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Results matching “ドゥルーズ” from 新地のドゥルーズ

競争と性 鴻巣友季子

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検索でこられた方、ここはシャシン(写真)サイトでもあるんです。書店で『文藝』秋季号を手にした折に背後から「こんにちわ」と店員に声をかけられた。爺はここを密かにしかも無断で取材に利用する。なので声をかけられると怯えてしまう。遠野遥を買うとフラグが立つ、そう考えてそそくさと退散した。その遠野遥を紹介する鴻巣友季子です。「競争と性」。拡大してお読みください。



記事全体に惹かれる。これはドゥルーズ、とりわけフーコーを読む感性、抒情とピタリ一致する。
もうひとつ。15-blade irisのcomponon1:4/35というレアなレンズで撮影してます。三脚使用。精細に撮れる。それはまたいつか。

当サイト紹介のレンズを使ってみたい、譲って欲しいと思われる方は、



までメールください。工房主と相談してお譲りします。
(メールアドレスは画像です、コピペできません)
長文です。
昨日の記事(朝日_2021年2月20日)。朝日さんスキャンご容赦ください。



県立図書館をサーチすると、ある。さすがだ。まだ誰も借りてない。すぐに出かけて借り受ける。哲学棚に配架される前の新着棚から。
11時ジャスト。土曜日。すでに閲覧席はひとつおきに満杯。高校生に席巻される県立図書館。

フーコー検索でここに来られた方、ここの主(ぬし)はシャシンをもたしなむ男で、今朝は(今朝も)ボツ記事だと思います。すまんこってす。
さて。日頃よりフーコーを読んでる向きには上の記事はすでに耳になじんだことどもです。やっと出ました、というわけです。原型フーコー、翻訳者、評者、記事を読む我、それらを一本貫いて手渡される現象のこれは何というんでしょう。
ドゥルーズもそうですが、僕にとってフーコーはかけがえのない思想家でした。そう思ってしまう気配があるのです。フーコーが生きた年月を越えたあたりからは当の自分も変容していることに、あとになって気づきます。こんなことを言っちゃあなんですが、フーコーは実に愛おしい男です。やってることが真摯すぎて可愛らしい。(と、こんなことをぬかすのは70過ぎの爺の横着な特権です、これまたすまんこってす)

僕はこの日はα6300に知人工房作のベアなM42改=Planar 1,8/50(1,8です)を持って出ました。図書館現場でセルフタイマやりました。リモコンもなしに思い付きです。レンズの首が垂れるので小銭入れを当ててもたげる。Mモード1/125 ISO2000で一発で決めました。ワンショットで決められたら気持ち良くなりました(笑)

α6300 E1.8/35mm

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当地に県立図書館が移転するということが分かった時点から、それが実現した暁には俺の晩年は変わるな、と予感した。w
まだひと月にも満たないけれど実際それ以上の「効果」を感じている。なにしろ歩いて15分の場所だ。村上春樹の若き日に神宮球場がすぐそばにあったのと同じ距離です。図書館はドゥルーズのいう「効果」そのものだと思っている。そのうち色も褪せてくるだろう。僕としてはできるだけその褪色を引き延ばしたいとは思うがそうはいかないのが人生ってものだろう。
老人のささやかな愉しみなので、せめて検索にヒットしないようにと図書館の固有名は使わぬことにした。ミューズの取扱説明書は自分の手で作るしかない。
(上)α6300とCarlZeissJenaのFlektogon 4/20で撮影。(下)α7sと同じレンズ。





江川隆男と堀千晶の対談がいい。そこに出るラプジャード。「常軌を逸脱する運動」の線で掘り下げる(広げる)ドゥルーズ。出来事、概念、内在、欲望する諸機械・・もいいけど「常軌を逸脱する」てのはもっといいかも。リゾームを全面的に受け入れる生だもんね。「ミライon」での最初の「当たり」です。

6300でレンズがくっつきそうになるまで寄る。対象はVARIOシャッター組み込みの正体不詳レンズ。ずっとeBayで探索し続けている。





ESAOG 1:2 f=5cmでのVARIO・・。

エルマー3.5cm F3.5。α6300。こんなレンズも持っていたのだ。忘れていた。w



SILKYPIXのモノクロ2現像。Photoshopでレベル補正のみ。室内自然光。
キーボードの横。M42アダプタ17-31mmに取りつけた工房作Zeiss-Opton Biogon 1:2.8 f=35mm。これでミライon(当地の図書館)借受のカフカ。



これらはE1.8/35。





ドゥルーズが読めるのがありがたい。



下のは江川・堀対談に出てくるラプジャード。おいら向き。今併読中。





大澤真幸「古典百名山」=ドゥルーズ「意味の論理学」=朝日。
α7sとフジノン55㎜ F2.2。



読みづらい人は、

ここです。

これもフジノン。

加速主義は現実か

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これは「加速」されつつある政治や文化のあらわれなのか?
(いずれも朝日6月3日の第1面)





「現代思想6月号」の千葉雅也+仲山ひふみ+S・ブロイ+河南瑠莉の対談をとりあえず読んでみた。で、事後の感想としては意外にも悪くはなかった。
若い頭脳の発想に満ちている。それでも未来に構える老人には「教則本」としての活用がある。癒しは微塵もない(そう言ってよければ)。以下は対談での千葉雅也の言。

「ドゥルーズ+ガタリによれば、資本主義は常にその暴走を抑えるための公理系とペアで動きますが、まさにその近代的な人間の理念に基づくところの、弱者を救済したり、富を再分配したりといったレギュレーターが、公理系として資本主義の中で作動しています。ですから今日、近代の人間的社価値をもう一度問い直すという動きは、資本主義の公理系を外す動きとしても解釈できることになりますね」

公理系を外す、ということになれば「加速主義」の結論は例示的にはこうなります。
8050問題の関連で就職氷河期の世代を支える施策をとるなどのニュースに触れても、それを救済策だと受け止めてはならない。構造的な問題には手を付けません、とりあえずパッチを当てます。なので、あとはあなた自身の問題だと受け止めてください、ということになるわけです。これは「自己責任」と同じですね。世界的なネオリベは似たようなものだとおもう。

メルトダウン、シンギュラリティ、ポストヒューマニズム、それが現実にここにあるわけです。これはホントに辛く重たい現実です。SNSの方は脱構築が可能かもしれない、では一方のベネズエラはどうか?うーん。これはちょっと怖い。
記事はPC拡大画像で読めます。(W=1872pix)
(Canon 5Dmk2 EF24-70mm)



朝日。夏の集中講座「ミライ×ヒト」最終回。村田沙耶香。

①記事のなか、女性のしんどさ 原動力、の「性欲の発散が必ずしもセックスじゃなくていい」以降の言説に注目。

②参照記事
千葉雅也=「消滅世界」の評(2016年)

③現在僕の村田沙耶香体験は、『コンビニ人間』『しろいろの街の、その骨の体温』『殺人出産』にとどまる。
若い村田沙耶香の文学はフーコーの『性の歴史』的系列とは異なる。むしろ現代の医療=遺伝子革命と生殖、そして来るべき人間(民衆)にかかわることのように思う。すなわちこれはドゥルーズに連なる現代の「思想」です。興味をもって見守っている。
『ドゥルーズ/ガタリの現在』を手にして10年が過ぎる。
爺になった僕は最近ほぼ全域を読み直している。感慨を新しくされる場面がある。
今日は三脇康生を読む。





ドゥルーズが制度(institution)という課題からガタリと結んだ、などは10年前目に留めていない。明日にも医療システムのなかにぶち込まれるやも知れぬトシになって三脇論攷が浸透してくる。アカデミックな受け止めではなくほとんど文学的なこころの流れなのだ。(だから「新地のドゥルーズ」なんです。w)
ジャン・ウリについてのページが胸をうつ。

爺なる僕は読書もだけどシャシンも同じくらいやる。
20年くらい前に流行ったオリンパスミュー2というコンパクトカメラ。知人の工房でレンズを取り出し、デジタルカメラ用に「変容」させたレンズで撮っています。頂き物です。
スキャナでの「自炊」を避け、シャシンゲージュツで展開してます。w
同じカメラは以前も工房で改変してもらった。処分して手元にはないが、今回は取り付けマウントが違う。諸元は同じでも明らかに性能が違う。

(ズマリット40mm。ライカミニルックス抽出)

シリーズ2日目。主体が、生成のただなかにいる。AI、ビッグデータ、VRとともに生きている(生かされている)。いまだからこそ切実に感じる。ここにもドゥルーズは生きられている。フクシマを経験し、温暖化=異常気象を肌で知るニッポン人にとって論攷に違和感はない。(ちなみにシリーズ前回は、ベーシックインカム=月10万円を国民に支給するべし、というもの。これにも僕は異論はない)

ニンゲンはもっとニンゲンらしいことに専念する。
外国人に3K(死語か)を任すのではなくAIロボットにしていただきましょう。高額医療器械ではなく、身近で必要なマシンをたくさん製作・頒布して欲しい。そんな時代を待望します。
たとえば作者自身が、「土の中の彼女の小さな犬」(短編集『中国行きのスロウ・ボート』所収)とか、『方法を読む』やらを読んで「たのしむ」というようなことがあるだろうか?
われわれにはそれがある。その手が残されている。フーコーやドゥルーズを寝物語に読むように、それら80年代の著作にあたることができる。読者=ROM専の身に降臨する特権だ。
というのも、こないだ手にした

文学界7月号

ここの太字の短編が三者三様つまらなかった。辛気臭いのだ。(すいません)
「老惨」は死臭ぷんぷん。「三つの・・」も実は同様だ。「胡蝶・・」もなんだかなあ。(ごめんなさい)

どんな場合でも当たりはずれは、ある。残されている「その手」を使って愉しめるものをかき集めることにしよう。


「旅」とは何か、それは

ドゥルーズのこれにつきる。

ぼくの「旅」については、関所で「足止め」されたまま現在に至る。それも3年を過ぎた。
最大の理由は花王の「リセッシュ」がほとんどのホテルに配備され、ルームにミストされているから、呼吸ができない。これにつきる。

しかしそれだけではない。記事にあるようなシーンを僕も目撃してきた、からだ。こんな京都でも行ってみたいとぼくは思わない。
「老齢」という障壁もあり、ここが潮時と、ぼくは「旅」をやめることにした。(ま、わからないけど)

空前の「観光旅行」ブームには現況インターネットの影響はあるだろう。
彼らにはSightseeing以外にすることはないのだろうか? こんな記事に触れるたびに気分が滅入る。
以下は『現代思想』3月臨時増刊号「知のトップランナー50人の美しいセオリー」から。
茂木健一郎の「美しいセオリーはない。」の一部。

