ドゥルーズ: 2011年1月 Archives

ドゥルーズへの批判

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ドゥルーズには他者性が欠如している(宇波彰)
死を回避した哲学(松浦寿輝)
現実-強度を、強度についての言術-隠喩の水準で処理する
(樫村晴香)
いちいちもっともである。
ドゥルーズの調書(長所の変換ミス)、
彼の調書を取ったとすると、
短所があからさまになる風でもあるのだ。
パラドキシカルなのがドゥルーズである。
まるくおさまるのが僕のドゥルーズだ。
器官なき身体=リゾーム=アレンジメントであるどころか
内在平面(存立平面)ですら等式でよろしいのが
僕のなじんだドゥルーズだ。
小説家がしそうな「幻想贈与的」なドゥルーズに
僕はなにより惹かれた。だから身も蓋もないけど、
それを承知で流れ入る。

『現代思想 2008年12月号』を置き忘れてなかったか
天神の数軒の店を尋ねて回った。見つからず。
再度買うしかないか。

カメラが重いときは体調もよくない。
ジュンク堂で2時間、jQeryやCSS関連を南側カウンタにて
読んでみたが大半は居眠りしていた。
も少し若ければたぶんjQeryに飛びつくだろう。
ちなみに突貫工事ではありんすが、
Lightboxでシャシンを動かすとこうなります。
(loading.gif以外はデフォルトです)

ここをクリック

天神に出て食指が伸びないのは街に飽きたのか。
春になれば箱根で藤田嗣治の回顧展があるという。
かの「乳白色」はシッカロールだった、
うんぬんの記事をネットで読んだ。
土門拳が撮ったシャシンにシッカロールの缶が
写り込んでいたという。へえ、そのシャシンを見たいな。
ま、これもネット記事の「幻想贈与」ですかね。
移り気:天神様→箱根権現、春は箱根(ポーラ美術館)に
出向きませうかね?
参考までに「ユリイカ2006年5月号」に
林洋子「乳白色の下地の誘惑」という論攷がある。

フーコーの倫理

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定年で「毎日が日曜日」族となる。
ガタリのいう「一種のマシニックな倒錯、狂気」の日本的集団に
深く属していた過去を改めて想起する機会がある。
それにしても僕にとっては60歳定年は遅すぎた。
50歳は贅沢だとしても、せめて55歳定年だったら、と思う。

集団内では当然のことながらその社会で通用する言説に
依拠しなければならない。言表行為は社会的であることを
所詮免れ得ない。僕も「そこでの言説」をなし続けてきた。
日本人はガタリが指摘するまでもなく、特別な民族で、
所属する地勢の言語でしか語れない、というふうだ。

さて、現在。
マシニックな集団を離れ、僕は自由気ままに語れる。
とてもよろしい。
検索で、あなたがこの項目を参照した場合、
あなたは当然ドゥルーズを知っている。
あなたにとって僕個人は見知らぬ他人。
(あたりまえですね)
言表行為にはさまざまな要素が織り込まれる。
そこには社会経済的要素もたたみ込まれる。
あなたが僕を見知らないことが
僕の自由な言表形成を促す。
不知があなたの自由なアレンジメントを保証する。
なぜかそう思えてならないのです。
ありがたいことです。そのうえで
檜垣立哉の「ドゥルーズの転回→倫理」に関連して、
(関連しないかな)
少し自分に引きつけて記します。

ミシェル・フーコーは
『アンチ・オィディプス』の英語版の序文で、同書を
「(著者たちに許しを乞いつつ)倫理の書と呼びたい」と
言っています。
(「現代思想」1984 総特集ドゥルーズ=ガタリ)
そして具体的にいくつかの「倫理」を示している。
(ドゥルーズを倫理的に生きよ、と提言してるようなもの)
そのうちのひとつを。

" 哲学でこれまで定義されてきた個人の「権利」なるものの回復を、
政治運動に要求するな。個人は権力の所産にすぎない。
必要なのは、多様化とずらしによって、多岐にわたる接合を、
「脱個人化」することだ。集団は、階層化された個人個人を
結びつける有機的紐帯であってはならず、脱個人化の
恒常的算出体であらねばならない。"

フーコーらしい倫理ですなあ。
今となっては古くさい?今でも通用する?うーむ。
「脱個人化」をどう読みますか?
私を脱構築する、ということですかね?
この倫理基準(このコンテクスト)に照射されたら、
僕はどのように炙り出されるだろうか?

