ドゥルーズ: 2011年10月 Archives

デカルトの松果腺

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スピノザは「あの有名な人」の「松果腺」を
認めることができなかった。
「あの有名な人」とはデカルトのことで
スピノザが『エティカ』の最終章でそう称している。
「松果体」は実際に脳にある組織だが、
「松果腺」とはみなさんも知らないでしょうね。
僕も知りません。デカルトの図。↓


まあこんなものだそうです。
デカルトは、これが感情を支配していると
断言したのだそうです。
「感情は支配し得ない」とするスピノザには
それは納得できない概念だったのです。
よって第5部冒頭からこれを批判します。

それはそれとして『エティカ』第3部の
「感情の起源と本性について」においては
私たちに生起するあらゆる感情について細かく
検証している。それはほとんど心理学です。
微細に、几帳面に記述されている。
ついつい飛ばし読みをやってしまう・・(笑)
そんな僕ですから、
くだんの「松果腺」は法螺話のように思えた。
途方もない着想のように感じたのだった。
直接デカルトの書物にあたったわけではなく、
あくまで『エティカ』第5部のスピノザの引用を
通して、批判に同調したわけですがね。

以前にも書いたが『エティカ』はドゥルーズや
上野修に導かれて読んだことになります。
しばしばあのぐりぐりの可愛らしい眼をした
スピノザを思い起こします。
よく引き合いに出される『エティカ』最後の
締めくくりのセンテンス。
「とにかくすぐれたものは、
すべて稀有であるとともに困難である」

よってあなたが、スピノザの著書のようには
行かないことを恥じることはないのです。

同一性のこと

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ゴヤのLos CaprichosのシリーズNo59と
『光る風』の絵を重ねてみた。


足元あたりは少しずれがあるが中央部は
まるでトレースしたように一致する。
Caprichosは1969年、ニューヨークの
ドーヴァー出版社( Dover Publications)から出ている。
それを使ったのかな。


さてその『光る風』を読みきって。
うむ。さすがに当時の衝迫は感じなかった。
20歳の思惟ではないからでしょうね。
むしろそれが自然ですね。
なつかしさを買いもどしたことでよしとしましょう。

私とは、「私の記憶」ではなかったわけです。(笑)
20歳の僕が、かくかくしかじかを経て
このような定年後の自分に「なっている」という
「同一性」を感得できなかったこと。
それを今更ながら感じましたね。
まさに、彼は昔の彼ならず、です。
まあ、男子三日会わざれば刮目して待つべし、
っていうじゃありませんか。
弟宛のメルヴィルの手紙にも、
自分が何も変わらなかった2週間というものを知らない、
みたいなくだりがあります。うろ覚えだけれど。

つくづく「アイオーン」ですね。
「クロノス」じゃあない。
僕は生き物の一種であり個物なのですね。
存在は野の草花となんら分かつところはない、
そう言い切ってよろしいのかも知れない。
コミックを読むと次々と連鎖が生じて困る。(笑)
あちらこちらの属性が沸騰するするのだ。
様態の変異は収拾がつかなくなって、
気づいてみれば、様相はすっかり異化されている。
しかし夢中になるビョーキに薬はない。

山上たつひこ『光る風』です。
楽天からEBDLファイルで購入しました。
420円です。ebi.BookReader で読みます。
実は初めてなのです。ebookは。

コミックサーフィンしていたら、
小学館クリエイティブから『光る風』が
2008年に刊行されてることを知る。
Amazonで2625円ですから420円のEBDLは
断然安い。
PrintScreenは使えません。
自力でなんとか解決されんことを。

いやあ、懐かしい。
『光る風』は1970年です。「少年マガジン」。
山上たつひこは僕には『がきデカ』ではなく、
『光る風』なのです。
僕と同じような「個物」はきっといるでしょうね。
さきほどダウンロードしたばかりなので、
これからです、読むのは。

ところで、
先のページの右側にブリューゲルが、
左にはゴヤが参照されています。
ブリューゲルは「死の勝利」、
いっぽうゴヤはLos CaprichosのシリーズNo59です。




てゆーか つーか

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ここでも「情動」はめまぐるしく変様する。
精神は気になる男の子をめぐって
自らの在りようを模索する。
ああじゃない、いやこうでもない、と。

『僕等がいた 第1巻』(小畑友紀)


セリフに「てゆーか」が多い。
「つーか」とか「とゆうか」にもなる。
わずかな差異を表明する場合の
つなぎのような働きをするのだろう。
「ちょっと違うんだけど」とやると
ニュアンスは強くなり、
相手によっては「引かれる」かもしれぬ。
そこで「てゆーか」となる・・。
この時代の気分を表している。
He is vague がいいのだ。

精神が明瞭で十全な概念をつくりあげるまでは
私たちはちょうどこの絵のように
精神と身体を賭けて運動し続ける。
バナナを男の子にあげたいのだけど
「ばーか誰が行くか」と今は抑えている。
しかし彼女(高橋七美)は
きっとある観念にたどりつくだろう。
その流れるイマージュに沿って動くだろう。
ボールは初速や空気抵抗などの
運命を引き受けながらも自ら決定して運動する。
そのように高橋七美も自由に決定し、動く。