 時間に関する現存のセオリーのすべては、時間に関する私たちの最も根本的な疑問に答えるものではない。
私は子どもの頃よく煤を追いかけていた。少年の日、梢から漏れてくる太陽の日差しの中に、アオスジアゲハやゴマラダチョウを見上げた、あの時間はどこにいってしまったのか。
 今この文章を書いているこの瞬間もなお、時間が不可逆に流れていってしまうという事実を、どのように考えるべきなのか。私たちの一人ひとりが、それぞれの体験という私秘的な領域に閉じ込められ、そこから逃れようもないこと、その個人的体験の中で、時間が一方向に流れていってしまうこと、その厳然たる事実の下では、すべての営為、たとえば、このようにして雑誌『現代思想』に「美しいセオリー」というテーマで文章を書いていることは、すべて茶番であり、究極的には意味がないこと、それでもなお、私たちは何かをしなければならないこと、だからこそ、私はこうして、編集部の注文に応じて「美しいセオリー」というテーマの文章を綴っていること、今この瞬間もなお地球上では、それぞれの私秘的な体験に閉じ込められて、何十億という人々が個々の時間の流れの中にあること、そのようなむき出しの現実に比べたら、どんなに「美しいセオリー」も、児戯に等しいと私には思えるのである。

うむ。脳科学者もこんなことを思うのです。
①まさに時間論ですね。とっさにドゥルーズの発明品であるかの「アイオーン」を想起しました。「アイオーン」の線のただなかにいて茂木健一郎センセイは七転八倒している。(と言ってはいけません。w)
②言外にパラレルワールドを感得する。時間にもいくつかの系列(セリー)があるのではないかというのはファンタジーの世界だが楽しい。
③芭蕉の「隣は何をする人ぞ」を考えてみた。物理学で説明されても隣の人にはその人なりの時間がある。隣を想起する自分の時間も同じ時空内のいまここにある。一方であなたとわたしの(皆それぞれの)「アイオーン」をもからめとる現象がある(きっとありそうだ)。
時間はない、と言ったほうがよほどすっきりする(ような気もする)。時間のことを考えるとどうにも混乱する。

記事とは関係ない絵をひとつ。知人に頂戴したM42改造のNIKKOR28mm。ストリップ状。



左がニッコール28mm、右のはズミクロン-R50mmです。コンパクト。

NEOKINO

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SONYα7sとNEOKINO。
すべては効果だ、といったのはドゥルーズです。どこで?と言われてもちょっと。w
シャシン行為も効果です。差異と反復それ自体が効果になります。爺はせっせと通い、粘着する。
何の益体もないことでもそこに効果が存在する、というわけです。



でも上の絵はシャシン行為の効果というよりこのようなディスプレー行為の効果が先行しますね。アタマが下がる。NEOKINOはそれに気持ちよく同調する。







哲学とは何か

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長文注意。
ドゥルーズを「出来事」の哲学者、といったのは誰であったか。事象をまさに「出来事」ないしは「事件」として感じ取ること、それは僕にもさいさいある。あきらかにドゥルーズを知る以前にはそのような感慨はなかった。既存の概念の配置(布置)を変更する。そこに新味の視界がひらける。そこに新たなプラトーがみえてくる。それが「生成」なのだろう。きっかけは特異点なのか、襞に潜む電子なのか、シナプスを飛び交う言い表せないものなのか・・。

インダスター。これはいわゆるゼニット型のレンズだと思う。バリエーションは豊富。60年代なのだそうだ。知人の手になる改造をじっくりみていただこう。前面の前玉。シリアルのそばに突き出たピン。これが絞りを制御。



裏面の後玉です。取り付けのM42リングには、ASAHI PENTAX JAPAN の刻印があります。



側面。パンケーキです。



ドゥルーズの「アジャンスマン」はまさに組み合わせのことです。偶然で、潜勢的なものが支配する。手近のパーツからこれかな、とアレンジするがしかしそこには「偶然」「記憶」「経験」とイマージュがひしめいている。製作過程にはすべからく「差異」がある。彼の作り出す個物には「再生産」がない。使用者には「同一性」から解放された新規の驚きが待ち受けている。

僕がこんなことを書くと他者は、「もちあげている」と思うかもしれない。そうではないことを知っているのは僕なのだからその誤解を解くすべはない。実際、当の製作者からして(知人ではあるが)、布置の変更による「効果」を十全に賞味しないうちに手放すものと思われる(ごめんなさい)。製作されたレンズの「効果」はもっぱらそれを使用した者に発生するから・・。
(製作者は使用者と異なる場で、使用者と異なる「効果」を獲得している、ということは言うまでもない)

諸氏よ。ここに「哲学」が暗躍するのです。
「哲学」は身体と精神を駆使して生きる営みです。哲学史を読み解くことではありません。とりわけ自己の生の最終局面に近づくと強く感ぜられるのです。
ドゥルージアンのあなたならお分かりでしょう、僕がファインダに見出すものはむろん「効果」です。それはあの「結晶イメージ」につらなる身体と精神の様態そのものです。現働と潜在に翻弄されるがごとき「効果」です。ここブログ言表には宿りきれない「経験」です。
「エチカ」でスピノザは、わたしたちは身体と精神のことについて何も知らない、と言ってます。そう。知らない。何か「出来事」のなかで飛び去るかのように過ぎてゆく身体と精神、そこに生息するしかない。

作例をひとつ。解放での撮影。テッサー型の特徴があるかな。

長崎県立図書館

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キター! というべきですか。w
待望、鶴首の図書館。2年後だ。九州一というからすごい。僕には歩いていける距離。(拡大画像で読めます)

ドゥルーズのいうごとく「ノマド」は本来動かない。遊牧民族は動かない(旅立ちを拒む)。旅はすべからくノマド的な旅だ、とある時期から強く思うようになった。療養・静養は別としていわゆるSightseeing的旅はしない。というより僕は観光旅行をしたことがない。もともと無縁なのだ。ドゥルーズは誰よりもフーコーを理解したが、こと「旅」に関しては意見を異にした。よって来るべき旅は図書館旅行ということになる。図書館ツーリストになる。いいじゃないですかあ、ねえ。僕の居住する街は、し尿処理臭をまき散らすよろしくない市政だが、この来るべき希望だけは頂戴いたします。民営図書館とか引き抜き館長とかいろいろ行政の「愚行」がある。当県立図書館の館長ポストは某高校の勇退校長の指定席になっていたけど今でも「愚行」は継続しているのだろうか。w そんな胸糞悪い一切合切に目をそむけ首を長くして待つことにしよう。
いつの日か、ひたすら図書館にて脳内旅行をする。おおそれまで生き延びようぞ。

正体不明の35mm映画用レンズについては、

ここに記述しています。

大体上の絵のように甘いピントでしたが、これにNEOKINO用に知人が作った絞り効果用のリングを挟むと、下の絵のように俄然生き生きしてくるではないか。うーむ。





リングはレンズのヘッドをこのように外します。



深夜、トイレに行ってそのあと眠れず、あれこれテーブルフォトをしていて気づいたのです。
うれしいですね。快挙ですよ。はい。

午前中さっそく外を。最後の菖蒲はα7Rですが、あとはα7sです。









さて、諸氏よ。
かくて生きることの眼目は、「夢見心地」を得ることにある。それに尽きる。
いい人生はだから「効果」なのだが、僕はそれをドゥルーズから学んだ、と思っている。

新宿ゴールデン街の火事

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2016年4月12日、たまたま新宿ゴールデン街での火災のテレビ中継をみる。
そのときもなんとなく気にはなったが、今朝の新聞でうーむ、やっぱり。(拡大画像あり)



朝日の記者が撮影したこの位置は僕の「定点」です。
南海、という看板が右上にみえますね。なみ、と読みます。
そう、写真家深瀬昌久が階段で転倒したバーです。

同じ場所から撮影した二年前の絵が

ここにあります。

拡大画像でごらんになってください。大柄の女性がぬっと立っているあたりが焼けたようですね。
かつてこの界隈を幾度も撮影した。
宿泊ホテル=花王リセッシュの害、という事情があって、東京にはもう出れそうにない。これもまたいたしかたない。
過ぎゆくものは看過する。
懐かしさも瞬時のできごとなのだ。
ノマドとは移動しないこと、とドゥルーズも言っているではないか。
以下は「ポスト現代思想としての日本哲学」檜垣立哉+北野圭介の対談(現代思想1月号)中の部分。 

(檜垣)京都学派について内在的な話をすると、
西田の哲学のポイントは、「場所」論でもなければ「純粋経験」でもなく、「永遠の今」という問題だと考えています。
これは木村敏がよく書いていることでもあるのですが、「イントラ・フェストウム」、すなわち祭のなかを意味するような今の横溢、今の過剰のようなもので、分裂症的事態です。
永遠の今に対する西田の執着は大変なものがあります。時間的な今ということをあそこまで掘り下げ、永劫回帰に結びつけるという論点は、それこそドゥルーズがやったことですが、それは西田より三、四〇年後のことです。
そしてこの永遠の今という問題設定こそが、ヨーロッパが隠してきたものというか、ヨーロッパの近代が自由・平等・民主主義を掲げて広げてきた水平性を突き抜けてしまうような垂直性を持っています。

気になる箇所の多い対談だ。先日バスで福岡入りした際にもリュックに入れていった。
気になると完全に消化、ウンコになるまで読み返す。w
ラリュエルの「秘密」、吉本隆明の反時代的な60年代の記紀読み・・などもそうだ。
生きるということはそうやってずっと気になることを思いめぐらしながら、いまここに実存するということに相違ない。

これはバスの日、大名で撮った壁面。街にはこんなのがけっこうある。でもこれは初見。(だとおもう)
7sとNEOKINO。もう一枚は「のだ」のカップ。IDCのモノクロ現像。



原節子死す。(実際は9月)
昨日のニュースで、僕のブログに、
UTF-8の「%e5%8e%9f%e7%af%80%e5%ad%90」(原節子)で検索が183件あった。
5年前の、ドゥルーズ的成瀬巳喜男という記事には、成瀬巳喜男の「娘・妻・母」(原節子40歳)の動画がある。

ドゥルーズ的成瀬巳喜男

さて、今朝の朝日。
蓮實重彦のコラムがある。「成瀬における原節子は小津作品に劣らず魅力的・・・」
僕の記事の内容も同じことです。

蓮實コラムは以下のサムネールからPDFで出ます。
(朝日さん、ごめんなさい)

ドゥルーズのDVD『アベセデール』を「読了」!。
スーパーインポーズを追尾するのだから・・。
DVD3枚で7-8時間はある。これを一気に見た、という強者もアマゾンのレビューにいる。
が、当方は10日を費やした。

