ドゥルーズ: 2012年4月 Archives

ヒト=物

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(NEX-7 VISO ELMAR 65mm/3.5)

NEX-7=ビゾ用レンズのテーブルフォト。
属性が分からなくなることにもなる。
もともと属性とその様態は
「これなに?」のトポグラフィックなものなのだ。
猫に僕はどのように見えてるのだろう?
そんな素朴な不思議の中に
ヒトの属性と様態の特異な連鎖を解するヒントが
あるのだろう、と考える。
少し思いを凝らせば、ビゾレンズでみた世界は
僕たちの様態とほとんど同じものだということに
思い至るかも知れない。もしかしたら、だが。

僕たちはまずは物体であり、最後も物体で閉じる。
閉じる?いや、焼失(消失)、かな。
卓上の物体がいつか雲散霧消するように
ちょうどそのように僕たちは消えてゆく。

ドゥルーズ 自己享楽

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(SONY NEX-7 Hektor 2,8cm/6,3 拡大画像あり:久留米)

self-enjoyment=自己享楽とドゥルーズが呼んだもの、
それについてはアガンベンが触れている。
(「人間と犬は除いて」現代思想 1996)

僕たちが手に入れたいと切に願うのは
「責務」を達成する充足感ではない。
花や牛すらも観想するのであれば、
どうして僕たちが観想しないでいられようか?
自らを観想し享楽することは
ヒトの第一の命題なのだ。
哲学をすることと食すこと、
哲学をすることとレンズをこねくりまわすこと、
それらは同じトポスで論じられねばなるまい。


(拡大画像あり)

「教会がある日常」とかいうコンテストの記事をみた。
朝日の主催だから手前味噌にはなる。
僕にとって「問題」なのは
それらにちっとも感応しないことだ。
以前からそうなのだ。
ドゥルーズの言う「知覚のドア」まで連れてってもらえない。
全日写連的、とでもいうかそのテの絵に僕は
少しも勃起しないのです。不感症なのです。(笑)

芸術作品は、とドゥルーズは言う。
『芸術作品は、或る感覚存在であり、他の何ものでもない。
すなわち、芸術作品は即自的に存在するということだ。』
(『哲学とは何か』財津理訳)

その絵に立ち上がるものを感じないいじょう、
絵はその場で立ち枯れる。壊死する。
被知覚態、加えて変様態としての僕の皮膚に
侵入して欲しい。悦びを知りたい。が、それはない。

デジカメの普及でだれもが容易にシャシンが撮れる。
それらをブログに、置き場に、twitterに、Flickrに・・と、
ふんだんに展示できる。とてもいい時代だ。

むろん、コンテストに入賞することはうれしいことだ。
「よかったね!」。賞賛、それは惜しまない。
だが私たちが望むのはやはり「知覚のドア」を
押し開く絵をものにすることだ。
ことほど左様に手に入るものではない、とも言える。
あるいはいまここの卓上にそれがある、とも言える。
諸氏や如何?

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