ドゥルーズ: 2012年9月 Archives

属性 様態 効果

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三菱地所アルティアムの会場は狭い。
それを塩田千春は工夫して使っていた。


(NEX-7/Hektor f=2,8cm 1:6,3/ISO3200)

パンフの装置とはちょっと違うでしょう?
スペースの狭さで新たな線が生じる。
属性が変われば様態も変容する。
効果、といっていいだろう。

少し蛇足を・・。
「書くことは逃走線と本質的な関係にあるのかもしれない。
書くこと、それは逃走線を描くことである。
逃走線は想像的なものではなく、人は逃走線を辿るように
まさに強いられている。
なぜなら、エクリチュールが私たちを逃走線に引き入れ、
実際に私たちを逃走線に乗り込ませるからである。
書くこと、それは生成することである。
とはいえそれは作家へと生成することではまったくない。
それは別のものへと生成することである。」
(『ディアローグ』ドゥルーズの思想 江川+増田訳 河出文庫)

(EOS5Dmk2/アンジェニュー35-140mmTYPE LA2)

先だって不思議な経験をする。
知人を訪問する。
と小泉義之の『ドゥルーズの哲学』を差し出して、
大変な昔、これをあなたに借りていた、と言う。
咄嗟のことだ。
え?そうだった?いつごろのハナシ?
彼「~のころだと思います。」
奥付をみる。2000年発行だから、「~のころ」とは
時期が合わない。

ウチにも一冊あるので、彼に貸して別に買い求めた、
ということになる。だがその記憶は全くない。

そこで僕は仮説をたてる。
彼は僕の紹介に触発をうけて、自ら買い求めた。
時間がたつうちに僕から借りたものと錯覚する。
どうだろう。ありうるハナシではないか。
そもそも内在はそんなふうに作動するものでしょう?
違うか。やはり僕の忘却か?
いやだなあ。(笑)
ドゥルーズの「欲望」について今少し。
『ディアローグ』第三章第二部の冒頭です。

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欲望に関する三つの誤解とは次の通りである。
すなわち、欲望を欠如あるいは法則と関係づけること、
自然的あるいは自発的な実在と関係づけること。
快楽や、ひいては祝祭とさえ関係づけること。
欲望は内在平面あるいは合成平面の上でつねに
作動配列(アジャンスマン)されており、機械状になっている。
この平面はそれ自身、欲望が作動配列し、機械状になるのと
同時に構築される。私たちはただ単に、欲望が歴史的に
決定される、と言いたいわけではない。歴史的決定は、
法則の、あるいは原因の役割を演じるような、またそこから
欲望が誕生するような構造的審級に訴えるのである。
それに対して欲望は、ひとつの作動配列の諸変数と
そのつど見分けがつかない現実の操作子(オペラトウール)
なのだ。欲望を与えるのは、欠如でも欠乏でもない。
欠如が感じられるのは、自らが除外されている作動配列との
関係においてだけであるが、人々が欲望するのは、
自らが内含されている作動配列
(それが略奪や反乱の結集であるにせよ)によってだけである。
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「ないものねだり」は欲望を押しとどめる戒めとして
使われることが多い。欲望は欠如と関係づけられる、と
おもうのはそれほど不思議ではない。
しかしドゥルーズはもっと端的に欲望を肯定するのだ。
欲望が沸き立つ平面をあらかじめ任意に準備する、
というような芸当はできない。戦うコートを配分して
おくことはできない。欲望の沸き立つ場に自らもそっくり
配分されるからだ。

ドゥルーズ=欲望

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欲望に主体はない。これはドゥルーズの持論です。
言表行為に主体はない。これもそうです。

ドゥルーズに縁がない人は驚くだろうと思う。
「欲望」と「言表行為」は精神分析の素材でもある。
それもきわめて重要な素材だ。
その「精神分析」をドゥルーズはさまざまな場面で
おおいに(?)批判している。
『アンチ・オイディプス』。『記号と事件』。
『ディアローグ』には第三章
「分析せよ死せる精神分析を」がある。

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子供ににおいてさえ、
諸々の作動配列(アジャンスマン)からなる
もろもろの政治しかない。
この意味であらゆるものは政治的である。
プログラムしかない、あるいはむしろダイヤグラムや
平面しかないのであって、記憶も幻想さえもない。
生成とブロックしかない。ブロックとは
幼少期のブロック、女性性のブロック、
動物性のブロック、生成の現働的なブロックのことであり、
記憶に関するもの、想像的なもの[想像界]、
象徴的なもの[象徴界]など何もない。
欲望は、形象的ではないのと同じように象徴的な
ものでもなく、シニフィアンでないのと同じように
シニフィエでもない。
欲望は相互に交叉し合い、結合し合い、あるいは
妨害し合う様々な線によって、内在平面の上で
しかじかの作動配列(アジャンスマン)を構成する
様々な線によってつくられるのだ。
しかしその平面は、当の平面を合成するそれらの
作動配列(アジャンスマン)に先立って、
その平面を描くそれらの抽象線の先立って
存在するのではない。
(『ディアローグ』第三章)
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過激ですね。
「精神分析」の批判です。このなかには
「ぼくの欲望」といってみたところで当のぼくの
主体性などないことを示唆しています。
また、「内在平面」(存立平面)がどのようなものか、も
垣間見えます。

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