「出会い」(待ち伏せ)、「遅れてくるもの」とか、いくつか初めて聞くことばがある。
しかしそれはきわめてわかりやすい。
「知覚素」もそうだ。ドゥルーズの発話にはこちらがそれとなく経験していることがらが多い。
それはあらかじめ僕らが「知覚」しているからだと思う。
だってそうだろう。後から気づくということの中には、すでにそれを知っていることが込められている。
ドゥルーズから指摘されずとも僕らはそれを「知っている」。
痛快ドゥルーズ探偵の発話は、特に日本人には理解できる。徒手空拳にして、僕らはドゥルーズの哲学の外に出ているのかもしれません。

ともかく『アベセデール』はなかなかのモノですね。
國分功一郎の監修記事もよくできている。國分=千葉雅也対談もふむふむと読める。
なかで、ドゥルーズ入門としてもいい、と千葉はいうが、それはわからない。
このDVDからドゥルーズに入る、というのはいても少数者だと思うが。

今年の「よきおとずれ」であった。うむ。
おれの元気よやって来い、はよはよ。w



読了記念撮影。α7sとplanar1.4/50mm HFT。
1-2段絞り。前後はほぼ均等=なだらかにぼける。
技術の深淵(=深遠)に触れたような気がするじゃないか。いいレンズだ。
ドゥルーズの「アベセデール」到着。開封して記念撮影。w
α7sにアンジェニューの35-140mm TYPE LA2。60mm=F5.6で撮影。IDC現像。補正なし。
7sでこれを使うのははじめてかなあ?7Rとは雰囲気に差異が。



タイミングよくアサギマダラが飛来。
風吹く中でうまく撮れたなあ・・腕がいいなあ。w



さきほど現物をほんの少し確認したが、(動物=A,animal)
「アベセデール」は、youtubeで見れるそれとは別物。
映像は同じだがスーパー(日本語字幕)は違う。(当たり前か)
紫煙をくゆらせて問うクレール・パルネの美貌が光る。
國分功一郎の解説もある。

planar 50mm 1.4 HFT

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長文記事にご容赦を。



 7sとPlanar 50mm1.4 HFTの取り付け部。
意匠も奇抜な(!w)抽出・改造レンズ。
しかし性能にはなんの欠落もありません。
それどころか世界にひとつのアレンジメントです。
絞り調整は以下のように無段階。たぶんオリジナルとは別物だと思う。
①Pixco C-NEX(M42改造)
②PENTAX HELICOID EXTENSION TUBE
③Planar 1.4/50 HFT
④SONY 49mm_Cap



 ドゥルーズのいう「差異」はここにも。
差異が発生する、そうすると人は差異を生きる=反復する。
シャシン行為の情動とそれに続く様態は、かくて生きる哲学となる。
とすると、製作者の知人もまた、真正な「哲学の人」でないはずがない。

あはは。また大見えを切ってしまった。どすこい。

寫眞機商コウジヤさんの記事によれば、元は金属鏡胴のドイツ製です。

はい。作例。(拡大画像でどうぞ)







ええなあ。感じる。
IDC現像。モノクロもIDCのデフォルト。階調もなだらか。うむ。
ミセにモックを持ち込んで作画するなんてあつかましいけど・・。

以下は遠景。



 ノマドがあれほど強く私たちの関心を引いたのはほかでもない、ノマドはそれ自体ひとつの生成変化であり、絶対に歴史の一部ではないからです。
歴史から締め出されても変身という手段にうったえ、まるで別人のようになって再び姿を見せたかと思うと、まったく予想もつかなかった外観に隠れて、社会の領域をつらぬく逃走線に忍び込むあたりが、ノマドのノマドたるゆえんなのです。
ここに私たちとフーコーをへだてる違いのひとつを見ることもできるでしょう。つまりフーコーにとって、戦略でがんじがらめになった閉域が社会であるとしたら、私たちが見た社会の領域はいたるところで逃走の水漏れをおこしていたのです。68年5月は歴史のなかにひとつの生成変化がなだれこんできた特異な出来事であり、だからこそ、歴史学にはこれがさっぱり理解できなかったし、歴史にしばられた社会はこれを自分のものにすることがまったくできなかったのです。
(ドゥルーズ『記号と事件』第4章)

 シャシンしない日は「ほとんど」ない。
ドゥルーズやフーコーを読まぬ日は「まったく」ない。w
生成変化する現動態の生き物だから、ボクは毎日哲学をしています。
というか、ひとはみな、逃げてゆく「いまこの時」を鷲づかみにし、はたまた検証し、すなわち哲学のなかに生きています。
SNSやLINEなんかには及びもつかないスピーディなシナプスがわが小さな脳に生成し、進むかと思えば引き返し・・そうノマドを生きることになるのです。


(レンズSOLAGONを。7s/GR28mm改F5.0相当)

ドゥルーズ 旅

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 「旅」について。ドゥルーズの言。『記号と事件』でした。以下、自炊。(宮林寛 訳)

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旅をめぐる考察は、どうやら四つの考え方をたどっていくもののようです。その一番目はフィツツジエラルドに、二番目はトインビーに見出され、三番目はベケットに、四番目はプルーストにあらわれています。一番目の考え方が認めているのは、たとえ南の島に行ったり、広く聞けた空間を体験したりしたとしても、いつもの聖書を持参し、自分の幼年時記憶やふだんの言説をたずさえているかぎり、旅はけっして真の「断絶」にはならないということです。第二の考え方によると、旅はノマドの理想を追求しているけれども、この理想は無益な願望として生きられるということです。ノマドとは、旅人とちがってじっと動かない者のことであり、旅立つことを嫌い、自然条件にめぐまれない土地、中央地帯にしがみついた者のことだからです(あなたもここで、フアン・デル・コイケンの映画をとりあげ、南に向かうとかならず、いまいる場所にとどまることを望む人たちとすれちがうものだ、と書いておられる)。なぜそうなるかというと、ここで第三の特にうがった考え方、つまりベケットの考え方が出てくるわけですが、要するに「私たちは旅する楽しみのために旅をするのではない。私の知るかぎりではね。私たちは愚か者だとはいえ、旅を楽しむほど愚かではない」からです・・・。すると、つまるところ確かめる以外には旅をする道理を見出すことはできないのではないか。何かを確かめに行くこと。心の奥底から、あるいは夢や悪夢から流れ出してくる筆舌につくしがたいものを確かめること。たとえそれが中国人は俗に言われるほど黄色い肌をしているのか、あるいは緑の光線や、青と真紅の色に染まった大気のように、とてもありそうもない色彩が本当に存在するのかどうか、調べるだけでもかまわないのです。真の夢想家とは何かを確かめに行く人のことだ、とプルーストが述べているではありませんか・・・。

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 絵はα7s+kodak EKTAR 5cm3.5。モデルはフジカ35EE。文との関連なし。
 事情があって遠出を控えていた。
春。蠢動、というからには「動く」ことを少しは考える。
そういうふうに思いをめぐらす。すると、天邪鬼な僕はきまってドゥルーズの旅をしないスタイルを思い浮かべる。
そして自嘲する。「旅をしなければならぬ必然性なぞどこにもない」と。w

ドゥルーズは旅もテレビも避けた。それはよく知られている。
①フィッツジェラルド風に、聖書をもって旅先で開くような旅には「切断」はない。
②私は「旅」をたのしむほど愚かではない。
③「ノマド」とは動くことではない。真のノマドはその土地にしがみついてる者のことだ。うんぬん・・
シビアな言い回しなのでしっかり記憶=身に付いた。





7sにコダックektar 5cmF3.5。上はf4.5下はf11。
IDCデフォルト現像。

フーコー ギリシャ回帰

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 1986年、フーコーの「自己の技芸」についての聞き手クレール・パルネに対するドゥルーズの言。
ドゥルーズがフーコーにどれほど直感的に惚れ込んでいたか、手にとるように読める。それにフーコーがその対談の場にいるかのような実に生々しい臨場感がある。そんなドゥルーズの様態、分析のテクネーも素晴らしい。
このブログ記事タイトルで検索がオモテに出るかな?でないだろうな。SEO的には僕の力量は明らかに不足してるもんなあ。
ま、ともかく「自炊」して原訳(宮林訳=これ改行なし)のままアップする。あなたがドゥルージアンで、さらにはフーコニストで、ついでに若き30から40代の男であれば・・ジイの「読んde!!ココ」自炊の労苦も悦びに変容するってもんですな。w
あ、しかし、以下のドゥルーズの言はカレの61歳時です。あるいはあなたがその年齢になればもっと「みぞおち」の理解が降りるのかもしれません。老婆心かな?

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パルネ
そうはおっしゃいますが、あれはやはりギリシア人への回帰なのではありませんか。そして「主体化」という言葉は、主体の再導入につながる曖昧な表現ではないでしょうか。

