ドゥルーズ: 2013年12月 Archives

「少数派の意識の普遍的な形態が存在する」と、ドゥルーズ=ガタリは言っている。(「千のプラトー」宇野他訳 P126) 僕はこれを、《少数派の者たちの間に響き合う通奏低音》のようなものだ、と解している。その線が出るかどうかをさぐりながら、他者と接触している。自己は精神も身体も他者との間でそのつどその場で立ちあがる。存立する。関係が沸き立ち、修正の線もその場所で出るかもしれないし、後になって出るかもしれない。全局面でアレンジメント(アジャンスマン)、リゾーム、器官なき身体が作動する。「存在の一義性」っていうのも、これらを全面的に承認することだと理解する。あまりに大雑把でごめんなさい。そもそもの最初からそう考えて、今も変わらない。認識はどっちにころんでも「誤認」なんだから、まあいいか、と。

 じゃ、その「形態」を具体的にというと、困る。言葉にできないのだ。確かフーコーが「闘争」について問われて、私もそれを今考えているのです、と率直に応える場面がありました。(どこと言われても・・)だから、《今それを考えているのです》というのは苦境(?)をそのまま受け入れる態度かもしれない。そして「少数派」の意識をまとったまま一生が終わる、ということになりそうな気がする。



(α7R/ERMARIT 1:2.8/90 SILKYPIX retro_taste)

 これも拡大してどうぞ。被写体個物はSonnar85mm/f2 です。Nr.2624***が見えます。(自慢してる、あはは)撮影レンズはERMARIT90mm/f2.8です。これまでは、ERMARITをEOSのフルサイズで使っても、ピント合わせにに難儀していた。いつのまにかERMARITは「蔵」に・・。α7Rのおかげで今回復権、ご寵愛を受けること間違いない。まさにアジャンスマン。ERMARITの線が出て、屹立する。

 さて、くだんのSonnarですが、鏡胴は改造してるのであの樽型ではありません。ピントリングにはソニーのビデオパーツを流用してます(笑)。ま、要は写りですからね。抜け殻となったその樽とはこれです。ERMARIT90MM f2です。

 あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは、〈一つ〉を二重にすることではなく、〈他のもの〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ、それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。私は、外部で私と出会うのではなく、私のなかに他者を見出すのだ。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P180)

 ギリシャ人の新しさは、後に、ある二重の「離脱」にむけて現われる。それは、「自分自身を治めることを可能にする訓練」が、力関係としての権力からも、地層化された形態や徳の「コード」としての知からも離脱するときに現われるのである。一方に、他人との関係から派生してくる「自己との関係」があり、他方に、同じように知の規則としての道徳律から派生してくる「自己の成立」がある。この派生物やこの離脱は、自己との関係が独立性を獲得するということだ、と解さなくてはならない。それはあたかも外の関係が裏地を作り、自己との関係を生じさせ、一つの内を構成しようとして、自らを折り畳み、折り曲げるかのようだ。内は国有の次元にしたがって、陥没し、また展開するのだ。つまり「エンクラティア」〔克己〕、克服としての自己との関係は、「人が他人に対して行使する権力において、自分自身にむけて行使する一つの権力である」(もし、人が自身を統治しないとすれば、どうして他人たちを統治することを望めるだろう)。こうして自己との関係は、政治、家族、雄弁、遊戯、とりわけ徳などを構成する権力に対して「内的制御の原理」になるのだ。それは、ギリシャ的な鉤裂きと裏地のタイプである。つまり、このような離脱が摺曲や省察を実現するのだ。少なくとも、これがフーコーの理解したギリシャ人の新しさである。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P185)

 引用が長くなった。『フーコー』の終章の部分。とりわけ僕が胸を打たれた箇所。ドゥルーズは言う。

 ―『知への意志』に続く長い沈黙の間に一体何が起こったのだろうか。(中略)彼は『快楽の原則』の胸を引き裂く言葉にたどりつく。「自分自身から離脱すること・・・」―

 僕は他者に出会う。さまざまな機会をとらえ、他者とまじり合う。僕は他者のように生きる。そこにも複雑な権力関係が入り込む。「自己との関係」はその場所でこの僕自身を折り曲げ、裏地を張り、褶曲させ、省察に導く。これが「離脱」なのだ。だがこの「離脱」は死の陰を帯びている。僕は日夜(マジに)このテーマ群を反芻する。僕は老いた。ここを拠点として何の不思議があろう。

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