ドゥルーズ: 2011年8月 Archives

存在の一義性

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「存在の一義性」がドゥルーズの生の哲学の特徴
であるとはよく言われる。
それがスピノザから来たものであることもまた
通説となっている、と思う。
『スピノザ』(鈴木訳)の第4章「エチカ」主要概念集の
以下のような箇所はそれをよく示している。
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スピノザ説の独自性はどこにあるのだろう。
スピノザ自身のものではない心身並行論ということばが、
にもかかわらず彼にこそ厳密にあてはまるのは
どうしてなのだろう。

それは、スピノザにおいては、
身体と精神、身体的諸現象と精神的諸現象のあいだには、
ただたんに「秩序」の同一性
(〔両者の生起の秩序・過程の〕同型性[isomorphie])
があるだけではないからだ。
両系列のあいだには、さらに
〔それぞれの系列の現象の〕「連結」の同一性
(平等性[isonomie]ないし等価性[equivalence])がある。
いいかえれば延長と思惟、延長において起こることと
思惟において起こることとは位格的にも対等であり、
原理上の対等性をもつ。

いっさいの卓越性や超越性、
多義性に対するスピノザの批判によって、
この二つの属性は一方が他より優位に立つこともなければ、
一方が特に創造者たる神のものとされ、
他方が被造物やその不完全性と結びつけられることもない。
それゆえ身体の系列と精神の系列とは、
ただたんに同一の秩序をもつだけでなく、
対等の原理のもとに同一の連関をもって生起するのである。

最後にもうひとつ、両系列のあいだには、
さらに存在の同一性(isologie)がある。
同じひとつのもの、同じひとつの様態的変様が、
思惟属性においては精神という様態をとって、
延長属性においては身体という様態をとって
産み出されるのである。

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ここでいう延長にもさまざまな属性があり各属性には各様態が、
同様に思惟にもさまざまな属性があり各属性には各様態が、
つらなっている。それらの離接が
人の現働的なふるまいの中核となる。

そのようにふるまう存在をここに再現前化して示す
表象は可能だろうか?
それはちょっと無理でしょう。
ところで、
一般的な言いをすれば、厳密に規定せずとも
私たちはいとも容易に「同一性」を認め、
「再現前化」を果たしうる。
乱暴で突飛もない話だが、
還暦過ぎて中学校の同窓会に行ってごらんなさい。
厳密性は求められない。アルバムの中のこの子が、
今、この人なんだと疑うことなく同定できる。
ベルクソンを呼ばずとも済むことだし、
間主観性、オートポイエーシスで説明はつく。
日常はむしろ、擬似的であれ「同一性」を措定して収斂する。
おのずから回収へと向かう。

しかし本当にそうなのか?
(本当にこの子がこの人なのだろうか?)
(本当に回収されているのか?)
そこがうまく説明された、とは思えないのだ。

「一義性」をいいながらも、さらに属性・様態があり、
しからば、それらにもある一義性と、どう関係するのか?
うんぬんかんぬん。うーむ。収まりがつかない。
よってなお「概念の創造」=哲学が必要なのだろう。
諸氏や如何?

スピノザ 自己の構成

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ドゥルーズのスピノザへの入れ込みは相当なものだ。
ニーチェ、カフカ、さらにはフーコー、思えば彼らの死は、
みな「普通の死」(老衰とかの)とは差異をもつ死だ。
そんなフィギュアの肩を持つのがドゥルーズなのだ。
さて、パセアルセ、オートポイエーシス、思考イメージ、
これらは「外在的」とはいいがたい。
外部から到来するものがあるが、
「内在」とのアレンジメントで構成されるものだろう。
だが、「自己構成」とはいったいなんだろう?
アガンベンの『絶対的内在』にことは詳しく説かれているようにも
思える。だがここはアガンベンの元にもなるスピノザを
ドゥルーズを介してみてみよう。ただし以下のテキストには
スピノザの『エチカ』そのものの引用があり、
しかも境界が不分明であるゆえ、諸氏は『エチカ』それをも
索引する必要があることを念のため申し添えます。
ドゥルーズが特異の「概念」を用いず、こんなふうに
哲学を語る。もっともそれは『エチカ』に負う、と僕は思う。
以下はドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』より。
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 ところがアダムは原因について無知なために、
神はただたんにその木の実を摂取すればどういう結果になるかを
彼に啓示しているにすぎないのに、
神が道徳的になにかを禁じているものと思いこんでしまうのだ。
スピノザが何度もくりかえしこれを例としてあげるのは、
一般に私たちが(悪)〔悪しきこと〕としてとらえている現象は、
病いや死も含めて、すべてがこのタイプの現象、
いいかえれば悪しき出会い、一種の消化不良、食あたり、
中毒であり、つまりは構成関係の分解にほかならないからである。

