ドゥルーズ: 2011年2月 Archives

南方仁ふたたび

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『JIN 仁』20巻を完読!(笑)
おおっ!南方センセは再びタイムスリップする。
だが今回はすべてを承知のうえでね。
あちら側=幕末・明治では咲さんと一緒に
橘仁としてさらなる医学の発展に尽くす。
一方江戸から帰った南方仁の現実存在は、
「仁友堂病院」で働く医師だ。
つまり変化し、成ったアイオーンの中にいる。
これは『バブルへGO!!』とまあ同じですな。

さて。
この物語には「器官なき身体」、「リゾーム」、「出来事」、
「パラレルワールド」、「ドッペルゲンガー」など
てんこもりの様態や概念が織り込まれている。
何度も出てくるドクン!は生成への「卵」(ラン)だ。
なによりうれしいのは、希望や情に満ちた医療の世界がある。
ドゥルーズやスピノザと並行して読まれるがよろし。(笑)

コナトゥス conatus

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「超越」とか「内在」を考えると、必ずといっていいくらい、
ここ、アガンペンの『絶対的内在』に戻る。
論攷を何度も読み返すことになる。
(「現代思想」2002.8.)

conatus sese conservandi を
google 翻訳、ラテン語指定で音声と翻訳をみる。
「コナントス セセ コセンヴァンディ」と聞こゆ。
「保存の自身がしようとした」と訳が出る。
微笑ましい。愉しいねえ。
多賀健太郎は「自己保存的コナトゥス」と訳している。
Wikipedia で確認すると
用語の系譜が知れる。(英文)
冒頭はこうである。
will to live だという。
まさにスピノザそのものだ。

「内在平面」はとりあえずは自身を守り、
生き延びる欲望にひしめいている。
誰もが通過できる安穏なプラトーではなく
どんでんがえしのパラドックスに満ちている、とみる。

conatus sese conservandi は自己の存在に徹する場であり、
したがってそこには「他者性」はない。
言い換えれば「欲望には他者性はない」、とも言える。
象徴は出現せず、たとえ出現しても
意識しないだろう。
そう考えれば、欲望はたしかに反動的ですらある。
はじめから父と子を携えて
精神分析の長椅子に向かうのとは違うのだ。

「欲望というかたちをとった絶対的内在」とアガンベンは言う。
そこでは、「欲望と存在はあますところなく一致する」。

フーコーと禅

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フーコーの袈裟姿。
画像をここにコピペしたかったのだが
当のホンが見つからない。
『現代思想の冒険者たち』の付録だったと思う。
フーコーが禅に興味を示すのは何となくわかる。
(座ることの身体性に、という意味で)
検索かければいろいろ出るでしょう。

忙しいフーコーに只管打坐はつらかろう。
「妄想するなかれ」(莫妄想)はほとんど不可能。
不立文字ならばエクリチュールはどうなる。

そんなこんなでフーコーに道元さんは無理だろう。
(誰にだってそうそうは)
道元の「眼横鼻直」はユークリッド、ニュートン式で
一挙にあたえられる「自然」の謂いだとしよう。
「心身脱落」も同じものとみてよいか。
ならば、そのような禅者の内在平面に
さまざまな潜勢力が横溢することは可能か?
浅田彰的に言えば、フラクタルは跋扈できるか?
うむ。ちょっと、ねえ。
道元さんはグレーゾーンを排除したのではないか。

少し寄り道を。
坐禅時の呼吸数。経験者はわかると思うが、
極端に少なくなる。1分間の呼吸数は2-3回。
それと、いわゆる脳天から熱く抜ける感覚、
(チャクラが開く、といえば大げさだけど)
その状態とドゥルーズの「器官なき身体」に
どこか近似性のようなものがあるだろうか。

ご承知のとおり、ドゥルーズには「観想」がある。
古くはアリストテレスにもそれはある。
田中美知太郎=岩波哲学講座で
高校生の僕はアリストテレスの「観想」を
何かしら静かな悟りのようなもの、と理解していた。
つまり禅のようなものか、と。
それに比べるとドゥルーズの場合は事物に触れた後の
内面性を言っているように思う。
「超越論的経験」と関連があるようにみえる。
(僕のいつものあいまいな直感=レトリックなのだが)
どちらにせよ、まあ「心身脱落」とは異なるでしょうな。

