ドゥルーズ: 2012年12月 Archives

さて。「ミシェル・フーコー/情熱と受苦」
県立図書館から借り受け。
第1-3章で飽きて末尾10-11章を読む。
ここで返却する予定が、結局だらだらと
全部読んでしまった。
あまり後味はよろしくない。
個物をアンジェニーの素材にしたりもして。
(エルベ・ギベールの写真なので)
いやこれは余興です。
同書については浅田彰センセの批判が以下で読めます。
ここをクリック

浅田センセの論調はけっこう激しい。
翻訳を監修したの田村俶に対する言も手厳しい。
わかるような気がする。

フーコーの「権力」

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フーコー・コレクション5
「10自由の実践としての自己への配慮」P316-317
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私は権力という言葉をあまり使いませんし、
ときどき使うときがあっても、それは「権力の諸関係」
という私がいつも使う表現を短くしただけのことです。
それにしても次のような既成の図式がありますね。
権力が語られるとき、ひとはすぐさま政治的な構造、
政府、支配的な社会階級、奴隷にたいする主人などの
ことを考えてしまいます。
私が権力の諸関係について語るとき考えているのは、
そういうことではありません。私が言いたいのは、
さまざまな人間関係において―それは
今しているような言語的なコミュニケーションであろうと、
恋愛関係であろうと、
制度的または経済的な関係であろうと―、
どのような人間関係においても、
権力はつねにそこにある、ということなのです。
つまり、一方が他方の行動を指揮しようとする
ような関係があるということです。
だからさまざまなレベルで、さまざまな形式において、
権力の諸関係を見いだすことができます。
権力の諸関係は可動的なものです。
つまりそれは変わりうるものであり、
一度に決定的に与えられてしまうような
ものではありません。
たとえば私が年上なので、
はじめあなたは怖気付いていたとしますね。
会話が進むにつれて関係が逆転し、
今度は私のほうが、年下の人間を前にしている
というまさにそのことに怖気付いてしまうこと
だってあるのです。
だから、こうした権力の諸関係は可動的、可逆的であり、
不安定なものです。
さらに、主体が自由であるかぎりにおいて、
権力の関係がありうるのだということも
指摘しておかなければなりません。
二人のうちどちらかが他方に完全に掌握されて
しまい、彼の物に、つまり彼が無限で際限のない
暴力を行使できる対象になってしまったとしたら、
権力の諸関係はありません。
したがって権力の関係が行使されるためには、
双方に少なくともある形の自由がなくては
なりません。権力の関係が完全に均衡を欠いていて、
一方が他方にたいしてすべての権力を
握っていると本当に言えるようなときでさえ、
権力が他方に行使されうるのは、この人がまだ
殺し合う可能性を持っているかぎりにおいて、
つまり窓から飛び降りたり、相手を殺してしまう
可能性が残っているかぎりにおいてなのです。
つまり、権力の諸関係においては、
かならず抵抗の可能性があります。
抵抗の可能性―暴力的な抵抗、逃走や策略による抵抗、
状況を逆転させる戦略など―がなかったとしたら、
権力の諸関係はまったくありえません。

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ジェイムズ・ミラーの
『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』
(田村 俶ほか訳:筑摩書房)
第10章「自己の記述」に
ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」の
絵(トリプティク)の記述がある。
気になったので鋭意検索した。
胴体のない不気味な男と面対するアントニウス。
画像中央付近です。
フーコーはこのフィギュアについて
自己の目下の課題にひきつけて考察する。
パクリだけど備忘のために安置します。(拡大画像あり)



くだんの本文には今日は触れずに
不気味なフィギュアに加えて
気になる本文脚注16(原注)を以下に。
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フーコーは1980年、
ハウイソン記念講演終了後の自由討論の席で、
禁欲主義とエクリチュールの結びつきを精緻化している。
「私の考えでは、自己の解釈学が
ある種のエクリチュールに席を譲ったときに、
近代文学が始まったのです。
たとえば、モンテーニュからです……
文学はある意味で自己の犠牲です。
あるいは、自己の犠牲であると同時に、
事物の秩序のなかでの、別の時間、
別の光などといったもののなかでの、
自己の置換でもあるのです。
ですから、近代の作家はある意味で、
初期キリスト教の苦行者あるいは
初期キリスト教の殉教者と関連しており、
結びついており、類似しています。
私がこう申し上げるときは、もちろん、
辛辣な皮肉を込めて言っているのですが」――
そしてフーコーは笑うのだが、
明らかに聴衆は彼が何を言わんとしているのか
見当がつかず、押し黙ったままだ。
フーコーは続ける。
「自己の解釈学と自己の消滅――
犠牲、自己否定――とのあいだの関係という、
この同じ間題が近代世界における
文学経験の核心であると考えます」
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ちなみに脚注16の詳細を画像で。(拡大画像あり)



本書に触れずに、ボッシュと脚注だけになったが
すんません。ぐっときた場所でアホが立ち止った、
ということです。

神谷美恵子の驚き

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ジェイムズ・ミラー『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』
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本書を書いたさらに別の理由は、もっと個人的なものだ。
私は、人生の拮抗し合う多様な側面のぎざぎざした縁を
なめらかにならしたり、同一の基準では計れないそれらの
主張の折り合いをつけたりするのを助けてくれるような、
アリストテレス的中庸、プラトン的善の観念、
われわれの推論能力に暗に含まれる倫理的節度、
合意という統制的理想、そういったものはありはしない
という、幸せとはいいがたい確信の持ち主である。
それゆえ、ニーチェの普学は私にとってかねてから
難題であり、挑発であった。
そこに内在する論理が論駁されるのを
私はまだ知らないのだが、その論理からみて、
彼の信奉者たちのいく人かが身をもって奉じたような
残酷できわめて危険な実践をそう簡単に
無視することはできないというただそれだけの理由にせよ。
 アウシュヴィッツ以降、「善悪の彼岸」で
思索的に生きるということは何を意味するのか
という問題は、要するに、探究するに値する問い
なのである。それには、戦後のニーチェ信奉者のうちでも
もっとも革命的な―そして非常に真摯な人物―の生涯を
研究するにまさるやり方があるだろうか。
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『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』の序文から。
テキスト前半の気概が神谷美恵子にあったなら、
フーコーがあれは若書きといったときの「驚き」も
少しは違っていたのかもしれない。
「権力」・「生政治」に関するフーコーを知って
いただろうか?なにより「セクシャリテ」に関する
晩年のフーコーは、聡明な神谷であっても
受け入れることはできなかったのではないか・・
(なくなってはいたけど)
分厚い書物を開いてすぐのこの場所で、
神谷美恵子の「驚き」を思い起こした。
もちろん僕の空想の産物だ。

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