 ともあれ〔たとえ身体と毒が結合するような場合であっても〕
つねにそこには、全自然の永遠の法則に従い、
それぞれの秩序に応じて複合・合一をとげる各個の
構成関係のすがたがある。そこには(善)も〈悪)もない。
〔場合に応じた個々の具体的な〕 いい・わるいがあるだけだ。
「善悪のかなたに〔・・・〕、とはいってもそれは(いい)
(わるい)のかなたにということではない」。
(いい)とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の
合一をみて、その力能の一部もしくは全部が
私たち自身の力能を増大させるような、
たとえばある食物〔糧となるもの〕と出会う場合のことである。
私たちにとって(わるい)とは、
ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、
その部分と結合はしても私たち自身の本質に対応するそれとは
別の構成関係のもとにはいっていってしまうような、
たとえば血液の組織を破壊する毒と出会う場合のことである。
したがっていい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの、
合わないものという客体的な、
しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。
また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、
当の人間自身の生の二つのタイプ、二つのありようを
形容する主体的・様態的な意味ももつようになる。
いい(自由である、思慮分別がある、強さをもつ)といわれるのは、
自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と
合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な
他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、
自己の力能を増大させようとする人間だろう。
(よさ)とは活力、力能の問題であり、
各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だから
である。
わるい(隷従している、弱い、分別がない)といわれるのは、
ただ行き当たりばったりに出会いを生き、
その結果を受けとめるばかりで、
それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、
嘆いたりうらんだりしている人間だろう。
いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、
相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかも
おかまいなしに、ただやみくもに出会いをかさねていては、
どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことが
できるだろうか。
どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、
自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、
自身の毒素や害毒をまき散らして
その輪を広げずにいられるだろうか。
ひとはもう自分でも自分が
わからなくなってしまうことさえあるのである。

 かくて〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、
〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる。
道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして
生のありようをとらえるのに対して、
これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、
それをタイプとしてとらえる類型理解の方法である。
道徳とは神の裁き〔判断〕であり、
〈審判〉の体制にほかならないが、
〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。
価値の対立(道徳的善悪) に、生のありようそれ自体の質的な差異
(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。
こうした道徳的価値の錯覚は、意識の錯覚と軌を一にしている。
そもそも意識は無知であり、
原因や法則はもちろん各個の構成関係や
その合一・形成についても何ひとつ知らず、
ただその結果を待つこと、
結果を手にすることに甘んじているために、
まるで自然というものがわかっていない。
ところが、理解していなければ、
それだけで簡単にものごとは道徳と化す。
法則にしても、それを私たちが理解していなければ
たちまち道徳的な「……すべし」というかたちをとって
現れてくることは明白である。
三数法(比例関係a:b=c:dの三つの数値から
第四項をd=bXc÷aで求める計算法)も、
その法則を理解していなければ、
私たちはただたんにそれを適用し、義務として遵守するにすぎず、
そうすべきだからするというだけになってしまう。
アダムの場合も、その間題の木の実と出会えば
自分の身体がどうなるかという構成関係の法則を
理解していないから、神のことばを
禁止命令として受けとるのである。
ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』 第2章 (鈴木雅大訳)

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出来事は効果なり

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ホテルでもらった新聞をみていたら、
仏教関係の広告記事に目がとまる。(8月4日:朝日)
松岡正剛、だ。
アンダーライン部に注目。

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現代の日本人は「有事」ということを大仰に捉えますが、
実は、有事は平時の中に埋め込まれているのです。
昔の人はよく、家の中にいても表が妙に騒がしいとか、
今日の風は変に生ぬるいとか、有事の前触れを
察知するような感性を備えていました。
今の人だと、賞味期限切れだから食べたら危ないとか、
マグニチュード3なら大したことないとか、
誰かのお墨付きやレベル設定がないと危険か安心かの
判断がつかない。そういうものが、自らの内に
仏がおわす感覚の喪失と相まって、この時代を
追いつめているのでしょうね。