こんな場面でこそドゥルーズの「イマージュ」論が
僕の感覚にピタッと合うのです。
映画やコミックがもたらすイマージュは
教師がカリキュラムに即してもたらす教えなどより
はるかに教化的であることを僕は身をもって
知っている。

どうでもいいけどこれは旨かった。


青山景さんの自死

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先日自死した青山景という漫画家の作品を
いくつか読んでみる。
twitterでの彼のつぶやきもWebで見る。
32歳。なんとも若すぎる自死だ。

私たちの内在には微分的な潜在性が充溢する。
そこから現実に出来事が発生もする。
だがそのルーティンをたどり、再現することは
事実上できない。
他者にも想像上の方程式を立てることはできる。
だがしょせんその「解」はない。
いわく、青山景というアーティストは
概念を創り続けたヒトだったのだろう。
すぐれてイマージュに富んだヒトだったのだろう。
解けない微分方程式を抱えたヒトだったのだろう。
・・・そんな感慨で終息するしかない。
今となってはその切断は深く大きい。

以下は、作品『SWWEEET』第1巻。
巻末によくあるボーナストラックです。
拡大して読んでみてください。



本編の外部だからこそ表出することがらです。
作者の自意識の強さが窺える。
これは「自己言及の不完全性」の問題ですね。
「自同律」の諸問題です。
「自同律の不快」というのではありません。
「自同律の快」があるのが現実ですから。

ドゥルーズが言うごとく、
内在の平面は「建設」されねばなりません。
内在の平面は所与のものではない。
自己をどう構成してゆくかと同じことです。
私たちが日々創造してゆくものです。
はっきり言えることがあります。
自己の構成には、手順はない。
不確かで実験的ですらある。
現実には口で言うほど楽ではない。
青山さんは「建設」に失敗したのだろうか?

小泉義之はこのように言う。
「差異を生産する場を運命として引き受けながら
ボールは自ら解を出しながら走る。」
そう。投げたボールがt秒後にどの位置にあるかなんて
決定できるはずがない。

差異と差異がどのような関係にあるのか
極小微分の様相を知ることなぞできない。
予感を受けとめることはある。
予兆におののくこともある。
ならばあらゆる潜勢力=前兆に対抗すべく
われとわが身を放擲することもあるだろう。

そして、ボール自らが描く放物線の軌跡は
再現することはおろか知ることもできない。

生きる哲学

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週刊新潮9月29日号。病院待合室で。
ちあきなおみの墓参の様子。隠し撮り(だろう)が、
グラビア扱いで出ていた。
その写真に動揺を覚えた。10日前のことだが、
絵が浮かんでくる。
喪服。あふれる花束。そして泣き崩れる顔。

「喪の作業」というものがある。
それは何も死に限るものではない。
いまや全身に及ぶ「喪失感」をどのような方法で
溶解=受容していくか、その作業です。
個体(個物)が受肉した傷を、どう受けとめるか、
生の哲学のテーマそのものです。
「出来事」の問題系であり、
「自己の構成」の問題系であり、
「絶対的内在」の問題系でもあります。

新潮の写真に戻りましょう。
これは僕の想像にすぎませんが、
彼女は癒えてない、と感じました。
大変だろうな、と同情します。
それが19年ともなれば想像を絶する。
ヒトは何ゆえそのような苦痛を受けるのだろう?

ですからこれはまさに「生の哲学」の諸問題なのです。
僕自身もそうでしたがヒト科の生き物は
何度もこれを通過していくことになります。
ヒト科の生き物でなければもっとたやすく
越えていけることなのですが、思考し、「同一性」を
求めるヒト=ニンゲンにはこれが簡単ではない。
「自同律の不快」が襲うように、「同一性への不快」が
訪れないものだろうか?
あなたはどう思いますか?
「自分であることに、どうにもいやになる」ということ。
そんな意識がかつてありませんでしたか?
そこから何を考えましたか?
自分を離れる、ことではありませんでしたか?
愛する人を捨て去る・忘却すること、
それは自分を捨て去る・忘却すること、と同じ属性です。

「アイオーン」のただ中の自分、
これ、とつかんで示すことができない自分、
それ(そんな様態)を受け入れたい。
愛したヒトは外在の個物です。
外在の個物と切っても切れぬ縁があるわけですが、
そのタコ糸を切りましょう。切れば新たな様態と
変わってゆくでしょう。
そんなときこそ「同一性」を捨てましょう。
たとい懐かしくとも(笑)、
私を十全に生かさない「同一性」には、
見切りをつけてあげましょう。
自己を構成してゆくということはそういうことです。

自同律の不快

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夢を見た。
僕は多くの人を前にアジテーションをしている。
『5,7,5のフレーズで歩くと
ほら、こんなに身体がのってくる。でしょう?』
舞台で実演している。
分析家の教材として使えそうな夢だな。

