ドゥルーズ: 2010年9月 Archives

記号と事件

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小泉義之は討議「来るべきドゥルーズ」のなかで
文庫化されて手にしやすくなったドゥルーズを
鋭意読み込んだ若者が出ることに期待する、
というようなことを言っていたと思う。
同感だ。
分厚い『千のプラトー』を持ち歩くわけにはゆかない。
寝転がって読むことも難しい。
単行本より少しは安い。
(それほど安くはないんですよね、これが)

ともかく僕みたいな爺にはもう時間がない。
若者が取り組み、新しい時代にふさわしい提言を
新しい概念のもとに言い始めるしかない(ように思う)。
それにはドゥルーズとその周辺を
字義通り読み込むことが必要だと思うのだ。

ジジイは 『記号と事件』は図書館から借りて読んだ。
今回、文庫本を買った。
文庫版あとがきによると、
訳語の手直しをした、とある。
なるほど。それは必要だろう。
読み手には統一されたタームの方がいい。
訳語だけではなく一部は全面的に改訳した、ともある。
これを機にアタマから新しい気持ちで再読しようと思う。

来るべきドゥルーズ

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老人はときおりマニュアルフォーカスで撮影しては
ピント・視度やらの確認をする。気まぐれにですが。
下の絵には拡大画像がありますので、見れたらどうぞ。
ピントが"12"にきてますでしょ?



フォクトレンダー ULTRON 40mm てのを使いたくて
とりあえずはフルサイズで自分の基本力能を
チェックするというわけです。ホントのところは。

閑話休題。
絵にある「現代思想12月号」(2008年)は
エポックメイキングであった。
「ドゥルーズは自分でぼちぼちやるから・・」と
買うのをしばらくためらったが
購入後そんな思いは粉砕された。

まずは小泉義之と檜垣立哉の討議、「来るべきドゥルーズ」。
ドゥルーズの位置づけを整理してくれた。
もひとつは日本初訳の『シネマ』翻訳の顛末。

「現代思想12月号」(2008年)という事物と
僕がそれをしぶしぶ(?)買ったという事態は
ジュンク堂での出合い・せめぎあいを繰り返し、
やがて出来事=事件となった。
その経緯にはたしかに
結晶イマージュに似た非知覚的な生成の流れがある、
・・ように思われる。
『シネマ』のそれぞれの翻訳者の熱い語りを
胡散臭く感じはしているものの
僕の「不明」も当然のことながら介入している。

記号と事件

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ジュンク堂で河出文庫の『記号と事件』を買う。



ついでに『批評と臨床』も。
バッグに入れておけば気儘に読める。うむ。

その文庫版『記号と事件』でいうと245ページ。

哲学者は反省するのではなく創造する人間だ

タイトルにみえるがそうでもない。センテンスだ。
この前後はいいですよ。
なにより『シネマ』の経緯がわかる。

◎不毛の時代が来ると、
哲学は「・・・について」の反省に逃避していく・・。
自分では何も創造できないとなれば、「・・・について」
反省する以外に何ができるでしょうか?◎

今日は福岡は暑い。
ここ新天町マックもエアコンがぬるい。
僕はこれから博多に出る。
「かつ亭」の味が復活したかを検証しにね。(笑)
のんきだなあ。

・・・・・
MTのパーマリンクは不変なので
毎度のように追加記事。(2時間経過)
14時を過ぎてたかもね、店入りしたのは。
誰もいなくてゆったりとテーブル席で食す。
ご主人はいなくて女の方がやっていた。
ちょっといやな予感がした。
・・・が、ロースカツが運ばれてきた瞬間、確信。
そう。ジューシーで味はバッチリだった。
やはり前回だけが変だったのか。
口蹄疫の最中だったからなあ。
これでまた「かつ亭」ができますな。

ベイコンのトリプティク

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ベイコンの数あるトリプティクのうち
これはなかでも衝迫的だろう。
三幅対のセンター部である。
キリスト教の伝統都的なトリプティクとのあまりもの断絶に
驚くとおもいます。
しかも家畜の解体=逆さ吊りです。



ベイコンその人は「否定」し、
「うそぶいて」もいたらしいが、
中央にはこのお方らしい刷り込みがあるのに気付きますか?



字義どおりの「襞」だなあ。
これはセンター部だけど
トリプティクの左右両側にも強力な磁場がある。
まずはこの絵が
あなたの何かに触れるなら、他も鋭意あたってみてください。

その過程でベイコンならではの「倫理」にゆきあたるでしょう。
「倫理」とはかくもしたたかな力なのです。

記号と事件

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僕は20代の半ばに子供たちに対して
きみたち、「光の束」という言葉から何をイメージする?
と発問したことがあった。

一方『記号と事件』の中では
「汚名に塗れた人とは光の束と音響の波動に
とらわれた微粒子のことなのです」とドゥルーズはいっている。
(汚名に塗れた人、とはフーコーの概念)

翻訳ではあるが同じ「光の束」というターム。
ふしぎだ。

さてこの『記号と事件』。河出文庫に生成(!)した。
さっそく買わなきゃね。
1冊だからバッグに入れて旅先で読める。
何度読んでもどこから読んでもオーケーだ。
ドゥルーズが今次々に文庫化されている。ブームなのか。
『シネマ』の翻訳あたりから新しい火がついたのかな。
そんな気がする。
いずれにせよ、歓迎だ。



"Actualité des arts plastiques" でBaconのポジを入手した。
ルーペにレンズを真上から。

ジュンク堂ではマイケル・ペピアットの
「フランシス・ベイコン」を読みふけった。
4階の美術書書架から持ち出して2階のカウンタ。



もう一冊、フィリップ・ソレルスの
『フランシス・ベイコンのパッション』(三元社)

今日はマクドナルドの泥水のような冷コーを
2杯やりました。エアコンはギンギンだった。
急ぎ足で涼しくなった一日。



にらチャンポン=福新樓でのアソビ。
(at the Shintenchō McDonald's.)
NPG= National Portrait Galleryに
Francis Goodmanのポートレイト作品がある。
(検索にて)

先の「みずゑ」ベイコンの別ショットがあった。
ぜひサムネールを拡大されたし。



出で立ちが同じだ。
ベイコンのおとぼけ顔(?)がいいなあ。独特。
1972年とあるから「みずゑ」と同年だ。
ベイコン63歳か?
いまの僕くらいだ。最盛期?円熟期?。
(at the Shintenchō McDonald's.)