ドゥルーズ
ちがいます。ギリシア人への回帰などありはしません。フーコーは回帰というものが大嫌いでしたからね。自分で体験したこと以外を語ろうとはしなかったし、 自己の抑制、いや、もっと正確にいうと自己の生産は、フーコーにおいては自明の事柄だったのです。フーコーが、主張しているのは、ギリシア人は主体化を「創始」した、自由人の競合関係(競技会、雄弁術、恋愛など)という体制がそれを可能にしたのだということです。けれども、主体化のプロセスは並外れた多様性をもっています。キリスト教世界の様態はギリシアの様態とはまったく別のものだし、しかも主体性の生産は、宗教改革を待つまでもなく、すでに原始キリスト教の時代から、個人と集団の別を問わず、さまざまな道をたどってきたのです。キリスト教徒における新しい生存の美学を論じたルナンの文章を思い出すべきでしょう。ルナンが問題にしているのは、皇帝ネロもそれなりに助長してしまった、そしてアッシジのフランチェスコに最高度の表現を見出すことになる美学的な生存の様態です。狂気との、そして死との対決。フーコーにとって重要なのは、主体化はいかなる道徳からも、そしていかなる道徳的コードからも区別されるということです。
主体化は倫埋と美学にまたがるものであり、この点で知と権力の性格を帯びた道徳と対立するのです。したがってキリスト教の遺徳が存在し、もう一方にはキリスト教的倫理とキリスト教的美学の複合体が存在する。そして両者のあいだであらゆる種類の闘争が戦われ、あらゆる種類の妥協がおこなわれることになるのです。いまの時代についても同じことがいえるでしょう。私たちの倫理とは何か、私たちの審美的生存を産み出すにはどうしたらいいか、現行の遺徳的コードには還元できない私たちの主体化のプロセスはどのようなものになるのか。どのような場所で、そしてどのようにして新たな主体化はあらわれてくるのか。いまの共同体には何を期待すればいいのか。ですから、フーコーがギリシアまでさかのぼったところで、『快楽の活用』やそれ以外の本で彼が関心をよせるのは、いま現在おこっていることであり、いまの私たちが何者であり、何をしているのかということなのです。現代に近いものであれ、遠いものであれ、歴史的形成は私たちとの差異において分析され、この差異を点検するために分析されるにすぎないのです。私たちほみずからに身体を与えるけれども、それはギリシア的身体やキリスト教的肉体とどう違うのか。主体化とは、生存の様態を、あるいは生の様式を生産することなのです。
 ならば、「人間の死」という主題と、審美的主体化という主題のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。道徳の拒絶と倫理の発見のあいだに、どうして矛盾を見ることができるでしょうか。問題に変化がおこり、新たな創造がおこなわれているのですl。それに、主体化は生産されるものであり、「様態」なのだという事実をおさえておくだけでも、「主体化」という言葉のあつかいには相当の用心が必要だということはじゅうぶん理解できるはずです。フーコーは「自己そのものと正反対であるような自己の技芸」という言い方をしています。もし主体があるとすれば、それは自己同一性なき主体なのです。プロセスとしての主体化は一種の個体化であり、個体化は個人的であっても集団的であってもいいし、一個人についておこなわれても、多数についておこなわれてもいいい、そして個体化にはさまざまなタイプがあるのです。「主体」タイプの(それはきみ、これはぼく、といった)個体化もあれば、(事件)タイプの、たとえばそよぐ風、気圧、一日のうちのある時間、戦いといった、主体なき個体化もあるのです。ひとつの生や一個の芸術作品が主体として個体化されているかどうかは、まったくもって定かではない。フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。日常卑近な状況でも、すでにそうでした。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ気圧の変化とか、一種の(事件)、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えたのです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではなかったのです。強度がいくつも集まったような状態。そんなふうであるとか、そんなふうに見られるということがフーコーを苛立たせたこともあります。しかし、フーコーの全作品がそうした強度の束によって培われていたというのも、やはり否定しようのない事実なのです。〈可視的なもの〉も、フーコーの場合には輝きやきらめき、あるいは稲妻のような、光の効果だった。言語は巨大な「ある(ilya)」が三人称に置かれたものにほかならないし、要するにこれが人称の対極に位置するわけです。フーコーの文体を成り立たせる強度の言語。これもシユレーターとの対談に出てくることですが、フーコーは「愛情」と「熱情」の対比を敷桁してみせ、自分は熱情の人であって愛情の人ではないと述べています。この文章のすばらしさは、即興の対話ということもあって、フーコーが愛情と熱情の区別に哲学的な意味合いをもたせようとはしていないところにあります。無媒介的な、生のレベルで語っているからです。愛情と熱情の区別は恒常性と非恒常性の方向でなされているのではない。いちおう同性愛と異性愛を話題にしてはいますが、かといって同性愛と異性愛の対比をおこなっているわけでもない。フーコーが述べているのは、むしろ、個体化はふたつのタイプに分かれるということなのです。一方の愛情は人称にしたがって個体化をとげ、もう一方の熱情は強度によって個体化をとげる。あたかも熱情が人称を溶解させたかのように。しかしそうすることによって未分化の状態に陥るのではなく、いつも相互に相手を包みあった、可変的で連続した強度の場に浸されるようになるのです(「それは絶えず動いている状態でしたが、かといって特定の点に向かうのではなく、力が強まる時期と弱まる時期がある。白熱して燃えあがる時期があるかと思えば、おそらく惰性からでしょう、とにかく理由もはっきりしないまま、不安定な状態がつづくこともあるのです。極端な場合にはしばらく自己を保ち、やがて消えていこうとする……自分白身であるということはもはや意味をもたないのです…」)。愛情はひとつの状態であり、人称や主体の関係です。これにたいして、熱情のほうは人の一生にも匹敵する長さをもつ人称以前の(事件)であり(「私はここ十八年来、誰かにたいする、そして誰かのための熱情の状態を生きているのです」)、主体なき個体化をおこなう強度の場なのです。トリスタンとイゾルデの関係は、たぶん愛情でしょう。けれども、いま話題にしているフーコーの文章にふれて、こんな感想を述べた人もいるのです。『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフは熱情だ、純粋な熱情であって、愛情ではない、とね。じっさい、『嵐が丘』は恐るべき魂の兄妹関係であり、もはや人間とは言いきれないものを表現している(彼は誰?―狼さ……)。情動のさまざまな状態を新たに区別してこれを表現し、それぞれに異なる情動を感じ取ってもらうのは並大抵のことではない。フーコーの仕事が中途でとぎれているという事実も関係しているでしょう。フーコーが生きていたならば、生の場合と同じような哲学的射程を、熱情と愛情の区別に与えていたかもしれないのです。ともあれ、フーコーが「主体化の様態」と呼んだものについて、大いに用心してかかるべきだということだけは、きちんと理解しておかなければなりません。フーコーのいう様態には、たしかに主体なき個体化が含まれている。これが問題の核心でしょう。それに熱情も、熱情の状態も、おそらく主体化の場合と同じで、(外)の線を折り畳み、生きうる線につくりかえ、呼吸する手段を身につけるという意味なのではないか。フーコーの死に直面したつらい気持ちをいだきつづけている人たちは、あの卓越した作品が熱情に呼びかけたところでとぎれているということで、悦びをおぼえてもいいのではないかと思います。

 閑話休題。これはα7RにKODAK Ektar 1:3,5 F=5cm No 107****の容姿です。

フーコー 性の歴史

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 「性は退屈なものです」とフーコーは言った。「性の歴史」のどこかでインタビューに応えて。いわゆる「自己の技法」のシーンでそう言っている。
そんな言表行為の主体たるフーコーにちょっと笑える。「言説にはかならず根拠がある」といったフーコーだから、ついその「根拠」を考える。「自己の技法」を唱える主体には「性」に囚われる主体は無用であったはずだ。だから「性は退屈なものです」と言明したフーコーを苦笑しながらもそれがまっとうな態度だと思えるのです。
そこに詐術性を感じないわけです。むしろドゥルーズやガタリがこれもどこかに書いてあるが「言表行為の主体」と「言表の主体」の乖離が統合される主体の言説を感得するわけです。(これについては調べますね)

変な絵だが、7sにコダックのエクター5cmF3.5です。

ドゥルーズの「出来事」

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以下オートマトン的な表象。
 ①ドゥルーズを「出来事の哲学者」と言った学者がいた。
昨夜。寝ながら小泉版『意味の論理学』第21セリーを読む。「出来事」、ジョー・ブスケの場面。いくつかたちどまる場所がある。
「出来事が、反射し、非物体的な自己を再び見出し、非人称的で前個体的な出来事が所有する中立的な光輝をわれわれの内で表出する。これが世界市民である。」
ここではいつもたちどまる。ドゥルーズの文は、ときに難解、ときに詩的言語ときている。ここは厳密な哲学というより抒情詩でありレトリックのそれだ。w
ウィトゲンシュタインはこれより半世紀前、「できごとは起こるか起こらないかであり、中間は存在しない」と言いのけた。彼にとってできごとは「事実」以外のなにものでもない、と思われる。すなわち「命題」なのだ。

 ②今朝。access_log.processedを「読んで」いたら、bingで「ドゥルーズ 出来事」で検索したシトがいる。
おお、bingではなんと僕の記事がトップに躍り出る。愉快なbing!コケットリなbingに一票!w(wikiによれば「意思決定エンジン」だと。すごい。)

 ③つい先日。赤瀬川原平のカメラ本を読んでる折、朝日に死亡記事がでるし・・そして今朝・・。こんな符号は誰にでもある。しかもよくある。
僕はよくよく「出来事」のことを考えるニンゲンだ。bingのシトよ、アナタが再びココに来ることはないでしょうが、アナタは僕の同胞ですよ。w 第21セリーを何度も巡回してみてください。
ヒマがあったらどーんと「読んde!!ココ」で自炊して記事にします。


(α7R/GR28mm_改 記事との関連、全面的になし)

NEOKINO

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 銘板には NEOKINO との刻印がある。キネ(kine,cinema)用途であることには違いない。鋭意検索すれば、原形を留めた個体に出会えると思う。「エミール・ブッシュ 」でググる。Wikipediaがヒットする。そこで枯淡の歴史が知れます。


(α7R/COLOR ULTRON 1.8/50)

 円形に切り抜いた黒い紙で蔽いをつけている。絞りの効果を出すためです。「NEOKINO 42.5」でググればeBayにこれの仲間とおぼしき個体がみつかります。(以下はeBay掲載画像を拝借:拡大すれば刻印も見える)



 さて。借りたレンズで撮ってみる。銘板面を逆向きにM42にマウントしてます。正方向でもいいのです。このようになります。


(α7R/NEOKINO)

 ビールのラベルが中央のピント位置になります。拡大画像でみていただければそれなりにわかります。中央以外はボワーっとした感じです。ではもう一枚。


(α7R/NEOKINO)

 奇妙奇天烈なレンズ(?)が鎮座してます。いやはや。これらも知人からの借り受けです。どんな絵が作れるのか、ざっと扱っただけなので目下のところ不明。NEOKINOはこの絵でも中央部以外は流れたように写る。「効果」と「遊戯」の世界ですね。
 最後にひとつ。「エミール・ブッシュ」で 検索してウェブをさまようと、ニコペル(ニコラ・ペルシャイト)とかいうプロ用のレンズに行き当たる。そこをまさぐると数時間が過ぎてしまいます。ネットの時代、それは検索とそこから広がる知の情報綱の世界だ。web(クモの巣)とはよくいったものだ。出来事はドゥルーズの言うように直線的だ。しかも網の目状の結索点として線上に存在する。少し似てる。

スプートニクの恋人

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 「本書は1999年4月20日、小社より刊行されました。」:奥付の手前のページにそう記されている。


(α7R/FUJINON 1:1.9 f=4.5cm)

 そのころ僕は写真展の準備のために、半切バライタ紙とともに暮らしていた。まさに1999年の春だ。村上春樹を読むのをやめてからだいぶ経っていたとおもう。1990年代に入ると僕は小説やら詩などから離れて現代思想書を読み始めたからだ。それどもまだ「ユリイカ」は取り続けていた。「スプートニクの恋人」の存在はもちろん知っている。先日ジュンク堂2階のシアトルズベスト向きのカウンタにこれを手にして座ったとき、これはたしか読んだよな、と思ったほどだ。でも数ページ読んで「そうでもない」ような気がしてきた。まあ文庫棚の下に平積みされていて真新しい(あたりまえ)輝きの視線で僕に迫ってきたのも何かの縁だ。そうおもって買った。いつもはカバーを付けてもらうのだが、なんでかわからんが、いいです、と言ってしまった。(ジュンク堂のレジは10人くらいの店員が応対する。カバーはおつけしますか? とかならず問う)

