ドゥルーズ: 2016年12月 Archives

哲学とは何か

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長文注意。
ドゥルーズを「出来事」の哲学者、といったのは誰であったか。事象をまさに「出来事」ないしは「事件」として感じ取ること、それは僕にもさいさいある。あきらかにドゥルーズを知る以前にはそのような感慨はなかった。既存の概念の配置(布置)を変更する。そこに新味の視界がひらける。そこに新たなプラトーがみえてくる。それが「生成」なのだろう。きっかけは特異点なのか、襞に潜む電子なのか、シナプスを飛び交う言い表せないものなのか・・。

インダスター。これはいわゆるゼニット型のレンズだと思う。バリエーションは豊富。60年代なのだそうだ。知人の手になる改造をじっくりみていただこう。前面の前玉。シリアルのそばに突き出たピン。これが絞りを制御。



裏面の後玉です。取り付けのM42リングには、ASAHI PENTAX JAPAN の刻印があります。



側面。パンケーキです。



ドゥルーズの「アジャンスマン」はまさに組み合わせのことです。偶然で、潜勢的なものが支配する。手近のパーツからこれかな、とアレンジするがしかしそこには「偶然」「記憶」「経験」とイマージュがひしめいている。製作過程にはすべからく「差異」がある。彼の作り出す個物には「再生産」がない。使用者には「同一性」から解放された新規の驚きが待ち受けている。

僕がこんなことを書くと他者は、「もちあげている」と思うかもしれない。そうではないことを知っているのは僕なのだからその誤解を解くすべはない。実際、当の製作者からして(知人ではあるが)、布置の変更による「効果」を十全に賞味しないうちに手放すものと思われる(ごめんなさい)。製作されたレンズの「効果」はもっぱらそれを使用した者に発生するから・・。
(製作者は使用者と異なる場で、使用者と異なる「効果」を獲得している、ということは言うまでもない)

諸氏よ。ここに「哲学」が暗躍するのです。
「哲学」は身体と精神を駆使して生きる営みです。哲学史を読み解くことではありません。とりわけ自己の生の最終局面に近づくと強く感ぜられるのです。
ドゥルージアンのあなたならお分かりでしょう、僕がファインダに見出すものはむろん「効果」です。それはあの「結晶イメージ」につらなる身体と精神の様態そのものです。現働と潜在に翻弄されるがごとき「効果」です。ここブログ言表には宿りきれない「経験」です。
「エチカ」でスピノザは、わたしたちは身体と精神のことについて何も知らない、と言ってます。そう。知らない。何か「出来事」のなかで飛び去るかのように過ぎてゆく身体と精神、そこに生息するしかない。

作例をひとつ。解放での撮影。テッサー型の特徴があるかな。

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