フランシス・ベイコン

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ベイコンについては『磔刑』を知るのみだ。
(イェルク・ツィンマーマン 五十嵐訳 三元社 2006年)
それだけでも強度は十分だけど。
いまあちらこちらでベイコンについて精査中なんです、実は。
明日はジュンク堂で時間をかけてやる予定。



この絵は、「みずゑ」のNO.810 1972年 の見開き。
(これはネットにもないと思うので)
ベイコン知らない方のために。
この絵だけで、あなたの潜在イマージュに
何かが顕現しますか?
何かが滲み出てきますか?

ドゥルーズには
『感覚の論理~画家フランシス・ベーコン論』がある。
が、ベイコンに限らず、スピノザ、カフカ、フーコーを
ドゥルーズの著作にみたいと考える余裕がない。
ドゥルーズ本人のことで手にあまる。
そのうちにね。読みましょう。

72年の『みずゑ』のものは
フランシス・グッドマンという写真家によって
撮影されている。
これは僕のラインだけど、
おのおのがいわば秘儀をもって何かに接近してゆく。
概念化はそのようにして始められる場合がある。
ポートレートのモデルとしてのベイコンに何か
!と感じる。
他のモデルには感じられない何か、だ。
①全身である。
②表情は不自然を装ったふうである。
(彼の意図だとおもう)
③ポートレイトが何たるかを撮影者以上に知っている。
④全体に「いかがわしい」ムードである。

記号と事件

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心象風景は私たちの中にあるのではない。
イメージというものは普通考えられているように
私たちの中にあるのではない。
そうではなくて
私たちが心象風景の中にいる。
私たちがイメージの中にいるのだ。
ほんの少しおもいを凝らせば
誰もがそれに思い至るはずだ。

BAR27'sで赤面したのは
「フリック」のイマージュの中にいた自分が
過剰に「現実」であったからだ。
前日にすでにバーのフロントを撮影していながらも
まったく気づかなかったのも同じ理由だ。
ドアを開けるまでのシーンと
そのあと展開する内部シーンは別物だ、などとは
考えてもみなかった。

通りの向こうからやってきて車は左折する・・・
空き地の一番奥にそのバーはある。
そんな固着したイメージの中に僕がいて
僕の推理も判断もその心象風景の中にあった。
マスターから伺ってなるほどそれはアリだと了解した。
マスターによるトリックの解説は接線だ。補助線だ。
その「線」はベクトルのように
あきらかな力や方向があるわけではないかもしれない。
しかし何かを表象する線であったわけだ。

ドゥルーズならそれを「美しい線」と言うだろうか。

「ある種のイマージュが内部をもち、その内側から知覚される。
それが主体なのです」(記号と事件)



村田刑事も内側から知覚していた。
かくしてシネマ「フリック」にはドゥルーズとの親和性がある。

BAR27's 苫小牧 vol.2

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「私とはわたしの記憶に過ぎない」
(ジョン・バース『酔いどれ草の仲買人』野崎孝訳)
僕は30歳だった。
フランスでは実存主義は終焉を迎えようとしていた。
まだ浅田彰もドゥルーズもなく、「私とは?」を抱えたまま
悶絶しそうな日々だった。

苫小牧を訪ねたとき、バースの「記憶」を思い出した。
BAR27'sのカウンタで妙に赤面する自分を感じた。
僕は「記憶」を再現前化し「私」を回復しようと目論んでるのか?
少し気恥ずかしい自意識がにじむ。
今でこそ僕は『酔いどれ』のフレーズなり赤面が
僕の「出来事」全体にかかわる感情だと
知ることができはする。

ブログ「表象」は再領土化かもしれぬし、
失地回復(いったい何の?)かもしれぬ。
たとえば喪失のルサンチマンであったりもしよう。
旅全体が喪の作業といえなくもない。
いかん。このままでは「精神分析」にいっちまう。
・・・・・
まあ、2重化を犯しつつ記すことにする。



上の絵はBAR27'sを訪ねた翌朝6時。(店名はボカシてます)
村田刑事が入ったバーだ。
後でコマをみて気付いたが、
BAR27'sのマスターに案内される前に一度来ている。
不可思議だ。すでに導かれていたのだ。
下の絵。ドアをあければ伸子(大塚寧々)が立っている。



コマのシークエンスをみると空き地に反対側から入って
お店のプレート、空き地のヤカンやらを数十カット撮影している。
このお店の正面は妙に水平がとりにくい。
建物自体か工事に歪みがあるようだ。





午前9時半もう一度くる。(3度目)
バー側からみた空き地だ。緋色の丸が入り口。
黄色は村田刑事が倒れるあたりだ。

さて王子の煙突です。
「フリック」では煙突は重要なメタファだと僕は思ってる。
(それはまたあとで)
以前のコマとは違うけど上下黒枠=スクリーン風に処理。
(横800の拡大画像あり)

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