 昨日読みあげた。変な話やっぱり以前読んだのかそうでないのか判然としなかった。そんなハナシってあるかい? とアナタは言うかもしれませんが、そうなんです。アナタにはそんな経験はありませんか? 実際に小泉義之の「ドゥルーズの哲学」(講談社現代新書)が2冊ある。スプートニク号の表紙の本がウチにあったような気がする。なによりミュウとすみれ、この二人に見覚え、じゃない聞き覚えがある。・・・。まあどうでもいいか。300ページを超えるが急転直下のラストシーンは3ページだ。なかなかのラブ・ストーリーです。ラストシーンのほんの少し前にこんなくだりがある。
 「すべてのものごとはおそらく、どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているのかもしれないとぼくは思った。少なくともかさなり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を持っているのだ。ぼくらは生きながら、細い糸をたぐりよせるようにそれらの合致をひとつひとつ発見していくだけのことなのだ。」

 うーむ。比喩のようで比喩はない。諦念はあるものの静謐で端正な観念がコトバとなっている、そんな感じだ。あちら側とこちら側にまたがって生きている感覚を現実のものとして受け入れる。それはそのまま死の受容ともいえるだろう。なんとは無しにフーコーの死を思った。「かさなり合うひとつの姿」を手にしてフーコーは死んでいったのではないだろうか? と、そんなふうに思うのである。

「少数派の意識の普遍的な形態が存在する」と、ドゥルーズ=ガタリは言っている。(「千のプラトー」宇野他訳 P126) 僕はこれを、《少数派の者たちの間に響き合う通奏低音》のようなものだ、と解している。その線が出るかどうかをさぐりながら、他者と接触している。自己は精神も身体も他者との間でそのつどその場で立ちあがる。存立する。関係が沸き立ち、修正の線もその場所で出るかもしれないし、後になって出るかもしれない。全局面でアレンジメント(アジャンスマン)、リゾーム、器官なき身体が作動する。「存在の一義性」っていうのも、これらを全面的に承認することだと理解する。あまりに大雑把でごめんなさい。そもそもの最初からそう考えて、今も変わらない。認識はどっちにころんでも「誤認」なんだから、まあいいか、と。

 じゃ、その「形態」を具体的にというと、困る。言葉にできないのだ。確かフーコーが「闘争」について問われて、私もそれを今考えているのです、と率直に応える場面がありました。(どこと言われても・・)だから、《今それを考えているのです》というのは苦境(?)をそのまま受け入れる態度かもしれない。そして「少数派」の意識をまとったまま一生が終わる、ということになりそうな気がする。



(α7R/ERMARIT 1:2.8/90 SILKYPIX retro_taste)

 これも拡大してどうぞ。被写体個物はSonnar85mm/f2 です。Nr.2624***が見えます。(自慢してる、あはは)撮影レンズはERMARIT90mm/f2.8です。これまでは、ERMARITをEOSのフルサイズで使っても、ピント合わせにに難儀していた。いつのまにかERMARITは「蔵」に・・。α7Rのおかげで今回復権、ご寵愛を受けること間違いない。まさにアジャンスマン。ERMARITの線が出て、屹立する。

 さて、くだんのSonnarですが、鏡胴は改造してるのであの樽型ではありません。ピントリングにはソニーのビデオパーツを流用してます(笑)。ま、要は写りですからね。抜け殻となったその樽とはこれです。ERMARIT90MM f2です。

Xenon 50mm

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(EOS5DMk2/EF24-70mm f/2.8L II USM/flash on/ISO200/F5.6/マニュアル露出)

 α7Rに、シュナイダーのXenon50mm/1.9をとりつけました。schneideropticsでみると、1968年製のようだ。うーむ。まさにパリは五月革命、日本では東大闘争の時代。団塊の男は知者であれ愚者であれ、何かを感じて過ごしたはずだ。まさにドゥルーズ、まさにフーコーの時代でもある。個物はExaktaマウントです。これを僕に譲った知人はそのとき「死蔵品」という単語を使った。ぼくは少しドキッとした。託された僕こそが「死蔵」しかねない。そういう68年製のXenonだ。どのような手を経て今のぼくの掌中にあるのだろう? 使うことがすなわち愛でることだ。愛でることで創造の線、生きる喜びの線を出しましょう・・・。とて、今夜はこれでテーブルフォトをします。開放1.9、最短50cmで撮影。こういう条件だとボケが少しうるさいですか。

 F5.6に絞れば、まあシャープなこと!

 眠れずに起きだして、深夜! とんでもない、F2.8でもシャープ。

 あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは、〈一つ〉を二重にすることではなく、〈他のもの〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ、それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。私は、外部で私と出会うのではなく、私のなかに他者を見出すのだ。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P180)

 ギリシャ人の新しさは、後に、ある二重の「離脱」にむけて現われる。それは、「自分自身を治めることを可能にする訓練」が、力関係としての権力からも、地層化された形態や徳の「コード」としての知からも離脱するときに現われるのである。一方に、他人との関係から派生してくる「自己との関係」があり、他方に、同じように知の規則としての道徳律から派生してくる「自己の成立」がある。この派生物やこの離脱は、自己との関係が独立性を獲得するということだ、と解さなくてはならない。それはあたかも外の関係が裏地を作り、自己との関係を生じさせ、一つの内を構成しようとして、自らを折り畳み、折り曲げるかのようだ。内は国有の次元にしたがって、陥没し、また展開するのだ。つまり「エンクラティア」〔克己〕、克服としての自己との関係は、「人が他人に対して行使する権力において、自分自身にむけて行使する一つの権力である」(もし、人が自身を統治しないとすれば、どうして他人たちを統治することを望めるだろう)。こうして自己との関係は、政治、家族、雄弁、遊戯、とりわけ徳などを構成する権力に対して「内的制御の原理」になるのだ。それは、ギリシャ的な鉤裂きと裏地のタイプである。つまり、このような離脱が摺曲や省察を実現するのだ。少なくとも、これがフーコーの理解したギリシャ人の新しさである。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P185)

 引用が長くなった。『フーコー』の終章の部分。とりわけ僕が胸を打たれた箇所。ドゥルーズは言う。

 ―『知への意志』に続く長い沈黙の間に一体何が起こったのだろうか。(中略)彼は『快楽の原則』の胸を引き裂く言葉にたどりつく。「自分自身から離脱すること・・・」―

 僕は他者に出会う。さまざまな機会をとらえ、他者とまじり合う。僕は他者のように生きる。そこにも複雑な権力関係が入り込む。「自己との関係」はその場所でこの僕自身を折り曲げ、裏地を張り、褶曲させ、省察に導く。これが「離脱」なのだ。だがこの「離脱」は死の陰を帯びている。僕は日夜(マジに)このテーマ群を反芻する。僕は老いた。ここを拠点として何の不思議があろう。

 今朝(11月27日)の朝日=「文芸時評」。松浦寿輝。意外性はないけど、「ドゥルーズと現代」というタイトルなのでスキャンしておきます。(拡大すれば読めます)

 学者をはじめとするアカデミックなヒトは、巷間ではすでにつねにドゥルーズを生きている非アカデミックな群像を「観取」しているはずだ。(ジブンはそうでなくても)。ドゥルーズの倫理は、ドゥルーズを読まなくても生きられている。僕はそう思っている。松浦寿輝の時評に「意外性はない」とフツーに言ってるつもりです。

プラトン主義の転倒

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 出来事は理念的である。ノヴァーリスが語ったことであるが、理念的な出来事と現実的で不完全な出来事の、二つの出来事の列がある。例えば、理念的なプロテスタンティズムと現実のルター主義である。しかし、この区別は、二種類の出来事の間にではなく本性的に理念的な出来事と事物の状態の中での空間的-時間的実現の間にある。出来事と事故の間の区別である。出来事は、〈唯一の同じ出来事〉において交流する観念的な特異性である。だから、出来事は永遠真理を有しており、出来事の時間(=時制)は、決して出来事を実現して実在させる現在ではなく、出来事が存続し存立する限りないアイオーン、不定形である。出来事だけが理念性である。プラトン主義の転倒とは、先ずは、本質を解任し、それに代えて特異性の噴出としての出来事を取ることである。二重の闘いの目的は、出来事と本質の独断論的混同を阻止することと出来事と事故の経験論的混同を阻止することである。(引用終わり)
(ドゥルーズ『意味の論理学』第9セリー 小泉訳 河出文庫 P106)

 そうなのです。中村哲の「三無主義」を「プラトン主義の転倒」とみるとどうなるか。彼の諸活動にはなにか人を惹きつける永遠真理のようなものがある。それは彼がヒーローイメージの「本質を解任」しているからだと思うのです。出来事を現在の時制に実現させることも重要だがそこにしがみついてはいない。そんな気がする。出来事は事故にとどまらない。無思想、無節操、無駄、というのはプラトニズムの理想と縁を切る、すなわち「本質の解任」を意味する。そこに無意識の戦略がみてとれる。中村哲はアイオーンを生きているのだ。そしてロマン派でもあるか。先日、散歩しながら考えてみよう、と言ったのはいわば戦略としてのプラトニズムの転倒のようなものを思っていたのです。中村哲氏の戦略、というのではありませんよ。出来事の系列(セリー)あるいは個体化のことを思っているのです。