現時点から当時を振り返ってみる。
すると、
「脱個人化」を果たしていた・・、しかも「権力の所産として」。
という滑稽な線が出そうな気がするのです。(笑)
いや、単にレトリックかもしれないけれど。
せいぜい階層化された個人の有機的紐帯、
というしかない集団であった。
どのように有機的か、という問をたてることもできるでしょうね。
たいして意味はないかもしれない。
ともかく。自覚的に「逃走線」を引き出してはいた。
それでお茶を濁していたのかな・・不遜です。
そういうトポスをとりあえずは保持する、
それが僕の態度であった。
これもまた「倫理」なのです。

「ドゥルーズを生きる」という倫理は
フーコーに学んだわけではない。
これはシネマに関する「ドゥルーズの配分」を
やんわり拒む自分と同様、固有のものです。
どれほど強調してもいいけど、
僕たちは固有の概念を創り、生きる。
「脱構築」は現働の生活で日々実行していたのであって、
デリダから引き継いだわけではない。
僕の経験からいえば、知見としての概念は
アカデミックに到来する。そこで驚きもし、感動もする。
しかしそれはすでに僕の中にあったものです。
交通整理をしてくれる思想家には大いに敬意を表する。
「ドゥルーズを生きる」は大げさと思われるでしょう?
ドゥルーズの指し示すところを、ということなのです。
というか、そのように生きることしかできない。(笑)
かく生きるしかない、ってのが「倫理」でありんすよ。
よって「倫理」は差異に満ちています。

南方仁

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JIN(仁:村上もとか)の南方仁外科医師は
クロノスとアイオーンを同時に生きる稀有な生物である。
彼は現象の理路の中にいる。理路を操作することもできる。
原因が脳内の奇形腫であるらしいことが象徴的だ。
138年前の幕末にタイムスリップした南方先生も
現象のよってきたる理路を問う。当然です。
特異点は今や彼の全身を蕩尽してしまった。
世界が文字通り彼というモナドに殺到したのです。
問いを立てずにおれましょうや?

僕たちは現働的な生の中心で、この生はかつて誰かに
生きられた、という感覚をもつことがある。
さらに自己を含めて誰かの未来を生きようとしている、と
感じることがある。
よって一般存在論、現象、特異点、個体化、諸差異・・・
それらについてなお問いを立て、解を尋ねることを
断念してはならないのです。
いえいえ、それは十分わかってはいるのです。
「ドゥルーズの転回」を言挙げなさる檜垣先生は
実にまっとうなことをなさってるのです。
「リゾーム」の一言で済ます僕が怠慢なのでありんす。
南方先生、そっちでがんばってくださいよねっ!

「表現される世界は、述語のセリーがモナドに内属するように、
モナドの中に実在する。けれども神が創造するのは、
モナドというよりは世界であって、表現されるものは、
表現と混じり合うことなく存立するか存続する。」
(ドゥルーズ『意味の論理学』小泉訳。第16セリー)

左は1984年の臨時増刊号、右は「JIN 仁」第1巻

ドゥルーズの転回

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『ドゥルーズ/ガタリの現在』の中には
「ドゥルーズ哲学における <転回> について」
-個体化論の転変
という檜垣立哉の一文がある。
これは檜垣立哉の持論のようなものだと思う。
後期のドゥルーズから個体化論が消えた、という話だ。
納得できる論攷です、はい。

僕はドゥルーズをその「後期」からはじめたからか
『差異と反復』『意味の論理学』の「現象の理路」を
取り込むことにまったく抵抗がなかった。
たぶん僕がいい加減なんだ。

今年の初夢は
背中に皮膚がんができた、というものだった。
「身体への配慮」を乗り超えようね、といいながら
夢ではしっかりうなされる。笑えるハナシだ。
夢はあれは無意識がなせるわざだ、とするなら
どのみち僕の範疇外のことだ。
夜中の3時だったので、もう起きようかとも考えたが、寝た。

夢の後先では「内在平面」に少しの差異が生じたろうか?
ちょっとわからない。
どちらにせよどうにもならない。
「内在平面」「存立平面」に関して言えば、
リゾームのひとことで僕は処理する。

さらに、個体化については「理路」を問わない。
いや実際は問うているのだと思う。が、深追いしない。
願望だが、個体化、すなわち「受肉」はこれを受け入れる。
願望だが、運命を受け入れる。
願望、ですよ。

「テクストは、超越への嫌悪とともに、内在平面の露呈に
繋がるかぎりでの実践として捉えられる。もはや、「主体」や
その知覚が成立することの理路が問われるのではない。
端的に動物になること、知覚しえぬものになることが重要である。
それは哲学ではなく、実践としての倫理なのである。」
檜垣立哉 前出「転回」

その通りなのだ。
大げさに言えば
ドゥルーズを生きよう、と思う者がいれば、
その者にとっては概念を超えたこれは「倫理」に他ならない。
とはいえ、僕はこれからも出来事の発生について
思い続けることに変わりはない。

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