と言うことができるだけだ。生は抵抗からこのような真理を受け取ることを信じているのだ。それでは、死そのものという大いなる限界に先んじ、この死の後も続行されるこれらのありとあらゆる死を通過するということ以外に、一体何ができるだろう。生はもはや、その場所、あらゆる場所を、「人は死ぬ」という葬列に見出すだけだ。ビシャは、決定的な瞬間、あるいは分割不可能な事件という死の古典主義的な概念と訣別し、しかも、死を、生と共通の広がりをもつものとして措定し、また部分的で特異な、様々な死の多様体からなるものとして措定しながら、二つの仕方で訣別したのである。フーコーがビシャの理論を分析するとき、単なる認識論的分析とは別のことが問題になっていることが、その調子から十分にわかる。死を理解することが問題なのだ。そして、フーコーほどに、死を理解してその通りに死んだ人はまれである。フーコー自身のものであるこの生の力を、フーコーはまた、ビシャのいう多数多様な死として考え、生きたのである。それでは、権力と衝突し、権力と戦い、闇にもどっていく前に権力と「そっけない、鋭い言葉」を交わすことによってだけ姿をあらわすこの無名の生以外には何が残るだろうか。このような生をフーコーは、「汚辱に塗れた人々の生と呼び、「彼らの薄幸、怒り、またはあいまいな狂気」のゆえに、彼らを尊重するようにと提案した。奇妙なことに、不可解なことに、この「汚辱」の権利を彼は要求する。「わたしは、あるエネルギーをそなえた、この種の粒子から出発した。そのエネルギーは、この粒子が、小さく、分別しがたいだけに、なおさら大きいのであった。」彼は、『快楽の活用』の胸を引き裂く言葉にたどりつく。「自分自身から離脱すること……」。

 『知への意志』は、明らかに一つの疑いとともに終わっている。もし、『知への意志』を書き終えて、フーコーが袋小路に入ったとすれば、それは、権力についての彼の考え方が理由ではない。むしろ、権力そのものによって私たちが追いやられる袋小路を、彼が発見したからである。私たちの生においても、思考においても、最も微細な真理のなかで、私たちは権力と衝突するのだ。外が、外を真空から引き離す運動の中に入り、外を死から遠ざける運動の場になることがないとすれば、出口はないだろう。それは、知の軸とも、権力の軸とも区別される新しい軸に似ていることだろう。一つのの静けさが勝ち取られるような軸なのだろうか。生のほんとうの肯定だろうか。いずれにしても、それは他の軸を消滅させるような軸ではなく、すでに他の軸とともに働き、それらが、袋小路に閉じ籠もってしまうことがないようにする軸である。たぶんこの第三の軸は、フーコーのなかに最初から現われていた(同様に、権力は最初から知のなかに現われていたのだ)。しかし、この軸は、たとえ他の二つにもどってしまうことになるにせよ、それらと距離をもってはじめて取り出される。

 それは何を意味するのか、は重要ではない。ことがらがどう機能するかを見ることがはるかに重要なのだ、とフェリックス・ガタリは『記号と事件』のなかで語っていたと思う。

 精神の微分的なゆらぎ、ひび割れ、身体の微分的なゆらぎ、それらが全体の進捗・線にどのように機能するのか、まるでわからない。できごとを生きるしかない。そこで、ひそやかではあってもよろこびを生きたい。

 朝日の10日付(たぶん)「耕論」だった。「あるべき女子アナ」降りた小島慶子さん、の記事。ちょっと朝日さんにはワルイんだけど自炊させてくだされ。(拡大画像でらくに読めます)



 人気アナの適性がない、と自認しTBS退社、フリーに。万人が共感する価値に従うより「錯覚」を大切に生きる。人は(他人は)見たいように私を見ればいい。作り手側(会社側)のご都合主義や、内向きの帳尻合わせに同調するのは嫌でした。・・・ふむふむ。

 ぼくは、PC=KeyHoleTV=苫米地で小島慶子「キラキラ」を視聴していた。だからこの記事はすんなり理解できた。自身が「欲望機械」であることを自覚すれば、出ていきますね。食っていけるでしょうから、なおさら。彼女の「情動」はただうなずいたり、黙ってフリップを出す「あるべき女子アナ」にはおさまりませんよ。うん。

 ところで、言表する者は=発話する者はその人本人さんだろうか?小島慶子は女子アナだからその制約下にある。しかし、その場で生成する発話とはいったい何なのだろう?そこにこそ機能は作動する。そこにこそアレンジメント(アジャンスマン)が律動する。彼女の「キラキラ」にそれをたのしんでいたリスナーはいたはずだ。

 ガタリは「集合的発話者」なる概念を考えていた。そう、私の発話はわたしであってわたしじゃないあっちからきている。
ベラスケスの絵といえば僕の連想では
イノセント10世⇒ベーコンだったり
ラス・メニーナス⇒ピカソだったりする。
フーコー・コレクション3は
「侍女たち」(松浦寿輝訳)からはじまる。
「画家は絵からいくらか身を引いている。
モデルに一瞥をくれてるところだ。
仕上げの一筆を加えようとしているところかも
しれないが、まだ最初の一筆すら置かれていない
ということもありうる。」(p10)

ベラスケスのラス・メニーナスの絵の中に
入ったかのようにも始まる。
謎解きの興味もつかのま、すぐに退屈になった。
僕は不調なのかもしれない。
「言語と絵画は、一方が他へと相互が還元し合うことが
不可能なのである。何が見えるかを語っても無駄だ。
見えるものは決して語るもののうちには
宿らないからだ。」(p24)


(EOS5DMK2/16-35mm F2.8)

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