ドゥルーズ 出来事

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 ニーチェは、健康が病気に対する生ける観点になり、病気が健康に対する生ける観点になるように、健康と病気を生きることを勧める。病気を健康の探検とし、健康を病気の探求とすること。「病気において、最も健康な概念、最も健康な価値を観察すること、次いで、逆に、過剰に豊かで自信に溢れた生の高みから、類廃の本能の秘密の労働にまで眼差しをやること、これが、私が長きにわたって修練してきた実践であり、私の経験を特別なものにしたもの、そんな職があるとして、私が親方として通用した職である。今や、私は、遠近法を転倒させる技法を知っている…」。(『この人を見よ』川原栄峰訳)反対のものが同一化されるのではない。反対のものの隔たりのすべてが肯定されるのである。ただし、反対のものを一方から他方へ関係付けるものとして肯定されるのである。健康が病気を肯定するのは、健康が、健康と病気の隔たりの肯定の対象となるときである。隔たりとは、その手の届く限り、隔てるものを肯定することである。健康で病気を算定し、病気で健康を算定するこの方式こそ、まさに〈大いなる健康〉あるいは、〈悦ばしき知〉ではないだろうか。これによって、ニーチェは、病気であるまさにその時期に、高次の健康を経験するようになる。逆に、ニーチェが健康を失うのは、病気であるときではなく、もはや隔たりを肯定できなくなるとき、自身の健康を通して、病気をもはや健康に対する観点にできないときである(そのとき、ストア派の言うごとく、役は終えられ、芝居は終わる)。観点とは、理論的判断ということではない。「方式」とは、人生そのものである。既にライプニッツが教えていたが、事物に対する観点があるのではなく、事物・存在者が観点なのである。ただ、ライプニッツは、観点を排他的規則に従わせ、各観点は収束する限りで相互に開かれているとした。同じ都市に対する観点というわけである。反対に、ニーチェにあっては、観点は、発散に対して開かれ、これを肯定する。各観点に対応するのは別の都市であり、各観点は別の都市である。都市間の隔たりだけが都市を統一し、都市のセリー・家・街路の発散だけが都市を共鳴させる。そして常に都市の中に別の都市がある。各項は、隔たりを辿ることによって、別の項の端まで行く手段になる。ニーチェの遠近法・遠近法主義は、ライプニッツの観点よりも深い技法である。というのは、発散が排除の原理であることを止め、分離が離別の手段であることを止め、いまや共不可能なものが交流の手段であるからである。(引用終わり。 ドゥルーズ『意味の論理学』第24セリー 出来事の交流 小泉義之訳)

 まさにこのような倫理(倫理、と言っていいでしょう)をわがものにすることが、僕やあなたが、生を耐えがたくする事物・事態からどうにかこうにか遁れ、ともかくも離れることができる、と思うことにする。病気を悪と決め込むのは実はそうでもないかもしれない。病気に対する観測や観点があるのではなく、病気そして僕やあなたが観点なのです。このさいどんな超越者もそれを示したりはできないものなのです。


(東急ハンズ:NEX-7/E20mmf2.8/PhotoshopCS5)  

 直前のコマ。

ドゥルーズ 出来事

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 出来事。小泉訳「意味の論理学」(河出文庫)第21セリー。
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 出来事は、到来すること(事故)ではなく、到来することの中で、われわれにサインを送りわれわれを待ち受けている純粋な表現されるものである。先に述べた三つの規定によるなら、出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。さらにブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。すなわち、われわれに到来することに値する者になること、したがって、到来することを意志し到来することから出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること。出来事の息子であって、自分の作品の息子ではない。出来事の息子だけが、作品そのものを生産するからである。(引用終わり)


(G病院5階病棟より望む風景/NEX-7 E20mm 2.8/SILKYPIX)

 ここんところたまたまではあるが、読みなおす論考・著書がいくつかあった。古いものは桜井哲夫の「フーコー」(現代思想の冒険者たち26)。それほど古くもないのは小泉義之の「来るべき民衆」(「ドゥルーズ/ガタリの現在」所収)。とてつもなく古いのは瀬戸正二(似たような名の写真家がいるが)の「カフカ その謎とディレンマ」(1967年刊)。
 もう20年近くになるか、思想書を読み続けてきた。よくまあ飽きもせずに。手近に30~40冊の書物が散らされていて大概はこれらを寝て読む。小泉=来るべき、は引用部も参照すべくと、かの大著を枕元に運んだ。午前1時にもなろうかという時刻だ。ちなみにこんな具合だ。


(NEX-7/E 2.8/20/SILKYPIX/拡大画像あり)

 さて、さきの3冊。作家は時代の証言をなすように言説を出す、と思う。どれも時代の反照のごとき作品だ。
 よくよく哲学は男のするものだと思う。思弁は男専用のものなんだろうね。アートの領野では女は元気に闊歩してるが、哲学はしない。

 差異をとりあげてみる。一般に、差異は何ものかからの差異、あるいは何ものかにあっての差異として分析される。差異の向う側の差異を超えた地点に、とはいっても差異の支柱となってそれに場所を与えて限界を設定し、つまりは差異を統禦せんとする目的で、人は、差異がそれを幾つかの種に分割すると想定される類としての統一性を、概念によって措定する(アリストテレス的概念の有機界的視点の支配である)。そうなると、差異は、概念の内部で種的特性に分類されうるものとなり、概念を越えてあふれでるものとはなりがたい。それでいながらこの種よりも下部の水準には、個体がいっせいにたちさわいでいるのだ。種的分類から逃れ、しかも概念の外部にこぼれ落ちるこの尺度のない多様性は、反復のはね返り以外の何でありえようか。羊類より下の水準では、もはや羊の数をかぞえる仕事しか残ってはいない。以上の点からして、従属的視点の第一の相貌は次のごときものとなる。すなわち、種への分類作用としての差異(概念内の)と、個体の差異不在としての反復(概念外の)とがそれである。だが何への従属であるというのか。常識への従属である。そして常識とは、狂気の生成と無政府主義的な差異から顔をそらせ、いたるところ、しかもあらゆるものにあって同じやり方で同一的なるものの認識を心得ているものだ。善意の盟約によって認識主体の普遍性を確立するその瞬間に、常識は、対象における一般性をくっきりと浮かび上がらせる。まさに悪しき意志に自由な戯れを許してみたらどうなるか。思考が常識から自由になり、その固有性のぎりぎりの先端部でのみ思考せんと希望したらいったいどうなるか。正統説の構成要素としてある自分の市民権を程よい満足とともに是認するかわりに、陰険に逆説の策略を実践してみたらどうなるか。差異の下側に共通なるものを探究するのではなく、むしろ差異的に差異を思考してみたらどんなものであろうか。そうした場合、差異は、概念の一般性を塑型するほどほどに一般的な性格などではもはやありえまい。差異は―差異としての思考、差異をめぐっての思考として―純粋な出来事となっているかもしれないのだ。反復はどうなるかといえば、もはや同一的なるものの陰鬱なけばだちではなく、転移された差異となるかもしれぬ。善意から、そして分配し性格決定する常識の支配から脱した思考は、もはや概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する。常識にくるまって思考することの倫理的善意というものは、結局のところ、思考をその固有な「生殖性」に触れさせまいとする役割をはたしていたのだ。
(フーコー「劇場としての哲学」蓮実重彦訳)

 「いつもとはどこか違った朝だった・・」と人が言ったとする。そこでは朝における「差異」が述べられる。通常僕たちは「差異」をそんな意味で用いる。が、ドゥルーズの「差異」および「反復」はそうではない。違った朝と感じてもまた同じような朝になってしまう=再領土化されるそんな「差異」ではない。じゃどんなものか?フーコーによると「概念を構築せず、幻影を反復しつつ意味=出来事を生産する」ものだということになる。
 差異は「いつもの朝」に対する違いではない、ということになるか。差異は違いそのもの、とでも。じっさい「差異の差異」という言い方もある。

 思えば、そんな差異こそが実は一般的なのだと気づく。表現(表象)的には「どこか違った朝」なのだが、事実はその朝を生きているその朝に身を置いているではないか。感じ、表象する以前に、差異を生きている。差異はそのまま差異なのだ。とまあ僕は思っているのです。

 さて。サンダーバードのトレーシー一家。天神のBOOK・OFFで買う。(笑)


(NEX-7/ANGENIEUX 17-68mm 1:2.2/Photoshop CS5.5/拡大画像あり)

 ドゥルーズやフーコー、はたまたスピノザやニーチェに惹かれる諸氏よ、あなたは旅先に一冊どれをバッグに入れますか? 毎度のことながら僕もけっこう選択に思案します。今回は「ディアローグ」にしました。

 ドゥルーズを開く。ほどなくなんとも名状しがたい夢見をします。夢見心地はたぶん「現働」と「潜勢」が混ざり合うそんな界隈です。そのような様態が発生する、それが気持ちいいのです。へたな文学(レトリック)よりもはるかに心地よいこの状態を僕は好み手放せないでいます。まあこれは僕に固有の経験かもしれません。しかしドゥルージアンの諸氏には「発生論」的に思い当たる事実ではないか? と確信してもいます。違います? 

 で、「ディアローグ」はまず厚さが300ページ足らずで手ごろ。後期ドゥルーズに接近できる。夢見心地は請け合い・・などなど半病み上がりの僕には好都合と判断したわけです。

 さらに諸氏がシャシン好きであればもうひとつ難題に直面しますよね。これもNEX-7にE2.8/20mmと赤Elmarで極力軽くする。フルサイズEOSと一緒に歩く元気はない。(拡大画像アリ)

(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5/f5.6/Photshop CS5.5)

ノマド

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 以下は河出文庫版(宮林寛 訳)ドゥルーズ『記号と事件』P277です。

 教師の実生活が面白いということはまずありえません。もちろん、旅をすることはあります。ですが、教師は言葉や経験によって旅費をまかなうわけで、学術会議や討論会に出席し、いつも、ひっきりなしにしゃべっていなければならないのです。知識人は膨大な教養を身につけていて、どんなことについてでも見解を述べる。私は知識人ではありません。すぐに役立つような教養もないし、知識の蓄えももちあわせていませんからね。私が何かを知っているとすれば、それは当座の仕事の必要上知っているだけなのであって、何年もたってから過去の仕事にもどってみると、一切を学びなおさなければならなくなっているほどです。かくかくしかじかの点について見解も考えももたないというのはとても気持ちがいい。私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で何かを言ったかと思うと、また何かを言うために戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。だから、私はとても旅をする気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。「ノマドとは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」というのがそれです。(引用終り)

 最近何度か「線」のことを記事にしている。それで、ドゥルーズが「点は嫌い」ということをどこかで言ってるその箇所を探しているのです。が、なかなか見つからない。その探索の折にこれに「再会」したというわけです。ココは僕が大変気に入ってる箇所です。「人には旅をする必然性はない」という僕の妙な信念の根拠になってます。セックス(性行動)と同様「旅」にも必然性はない、というような意味ですがね。ww。

 ドゥルーズのこの言は1988年、ちょうど僕の今の年齢なのです。読み手はかくのごとく何度もなんども行き着くのです。それにしても「点は嫌い」の典拠はどこにいったのでしょうか?

