ドゥルーズ: 2010年12月 Archives

幇間 三木のり平

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哲学は神経学と特権的な関係を結んでいますが、
それは観念連合論の思想家を、
あるいはショペンハウアーやベルクソンを見れば
すぐにわかることです。
私たち現代人にとって、新しい考えがひらめくきっかけは、
コンピューターではなく、ミクロの生物学ともいうべき
脳生理学にあります。脳というものは
一個のリゾームであり、だから樹木よりは草木に近く、
一種の「アンサートゥン・システム」を形成し、
確率論的で、半分は偶然にゆだねられた量子論的
メカニズムをもつ。
(中略)
映画で面白いと思ったのは、
スクリーンが脳になりうるということで、
これはレネやジーバーベルクの映画に顕著な傾向です。
『記号と事件』(文庫版)

「お母さんが向こうで呼んでるよ」
少年は走り出す。
そんなシーンがあるとする。
僕たちの思考イメージは、走る少年の先には
母が待つ。さてどんな顔で?
というようなイメージを結晶させるだろう。

僕たちはそのように連合させ、生成しながら先に進む。
脳の中では、映画に出会うと同じように
現実存在を創りあげる力能が働く。
僕たちはイメージを創りながら生きているのだ。

1962年の東宝版『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』。
『忠臣蔵』はWikiしてください。
僕は小中学生の時分、映画ならなんでもかんでもみた。
時代劇、日活アクション、母モノ、特撮モノ・・
ジャンルなんてどうでもよい。
映画をみるのが好きだった。

三木のり平はセリフ覚えが下手だったときく。
『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』での幇間=三木のり平の踊り、
それとモノボケ、これがおかしい。
役者だねえ。
では、まずは東宝版『忠臣蔵』からの踊り、モノボケ。




続いては『社長紳士録』。森繁と白塗り姿で宴会芸。



鬼平犯科帳

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いまや哲学は、自己の外の非哲学的イメージと
連絡すべきであり、しかも漫然と触発を受けるだけでは
済まされない。思考の新たな「イメージ」を創るためにこそ、
哲学は哲学外のイメージへと自らを開かねばならず、
そのような「外」との関係のなかから、
新しいスタイルの創造に努めるべきなのだ。
瀧本雅志「メディア・デザインへ向けての哲学とは何か?」

TVドラマ「鬼平犯科帳」のエンディングでは
ジプシー・キングスの「インスピレーション」という曲が
使われた。
「鬼平犯科帳」についてはWikiしてください。
ではそのシーンを。

あいだ 記号と事件

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事件をとらえることができるのは芸術であって
メディアではない・・・と前置きしてドゥルーズは言う。

ふたつの点のあいだに線があるのではなく、
線が何本も交差したところに点があるわけですからね。
線が一定することはありえないし、点のほうは、
あくまでも線の変曲であるにすぎないのです。
だから当然、重要なのは始まりでも、終わりでもなく、
あいだの部分だということになる。
『記号と事件』(文庫版)

ドゥルーズのこの言は至極もっともだろう。
このことで小津やアントニオーニを参照する、僕の言う
「ドゥルーズの配分」は正当といえます。

映画『氷点』(1966)の詳細についてはWikiしてください。
僕は森光子という女優のことは何も知らないが、
陽子の自殺未遂後の、このシーン。
辰子(森)が後悔する夏枝(若尾)を陰からみている場面だ。
音声もなく、辰子の動きだけで明らかにされるもの。
これが、メディアではとらえられない決定的な結晶であり、
事件(出来事)なのだ。

ドゥルーズ的成瀬巳喜男

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ものを創る人間が一連の不可能事によって
喉もとをつかまれていないとしたら、
その人は創造者ではありません。
創造者とは、独自の不可能事をつくりだし、
それと同時に可能性もつくりだす人のことです。
発見するためには、マッケンローのように
壁に頭をぶつけていなければならない。
壁がすりへるほど頭をぶつけなければならないのは、
一連の不可能事がなければ逃走線、あるいは
創造という名の出口を、そして真理を成立させる
〈偽なるものの力能〉を手に入れることができない
からです。
『記号と事件』(文庫版)

では成瀬巳喜男の「娘・妻・母」。
原節子、40歳。
2年後に、「忠臣蔵」=りく役を最後に銀幕を去る。
降りる時期を知っていたのだと思う。

ドゥルーズ的成瀬巳喜男

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だから私は想像界の概念が
それほど重要であるとは思っていません。
想像界の概念は、一方では物理的、化学的、
あるいは心的な結晶作用を前提にしています。
想像界の概念によって規定されるものは何もなく、
逆に想像界の概念のほうが、交換回路のかたちを
とった〈結晶イメージ〉によって規定されるのです。
想像するということは、〈結晶イメージ〉をつくる
ことであり、映像を結晶と同じように機能させる
ことなのです。
ヒューリスティックな機能をはたすのは想像界では
なく結晶のほうであり、それは現働的なものと
潜在的なもの、透明と不透明、そして核と媒質という
三重の回路によって可能になるのです。
『記号と事件』(文庫版)

ドゥルーズとちがって僕は「もうひとりの小津」、
すなわち成瀬巳喜男の映像を愛する男です。
ドゥルーズは成瀬を知っていただろうか?

「女が階段を上る時」の結晶も、暗く重い。
だが僕の傾向であり、実は豊かなものなのだ。
銀座のママが、妻子持ちのしがない男にだまされる、
以下のシーンはそれを知るくだりだ。
背景には千住の「おばけ煙突が」みえる。
それだけのシーンだが僕にはよろしい。

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