内在平面とは

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「内在平面」はドゥルーズの重要な概念です。
それがどのようなものかも論じられてもきた。
ドゥルーズ自身さまざまな場所で触れている。
ここでは『哲学とは何か』から抜粋する。

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思考するということは、
一般的な無差異〔いずれの側にも傾かないこと〕の状態を
引き起こす。それでもなお、思考することは
ひとつの危険な営みであると言っても間違いではない。
無差異の状態が止むのは、もろもろの危険が
明白になるときだけであるとさえ言えるのだが、
しかしそれらの危険は、しばしば隠れたままである。
ほとんど気づかれず、企てに内属しているからである。
ところで、内在平面は前-哲学的なものであり、
もとより概念によって作動するわけではない。
だからこそ、内在平面は、一種の手探り状態の実験を
折り込んでいるのであり、内在平面の描出は、
ほとんどおおっぴらにできない手段、
ほとんど適切でなく合理的でない手段に依拠して
いるのである。それは、夢、病的なプロセス、
秘教的な経験、酩酊あるいは過度といったレヴエルに
属する手段である。
ひとは、内在平面の上で、地平線に向かって走る。
そしてひとは、たとえ精神の目であっても、
自分の目を真っ赤にしてそこから戻る。
デカルトでさえも、おのれの夢をもっている。
思考すること、それはいつでも、
魔女の飛翔の線を追うことだ。
たとえば、猛り狂った無限運動と無限速度をそなえた、
ミショーの内在平面。
たいていの場合、そうした〔内在平面の描出の〕手段は、
結果のなかには現れないものである。
というのも、結果は、もっぱら結果そのものにおいて
かつ冷静に把握しなければならないものだからである。
しかしそのとき、「危険」は別の意味をもつ。
明白になった諸帰結ばかり問題にしているときにも、
純粋内在がオピニオンのなかに
或る本能的な強い拒絶を引き起こし、
創造された諸概念の本性が
さらにそうした拒絶を激化させるということだ。
それというのも、ひとは、思考するときには必ず、
他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、
或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、
それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させるからである。

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上記の箇所こそが適切な抜粋だとは思わないが
僕にはこんな言い回しが一番わかりやすいのだ。
なによりドゥルーズらしい表現だと気に入っている。
ちょっと乱暴かもしれないが、

1.内在平面は「概念」とは区別される。
2.内在平面は内在平面そのものの脱領土化へと向かう。
3.内在平面は摘出できない。

そのようなものと理解しているのです、僕は。
子どもたちが社会を震撼させる事件を起こしたときに
教育業界者さんの常套句となる「こころの闇」。
それこそは「内在平面」の諸問題だと思ってきました。
「こころ」といえばまだすむものを「こころの闇」という。
それがものごとを台無しにしている。
「闇」なんかではない。
だれにでもある「内在平面」の諸問題なのだ。
ドゥルーズは難解なことを言っているのではない。
「こころ」はあまりに手垢がつきすぎた概念だ。
新しく「内在平面」や「思考のイメージ」と言い表すことにより
私たちに現に今生きられている生の秘密を解き明かそうと
しているのです。
描出=摘出=表象できないplan(平面)について
実際のところ何も知ってはいないのではあるが。

庭にやってきたアサギマダラ。


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このページは、が2011年11月 8日 15:56に書いたブログ記事です。

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