 中空にサザンの歌が響くなか三年一組四十回跳ぶ

 「みんなでジャンプ」という詞書が添えられてあるから、体育祭での縄跳びの種目なのだろう。体育祭に合うサザンの歌ってなんだろう? アップテンポで乗りのいい曲なんだろね。これもまた20年以上も前のハナシだ。

 さて。「フロントランナー」の桑田 佳祐。食道がんから復帰してきた。(拡大画像アリ)

(NEX-7/E16mm F2.8 SEL16F28/SILKYPIX)

 (以下は記事から)―日本語に対する思いが深まってきたのはなぜですか。

 やっぱり、自分の『血』とか本音をリアルに歌えるのは日本語なんです。外人のマネばっかりじゃラチがあかない。新曲に対する褒め言葉として「いいメロディーですね」っていうのはあんまりなくて、「歌詞のこの部分が好き」っていうのが多い気がします。

 昔は妙に潔癖で、メロディーに対して歌詞があふれてしまう字余りがイヤだった。でも、自分が気にしているほど周りは気にしてない。ライブやテレビ番組で、岡林信康さんとか浅川マキさんの曲をカバーするなかで、多少は字余りでも聴いてくれる人の許容範囲なんだ、もうちょっと白由になっていいんだと思えた。しょうがない時は音符の数を増やせばいい。50歳過ぎてわかってきましたね。

 (引用終り)ふむふむ。桑田 佳祐の「生成」として考えてみる。出来事とか事件とかいうものはこのようなものではないか、と。これはやはり「点」ではなく「線」とみる。桑田 佳祐の数々の線が交差したところに「点」を指示することはできても、指したとたんに逃げて(消えて)ゆく。桑田 佳祐はこのようになったのだ・・。これを「日本回帰」といわずにおきましょう。「年齢」とか「日本人」とかいうことがいわゆる「主体化のプロセス」の問題とどのように関係するのか、正直僕はわからないでいる。フランス人には当たり前でも日本人にはどっこいそうはゆかない、ってことがあるのかも知れない。同じように若いときにはなかった情緒や論理が歳をとるとあらわれてくる、ということもあるのかもしれない。「年齢」とともに変異する様態、「日本人」としての属性、そういうことは当然あるでしょうから・・。

 「禅」には「主体化」を消去するようなところがある・・というようなことをフーコーだかドゥルーズだかに(あるいは双方に)読んだ記憶がある。やはり(はたして)そうなのだろうか? それほどたやすく「主体化」を阻めるものでしょうか? 禅の「主人公」というのは「主体化」のことではあるまいか。日本浪漫派閥的日本人!(なによそれ)にだってフランスの現代思想的「主体化」はあるのです、と思いたい・・。

フーコーの額に穿孔?

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(NEX-7/Elmar f=5cm 1:3,5)

 ここんところずっとフーコーを読んでいた。その合間にエルヴェ・ギベールを読む。同書を知ってはいたが読まないでいた。で、読後の感想。後味はよくなかった。『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』という書は「功罪アリ」と感ずる。どこまでが真実でどこまでがギベールの物語なのかわからない。救いがない。それでも、フーコーのモデルとされる男は用意周到に「自己の技法」を貫いた印象がする。ミュージル(フーコーのモデルとされる人物)の最後は「芸術作品」で、皮肉にもギベールを拒んでいるようにも思える。

 医療機関の中でひとつの骸(むくろ)となったフーコー。その中に入れば患者と医師という奇妙で独特の権力関係にはいり、処置されるしかない患者フーコー。特別な権力がどのようにして現在のようになったのか、その歴史的・系譜的な研究をずっとしてきたフーコーが、その病院の中で死んだ。「頸部穿孔をうけたのである。額に孔をあけられた跡があった」とギベールは書いてある。(再度申しますが、それが真実かどうかわからない)

 人はどのようなかたちであるにせよ、死ぬときはたったひとりで黄泉におもむく。僕だっていずれみなさんに「お先に失礼」ってことになる。それもそんなに遠いことではないはずだ。フーコーやドゥルーズの「孤独」を身近におもう。彼らが「権力」にあがらって(さらには利用もして)死んでいったすがたをおもう。フーコーの属性が僕の中にも分け持たれているとおもう。僕もまた新しいギリシャ人を発見し僕なりの実践をしたいとおもうが、そんな過激な力が僕にはあるだろうか?

造影剤MRI

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 体調異変となれば、僕はとりわけて「生の哲学」にふける。(笑)。ドゥルーズ、フーコー、小泉義之、ニーチェ・・うんぬん。あたりまえのことだが「健康」について考えることと、「健康」になれることは別問題です。それどころか「健康」について思案すると「健康」になれないことがある。この10日間ほど、僕はパソコンの自作に没頭した。そうやって「健康」について思い巡らことから遁走していた、ともいえる。フーコーを読むことに匹敵する「効能」をパソコンのインストレーション作業に感じた。いやまあ冗談半分ホンネ半分ですけど。

 造影剤MRIの読影所見はクロであった。同じ懸念を抱いているお方のために、所見を紹介します。「移行域左腹側から前線維筋組織にかけて拡散低下を示す腫瘍あり、造影早期濃染する。前立腺癌が疑われる。前方被膜には接しているが、明らかな被膜外浸潤はない。転移も認めない。」ということです。よって僕は近々針生検をするはめになりました。

 さて、自作PCのこと。10日間も要したのはパーツをヤフオクで集めたからだ。当然パーツは一度には集まらない。

 ①1500円のケースがひどかった。ゴム足がない。フロントベゼルをはずしたらなんとPC電源スイッチを基盤ごと抜いてある。吸入ファンもない。オクの写真にはそういう情報はなかったのに。ゴム足はダイソー105円で自作。

 ②スイッチは手元スイッチを追加(NBSTKIT)。ファンは手持ちのCoolermasterのものを使用。

 ③マザボ:ASUSのP6T Deluxe OC Palm Edition (palmが笑える)。

 ④コア:i7 920。

 ⑤電源:コムスターの650W。

 ⑥グラボ:GALAXYのGeForce GTS250/512D3/ COOL EDITION。

 ⑦メモリはとりあえず放置していたDDR3 PC3-8500を3枚。

 ⑧DVDとカードリーダも仕舞い品をつける。

 ⑨ただひとつ新品はCrucial m4 64GB 2.5inch SATA 6Gbit/s CT064M4SSD2。

 これで全部かな?あ、そうだ、送料込み155円のシリコングリス(1g)。

 計4万5千円。SSD2個でRAID0。HDDはHITACHIの500G。Windows7の「ようこそ」がでないときもある。読み込みはまさにSSDのRAID0の威力を堪能できますね。シーケンシャルリード528ですから気持ちいい。ファンの音がうるさいので、CrucialからCoolermasterに変えた。というかこれは回転数が違うのかもしれない。部屋を暖房しているせいかCPU温度も45℃平均、ファンも1300rpmくらいになる(BIOSで可変設定)。手元スイッチのPWライトがまぶしい。拡大画像あり。


(NEX-7/Gnome-Wilon 1:4,5/50/SILKYPIX)

ドゥルーズ『フーコー』

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 ドゥルーズの『フーコー』を読んでると、いちばんフーコーのことを理解していたのはやはりドゥルーズではなかったのだろうか?と思う。「フーコーにとって私が必要だったというよりも、私のほうがフーコーを必要としていたのです」と別の場所では言っている。以下はドゥルーズ『フーコー』宇野訳P174-177から。

 すでに、一九七〇年以後の監獄運動の最終的な挫折はフーコーを落胆させ、世界的レベルの他の様々な事件によって、落胆は大きくなったにちがいない。もし権力が真理の構成要素であるなら、権力の真理でないような「真理の権力」を、権力の統合線からではなく抵抗の横断線から出てくるような一つの真理を、どうすれば着想することができるだろうか。いかに「線を越える」か。そして、外の力としての生に到達しなければならないなら、この外が恐るべき空虚ではないという保証、抵抗するようにみえるこの生が、単に、「部分的、漸進的で、緩慢な」死を空虚のなかに配置することでない、という保証があるだろうか。私たちは、「分割できない、決定的な」出来事において、死は生を運命に変える、と言うことさえできない。むしろ死は多様化し差異化して、生に様々な特異性をもたらし、それゆえ真理をもたらす、と言うことができるだけだ。生は抵抗からこのような真理を受け取ることを信じているのだ。それでは、死そのものという大いなる限界に先んじ、この死の後も続行されるこれらのありとあらゆる死を通過するということ以外に、一体何ができるだろう。生はもはや、その場所、あらゆる場所を、「人は死ぬ」という葬列に見出すだけだ。ビシャは、決定的な瞬間、あるいは分割不可能な事件という死の古典主義的な概念と訣別し、しかも、死を、生と共通の広がりをもつものとして措定し、また部分的で特異な、様々な死の多様体からなるものとして措定しながら、二つの仕方で訣別したのである。フーコーがビシャの理論を分析するとき、単なる認識論的分析とは別のことが問題になっていることが、その調子から十分にわかる。死を理解することが問題なのだ。そして、フーコーほどに、死を理解してその通りに死んだ人はまれである。フーコー自身のものであるこの生の力を、フーコーはまた、ビシャのいう多数多様な死として考え、生きたのである。それでは、権力と衝突し、権力と戦い、闇にもどっていく前に権力と「そっけない、鋭い言葉」を交わすことによってだけ姿をあらわすこの無名の生以外には何が残るだろうか。このような生をフーコーは、「汚辱に塗れた人々の生と呼び、「彼らの薄幸、怒り、またはあいまいな狂気」のゆえに、彼らを尊重するようにと提案した。奇妙なことに、不可解なことに、この「汚辱」の権利を彼は要求する。「わたしは、あるエネルギーをそなえた、この種の粒子から出発した。そのエネルギーは、この粒子が、小さく、分別しがたいだけに、なおさら大きいのであった。」彼は、『快楽の活用』の胸を引き裂く言葉にたどりつく。「自分自身から離脱すること……」。

 『知への意志』は、明らかに一つの疑いとともに終わっている。もし、『知への意志』を書き終えて、フーコーが袋小路に入ったとすれば、それは、権力についての彼の考え方が理由ではない。むしろ、権力そのものによって私たちが追いやられる袋小路を、彼が発見したからである。私たちの生においても、思考においても、最も微細な真理のなかで、私たちは権力と衝突するのだ。外が、外を真空から引き離す運動の中に入り、外を死から遠ざける運動の場になることがないとすれば、出口はないだろう。それは、知の軸とも、権力の軸とも区別される新しい軸に似ていることだろう。一つのの静けさが勝ち取られるような軸なのだろうか。生のほんとうの肯定だろうか。いずれにしても、それは他の軸を消滅させるような軸ではなく、すでに他の軸とともに働き、それらが、袋小路に閉じ籠もってしまうことがないようにする軸である。たぶんこの第三の軸は、フーコーのなかに最初から現われていた(同様に、権力は最初から知のなかに現われていたのだ)。しかし、この軸は、たとえ他の二つにもどってしまうことになるにせよ、それらと距離をもってはじめて取り出される。

メディアモール天神店で
半ばウトウトしながら
「6性の選択、性の行為」を読む。


(NEX-7/Gnome-Wilon 1:4.5/50 will,Wetzlar)

少し熱めに、と注文する。
するとスレーブには上記のような「落書き」。
エックス(エクストラ?)ホットのラテ、
ということかもなあ。
クッキーは持ち込み。

さて。
『臨床医学の誕生』の翻訳者=神谷美恵子のWikiに
意外な(でもないか?)記述を見た。

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著書で理解しがたかった箇所について尋ねたところ、
フーコーはあれは若書きであり云々と語り、
美恵子はその言葉に驚いている。
美恵子と同じく
文学の素養を有する精神科医である中井久夫は、
フーコーの思想は神谷美恵子が取り組むほどの価値を
有していなかったのではないかと記している。
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なんか微笑ましいですね、この時点では。
ドゥルーズが『フーコー』を著した動機や必然と
神谷美恵子の様態とはかなり開きがあるんだろう。
『臨床医学の誕生』からはるかに後年、
「6性の選択、性の行為」は1982年。
2年後にはフーコーはこの世を去る。
自身の「疾病」について認識はあったのだろうか?