5,7,5が気持ちがいいのは事実ですね。
ニホンジンに特有のDNAといってもいい。
うたのリズムはメジャーなのだ。
谷川俊太郎(武満徹作曲)の
『死んだ男の残したものは』はこうです。

死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

7,7バージョンとでもいえます。
新井英一の
『清河への道』もそうです。

アジアの大地が見たくって
俺はひとり旅に出た
玄界灘を船で越え釜山の港を前にして
夜が明けるのを待っていた

どちらもメロディーは単純なリフレーンです。
これらが身体と精神をここちよく通過するのです。
リフレーンは、飽きるまでは気持ちがいい。
『自同律の快』と言ってもいいでしょう。

すぐに気づくことですがリフレーンは
『自同律の快』のことです。
ですから
『自同律の不快』は新鮮さの担保として
防衛規制のごとく作動するのでしょうね。
実際にはヒトは『快感』を選択しますから
通常はリフレーン=『自同律の快』へと
流れていきます。
僕はそんな風にとらえています。

僕が短歌が好きで、かつ嫌い、というのは
その事情に似ています。
うたいあげるここちよさ。
うたいあげてしまうことへの不信。
そのふたつは同じヒトに避けがたく配分される属性です。

せっかくですから、森山良子で
『死んだ男の残したものは』

小泉=ドゥルーズの哲学

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小泉義之の『ドゥルーズの哲学』は
ドゥルーズって誰?というお方には推薦の書です。
僕のは綴じがほつれるくらい傷んでいます。
中ほどの140ページでバラバラになりかけています。
じゃその140ページてのを「読んdeココ!」に
OCRしてもらいましょう。

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私たちは、身体の力と精神の力について
本当に何も知らない。何も知らぬまま効能にすがる。
ところが効能は、身体の力と精神の力を当てにしている。
療法が効果を現す場合があるのは、
専門家のおかけでもなく、援助やケアのおかげでもなく、
何よりも身体の力と精神の力のおかげである。
そんな力の認識だけが幸福なのだ。
スピノザは『エチカ』の最後で、
身体の観念である精神には何か永遠なものがあり、
それを認識することが最高の幸福であると書いた。
ドゥルーズは、何か永遠なものの認識を、
自然哲学・生命哲学と解した。

だからこうなる。いかに鬱屈していても、
人間が鬱屈するように世界がなっているという
不可思議を認識することだけが、
鬱屈解消で得られるはかない快活とは
比較にならぬ幸福をもたらす。
どんな療法を受けようが、人間は苦しみ病んで死ぬ。
そんな運命の不可思議を認識することだけが、
最高の幸福をもたらす。
「こんな希望を捨てるわけにはいかない」。

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いやはやこの痛快なこと小泉センセ面目躍如である。
これだから小泉センセはやめられない。
運命の不可思議を認識すること、それは「あきらめ」に
似ないとも限らぬ。
すなわちそれもまた「ルサンチマン」と言えよう。
しかしそれは最高の幸福をもたらすルサンチマンなのだ。

妻の歯科治療を待つ間、シグマの8mmをAPSに
つけて散歩した。フードが見当たらず、すっぴんで
使った。板塀の看板を下から仰ぎ見るような絵。
秋の空。(拡大画像あり)

ドゥルーズの「情動」

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『たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、
牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。
競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、
触発される力もちがう。
農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。 』
(ドゥルーズ 『スピノザ』)

第6章「スピノザと私たち」はリマーカブルな章だ。
上記内容もドゥルーズ的で、挑発的ですらある。
僕はドゥルーズひいきです。
よって引用部分もレトリックとしてもなかなか、と思う。
が、「実際にそうなのか?」と疑問に付すことはできる。
どうみても、牛と馬の生物種としての違いは、ある。
牛と農耕馬の「情動群」をどうやって測定するのか?
などと難癖つけることができる。
引用部のコンテキストは、そんな難癖をつけられても
動揺することのないメッセージだとは思うが。

ドゥルージアン、スピノジストの方へ。
必ずや、僕ら自身の新しい「概念」を創造しましょう。
たとい、ドゥルーズやスピノザの生きる哲学をこよなく愛し、
かれらの「倫理」を僕らもまた生きようと思うとも、
押し戴いて金科玉条とはいたしますまい。
僕ら自身を構成する諸要件は個物としてのそれです。
内在の平面は、ドゥルーズが否定したにもかかわらず、
僕ら自身の「プラン」であることは否定できないのです。
今朝はこれを伝えたかったのでありんす。

閑話休題、先日、駅に人を迎えにいきました。
予感がしてカメラを携えました。
その場所での「特権的」な絵を得ました。
シャシン屋(?)個物に到来する出来事です。
そこでの様態や自己の構成は「十全な観念」というより、
「リゾーム」の成果と申すべきでしょう。

雲はもうすっかり秋の雲です。
僕という個物はここまで「延長」を果たしました。
ちなみに列車は「引き」で、向こうに去っています、のです。


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