ドゥルーズ: 2013年7月 Archives


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 (画像と本文には関連なし)


フーコー「真理と裁判形態」より

 認識は認識すべき世界と類縁関係をもたない、とはニーチェが頻繁に言ったことです。『悦ばしき知識』のテクストをひとつだけ引用しておきましょう。断章一〇九です。「世界全体の性格は、永遠にカオスである。そこに必然がないからではなく、秩序が、分節が、形式が、美が、叡智がないからである。」世界はこれっぽっちも人間を真似ようなどとはせず、いっさいの法というものを知らない。自然に法則があるなどと言うのは慎もう。認識が取り組まなければならないのは、秩序もなく、繋がりもなく、形式もなく、美もなく、叡智もなく、調和もなく、法則もない一世界なのだ。認識が相手にするのはそういうものなのだ。そこに住まう認識には、どんな権利からにせよ、この世界を認識するすべはない。自然にとって認識されるというのは自然ではない。したがって本能と認識の間には、連続性があるのではなく、取っ組み合いと支配と従属と代償の関係が見出されるのであり、同様にして、認識と認識される諸事象の間には、いかなる自然な連続の関係もない。あるのはただ暴力的関係、支配と、権力と、侵害の関係だけである。認識は、認識すべきものへの侵害でしかありえず、知覚とか、認知とか、あれとこれとの同一化などといったものではない。(引用終り)

 僕は「認知」とか「認識」、一般的に「理解」とかいうものがどのようなものなのかということを、フーコーのニーチェ解読から学んだ。いやそうじゃない。そんなことはなかろう。若いときから思っていたことが、フーコー=ニーチェ解読によって納得した、ということだ。「認識」はそれは君のたんなる「発明品」じゃないか、たいそうに言うなよ、とたしなめる。「真理と裁判形態」には人をして謙虚にさしむけるものがある。「知」とはそんなものなのだ。若き君よ、フーコーの「真理と裁判形態」をぜひお読みください。

 福岡市博物館の「インカ帝国展」に行きました。少女のミイラをみました。ああいうのは初めて。(拡大画像あり)

 少女自ら望んでこのような姿になったわけではないでしょう。後世の探検・発掘で少女は歴史に躍り出ました。

 さて、自己への配慮=エピメレイア・ヘアウトウ(epimeleia heautou)といえば、フーコーの「性の歴史」です。そのフーコーを思い浮かべていました。フーコーは晩年、自己を一個の芸術作品に仕上げることを考えていました。自身に到来するもの=きたるべきものを感知していたのだと僕は思っています。自己を歴史に残すこと、それも権威をもって立派に残すことを想起していたのだと思います。僕は大のフーコー贔屓です。「自己の技芸」を全面的に了承するのは困難ですが、心意気は承知しています。

 自国語で、ジコヘノハイリョ、と表象すればそれなりの理解は生まれます。普通にいい意味で成り立ちます。たとえば、無茶をしないでよく考えてね、自分を大事にね、とか。いっぽう本家フーコーのそれはギリシャの先哲の態度から練り上げたもので「主体化」の問題とも関連します。自己構造化、個体化の領野の問題でもあるが、フーコーは系譜的で自覚的な「取り組み」を試みています。

 かたや精神(思想)が延長して残り、かたや身体(ミイラ)が延長して残る。様式の違いはどこにあるのだろう?

 死はいずれにせよ「野垂れ死に」だと聞いたことがある。現代のシステム医療のもとでは頷ける比喩だ。でもまあ、ヒトは概念を創造し、特異性を見出し、熱したり、冷え切ったりするいきものです。ミイラは個物でした。人間であるはずなのに干からびて死んだ爬虫類のような個物でした。フーコーの頭蓋骨だったらスキップしたいところですが、15世紀の少女のミイラはなぜか「博覧」できるのですね。奇妙です。この様態の違いはなんでしょう? 

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