落ちにもならぬが、中村勘太郎の「禅 Zen」を
スカパーでみて、フーコーの袈裟姿を思い出したのだ。

アンゲロプロス(ギリシャ)の『霧の中の風景』は
まさに「父捜し」のオィディプス系譜のシネマだ。
(同じ頃の『シテール島への船出』も、そうだけど)
ドイツにいると聞かされた父をたずねて
姉弟は酷薄な無銭の旅に出る。

「あちら側」をめざし旅に出る、という欲望を
ニンゲンはもつ・・・。それこそが
ニンゲンが生来「欠けた」生き物であることを
示している。生まれながらに「欠如」を抱えている。
初めに「欠如」があれば充足をめざすしかない。
オィディプス的に記述するとそうなるだろう。

アンゲロプロスの作品が
僕に魅力的であるのは曖昧な事実だ。
アンゲロプロスらしい印象的なシーンはいくつもあるが
このシーンもそのうちのひとつだろう。
テーマはオィディプスに連なるとしても
映像はイマジナブルで結晶は多義的だ。

警察署で待たされる姉ヴーラと弟アレクサンドロス。
雪が降ってくる。
署員は雪だ!雪だ!とみな外に出る。
首に縄をかけて人を殺めた女がいる。
外に駆け出す姉弟。
アンゲロプロス独特のイメージと長回し。

小学生の時分から外を歩き回っていた。
兄弟はなく、遊び相手もいなかったので、
野山を歩くのは習いの性であった。

僕が小学・中学を過ごした離島僻村の町には
家から1時間も歩けば上がれる丘陵があった。
砂地の丘で、頂上からは見事な砂浜と防風林が
眼下に臨まれた。春ともなればそこに行った。
後年、このことをしばしば思い起こす。何なのだろう?

高校に行くようになっても下宿を出ては
市街をほっつき歩いた。まるで物色する泥棒だね。(笑)
大人になって山や裏通りを歩くようになるのは
これらとは事情は少々異なるだろうが、動力は同じ脚だ。
定年後も波やうねりはあるが、
歩くことは続く。「散歩」と称するのだろう。
好きだからやるのだろうが、何とも不思議だ。
ヒトはなにゆえに歩くのだろう?
(ヒト、とはいってもこんな疑問は男にしかない)

歩いている時を思い起こしてみてください。
何か考え事をしているでしょう。きっと。
でも身体は指令を受けなくてもどこかに向けて進む。
カントやベートーヴェンもそうだったのでしょうね。
歩く(散歩する)状況下では
考え事の当のもの「概念」と「内在」、
いまここ、の「現働性」さらには「出来事」も、
ワンパックになっているでしょう。きっとね。
カメラを手にして大阪の裏通りを歩くスタンスと
夕方になればハビトゥスとして出る散歩とのあいだに
違いはあろう。が、経験からいうと
街撮り(写真撮影)の間にもあいまいな自己が動いている。
その経験・様態をコトバで現前させるのは不可能だ。
さて、今日のタイトル。「パセアルセ」。

アガンベンの『絶対的内在』に出るコトバ。
(「現代思想」2002 8月号 多賀健太郎訳)
もともとスピノザが使ったラディン語。(古代スペイン語)
pasearse とは「自分を散歩につれてゆく」ということらしい。
この場合「散歩」は
「作用者と受動者が絶対的な不明瞭性の閾に入りこんでいて
判然とは区別しがたい」
というのである。

そうです。
「散歩」の実相とか様態はあいまいなゾーンなのです。
ことは散歩に限らない。
今やアガンベンの独壇場である「むき出しの生」ならずとも
いまここ、のこの生は、作用者も不分明なら受動者も不分明、
あいまいなゾーンで動く。動くものは説明できない。
現前させてもそれは事後のイメージを繰っているにすぎない。

こうして今日も僕はパセアルセをやるだろう。
「自分を散歩につれてゆく」だろう。

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