-そこを打開する何かヒントがありますか。-

仏教は「安心立命」の一語に言い尽くされます。
安心と、自分の命がそこにあることは輩(ともがら)であり、
命あるところに仏はおわします。
その実感を取り戻すことです。そして「無常迅速」、
常ならざるものは有為転変が早いと心得る。
何が起きても、それはあり得ることなのだという
無常観を心に常備するのも大事でしょう。
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「有事」はすなわち「出来事」です。それは効果ともいえます。
よって原因や準-原因、潜在性やパラドックスに満ちています。
「あり得ることなのだ」は「運命愛」に通じます。
「概念」というものはかかる具合に「偏在」するものです。

出来事

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以下はドゥルーズの『意味の論理学』第21セリーの部分。
(小泉訳)
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すなわち、コメディアンは、絶えず先立つものと
絶えず立ち遅れるもの、絶えず希望するものと
絶えず回想するものを演ずるために、瞬間に留まるのである。
コメディアンが演ずるのは、決して人物ではなく、
出来事の要素が構成するテーマ (複雑なテーマあるいは意味)、
つまり、個体と人格の限界から実効的に解放されて
交流し合う特異性が構成するテーマである。
役者は、非人称的で前個体的な役割に自らを開くために、
常にまだ分割可能な瞬間へ、その人格性のすべてを
差し出してしまう。だから、常に役者は、
別の役を演ずる役を演ずる状態にあるわけである。
役と役者の関係は、未来と過去と、それらに対応する
アイオーンの線上の瞬間的な現在との関係と同じである。
したがって、役者は出来事を実現するのだが、
出来事が事物の深層で実現されるのとはまったく別の方式
によってである。あるいはむしろ、役者は、
この宇宙的で物理的な実現に対して、
別の特異な仕方で表面的な実現によって、
その分だけ明確で鋭利で純粋な実現によって、
裏地を張るのである。役者の実現は、
宇宙的で物理的な実現に境界を定めて、
そこから抽象的な線を引き出し、
出来事の輪郭と光輝だけを保存する。
自己自身の出来事のコメディアンになること、反-実現。
 というのは、物理的混合が正しいのは、
全体の水準、神の現在の円全体においてのことに
すぎないからである。しかし、各部分には、
多くの不正と恥辱があり、多くのカニバリズム的な
寄食の過程がある。そのために、
われわれに到来することに直面しての恐怖、
到来することに対するルサンチマンが呼び起こされる。
ユーモアは、選別の力と切り離せない。
到来すること(事故)の中で、
ユーモアは純粋な出来事を選別する。
食べることの中で、ユーモアは、話すことを選別する。
ブスケはユーモア-役者の特性を定めていた。
然るべき時にいつでも形跡を消去すること。
「人間と作品の中から、辛苦以前のその存在を立ち上げること」。
「ペスト、専制政治、最も酷い戦争は、
無のために支配していたのだという喜劇的な運を認めること」。
要するに、各事物について「無垢な持ち分」を解き放つこと、
言葉と意志すること、運命愛(Amor fati)
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第21セリー「出来事」である。ジョー・ブスケのこと、
そして唐突に(?)役者のはたらきが登場する。
第21セリーをどう受け止めるかは自由だ。
僕はほとんどレトリックとして読んでいる。
だから意味の厳しい詮索・対立は避けている。
ならばアンタには思想がない、と言われそうだが
そうですね、はい、というしかない。
エクリチュールとはいってもそこで「慰安」だけを
汲み取っているつもりではないのだが・・。
「運命愛」ってたやすいことではない。

元ヤンキースの伊良部が自死した。
たまたまTVをつけると伊良部の顔が電光掲示板にあった。
ナインが黙祷する。ジラルディ監督とジーターの姿が
クローズアップされた。
なんで?とでも言いたげにジーターが首を少しかしげた。
伊良部さんアンタね死んだりすると、みんなして試合前に
黙祷することになりますよ、てなぐあいに
前もって彼に耳打ちすることができたとすれば、
出来事はどのような特異点を導き出しただろう?
伊良部は自死を思いとどまっただろうか?

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