スタバに陣取ってとりとめもない想像をする・・。
「6性の選択、性の行為」の衝撃波の強度については
また日を改めて触れよう。
よって本日のとりとめなさのかなめというのは、
かの will,Wetzlarなのです。
(横800拡大画像あり)







これって「引き延ばし用レンズ」なんです。
感心しますね。
Photoshop CS5.5現像/Web用保存。特段の処理なし。

Carl Zeiss Tessar 2,8/40

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Amazonから「フーコーコレクション5」が
ゆうメールで届く。たのしみが加わる。
あの話は放棄したい、あれは取り消したい、
というような場面が「コレクション」にはしばしば
出てくる。前言を翻すに率直なフーコーが
好もしく思われるのは人情ってもの。
主著の言説を進化(深化)させてるわけだが、
なんともミステリアスなのだ。
僕はドゥルーズの場合も
「記号と事件」や「批評と臨床」を偏愛する。
根っこは同じ。裏話が好きなのかな。


(NEX-7/Zeiss 40mm)

フーコーの笑い

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「フーコーの場合は」とドゥルーズはいう。
「その笑い声ですら一個の言表だったのです。」
(ドゥルーズ『記号と事件』)
フーコーの高笑い、哄笑というのをどこかで
読んだ記憶がある。
『現代思想の冒険者たち』かもしれない。
ちょっと手元にないのでわからない。

あはは、と高く笑うときに味わう自己乖離の気分。
あれは健康にいいのかな?
ぼくもその種の笑いをやってるとおもう。
昔々、フーコーに興味を抱いたのは彼の「笑い」に
何かを感じたからかもしれない。
(聞いたこともない笑いを感受させるエクリチュール!)
僕の余生には、『フーコー・コレクション』をそろえて
読むくらいの時間はまだ残されているのじゃないか、
と思う。冗談=本気半々で全巻買おうかな、と
夢見ごちのきょうびだ。
では、P195「4社会医学の誕生」より自炊。
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 新しいかたちの社会医学がイギリスで誕生します―
イギリスは産業の発達を経験し、その結果、
プロレタリアの形成が他の国々よりも大規模で、
急速だったからです。ただしそれは、他方で
ドイツ的な国家医学の計画がなかったという
意味ではありません。
たとえばチャドウィツクは一八四〇年頃、
ドイツのやり方から多くの示唆を得てみずからの計画を
練りあげています。またラムゼーは一八四六年に、
『都市住民の健康と病い』と題された本を書きましたが、
これはフランス都市医学の内容を反映するものです。

 イギリスの医学が社会医学になっているのは、
主として「貧民救済法」のおかげです。
この法律の条項には、貧窮者たちを医学的に管理する
ということが含まれているのですから。
貧しい人々が扶助制度の恩恵をこうむるように
なったときから、さまざまな方法で彼らを医学的に
管理することが義務化されます。
貧民救済法にともない、曖昧なかたちではあれ、
社会医学の歴史に重要な要素が入ってきます。
それまでは貧困ゆえに期待できなかった健康への
欲求を、もっとも貧しい人々でも満たせるよう
助けてあげる手段となるような、
税金でまかなわれる扶助あるいは
医学の介入という考え方です。
同時に、それは管理の継続を可能にしました。
豊かな階級あるいは政府におけるその代表者たちは、
管理をつうじて困窮した階級の健康をまもり、
したがって特権的な人々を保護しようとしました。
こうして都市のなかで、豊かな人々と貧しい人々の
あいだに、いわば権威主義的な検疫警戒線が
設けられたのです。そのため貧しい人々には無料で、
あるいはより安く医療を受ける可能性がもたらされました。
豊かな人々はこうして、貧しい階級が生みだす
疫病の犠牲になるという危険から解放されたのです。

 医療法制を見ると、当時のブルジョワジーの大きな問題が
移し替えられているのがはっきり分かります。
いかなる代価を払って、どのような条件で、
いかにしてみずからの政治的安全を守るか、
という問題です。
貧民救済法に含まれている医療法制は、
そのようなプロセスに対応するものでした。

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(PENTAX K20D/43mm Limited)

切片たるあなた

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(NEX-7/Summaron f=3,5cm 1:3,5/SILKYPIX)

「ひとつの職務というのは堅い切片である。
しかしまた、その下を何が通過するのか。
もろもろの切片と合致しないどんな接続が、
どんな引力が、どんな斥力があるのか。
秘密でありながらも、
たとえば教授、あるいは裁判官、弁護士、会計士、
家政婦といったような公的な権能と関係のある
どのような狂気があるのか。」
(『ディアローグ』ドゥルーズの思想 江川+増田訳 河出文庫)

ドゥルーズ「対話」

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ドゥルーズ=パルネの『対話』。
以下の部分はよく読まれた箇所だと思う。
今回、河出文庫(ちなみに「ディアローグ」と改題)を
「読んde!!ココ」で自炊。(わかります?)それを
記載します。第2章第2部だからパルネ担当かな。
しかしあきらかにドゥルーズの思想だ。
諸氏よ、味読されたい。

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 スピノザが次のように言うとき、
すなわち、「驚くべきもの、それは身体である…、
私たちはひとつの身体が何をなし得るのかまだ知らない…」、
と言うとき、彼は身体を
ひとつのモデルにしたいのでもなければ、
精神を身体に単純に依存させたいのでもない。
彼の企てはもっと微妙なところにある。
彼は身体に対する精神の偽なる優位を打ち倒し
たいのだ。精神と身体があるのであり、
両者揃って唯一の同じものを表現している。
身体の属性は精神の表現されたものでもある
(例えば速度)。
ひとつの身体が何をなし得るのかを
あなたが知らないのと同様に、
身体の中にはあなたが知らない、あなたの認識を
超出する多くのものがあるのと同様に、
それと同様に精神の中にはあなたの意識を超出する
多くのものがある。だから問いはこうなる。
ひとつの身体は何をなし得るのか、
どんな情動が身体には可能なのか。実験せよ。
しかし実験するためには多くの慎重さが必要である。
私たちはむしろ不快な世界に生きているのであり、
この世界では人々だけでなく、既成の権力もまた
私たちに悲しみの情動を伝達することばかり考えている。
悲しみ、悲しみの情動は、
私たちの活動力能を減少させるすべてのものである。
既成の権力は私たちを奴隷にするために
私たちの悲しみを必要としている。
暴君、司祭、精神の買い手は、
生がつらくて重いものであることを
私たちに納得させる必要があるのだ。
権力は私たちを抑制するよりも
私たちを不安にする必要がある。
あるいは、ヴィリリオが言うように、
他人の目に触れない私たちの小さな恐怖を管理し、
組織する必要があるのだ。
生についての長々とした普遍的な不平。
生という存在欠如…。「踊りましょう」と
言っても空しい。そんなに陽気ではないのだ。
「死とは何と不幸なことだ」と言っても空しい。
失われる何かをもつためにはまず生きるので
なければならなかっただろう。
身体と同じく精神も病んでいる人たちは、
彼らの神経症と彼らの不安、彼らが最も愛する去勢、
生に対する彼らのルサンチマン、
彼らの不潔極まりない伝染病を私たちに伝達するまでは、
吸血鬼となって、私たちを放そうとはしないだろう。
あらゆるものが血に関わっている。
自由人であることは容易でない。ペストを避けること、
諸々の出会いを組織すること、活動力能を増大させること、
喜びで自己変様すること、最大限の肯定を表現し
あるいは包含する諸々の情動を多様化すること。
身体を有機体に還元されないひとつの力能にすること、
思考を意識に還元されないひとつの力能にすること。
スピノザの有名な第一原理
「すべての属性にとっての唯一の実体」は
この作動配列(アシヤンスマン)に依存しているのであり、
その逆ではない。
スピノザという作動配列(アシヤンスマン)があるのだ。
精神と身体、諸々の関係=比、諸々の出会い、
変様能力、この能力を満たす諸々の情動、
それらの情動を形質化する悲しみと喜び。
哲学はここでひとつの機能作用の、
ひとつの作動配列(アシヤンスマン)の技法となる。
諸々の出会いと生成の人、
ダニの哲学者であるスピノザ、
知覚し得ない者スピノザ。
彼はつねに中間にあり、
たとえ動くことがほとんどなくてもつねに逃走している。
ユダヤ人共同体からの逃走、
《権力》からの逃走、
病気の人や悪意に満ちた人からの逃走。
彼自身も病気であり、死ぬかもしれない。
だが死は始まりでも終わりでもないということ、
そうではなくその反対にそれは自分の生を
他の誰かに移すということを彼は知っている。
ローレンスがホイットマンについて言っていること、
それがどの点においてスピノザに当てはまるのかといえば、
彼の連続する生、ということになる。
つまり《精神》と《身体》だ。
精神は上方にも内部にも存在しない。
それは「とともに」存在する。
それは道路の上で、あらゆる接触に、
出会いに晒され、同じ道を辿る人たちと
仲間になって存在する。
「彼らとともに感じること、
彼らの精神と彼らの肉体の振動を
通りすがりに捉えること」、救済の道徳の反対、
精神に自分の生を救うことを教えるのではなく、
自分の生を生きることを教えること。
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属性 様態 効果

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三菱地所アルティアムの会場は狭い。
それを塩田千春は工夫して使っていた。


(NEX-7/Hektor f=2,8cm 1:6,3/ISO3200)

パンフの装置とはちょっと違うでしょう?
スペースの狭さで新たな線が生じる。
属性が変われば様態も変容する。
効果、といっていいだろう。

少し蛇足を・・。
「書くことは逃走線と本質的な関係にあるのかもしれない。
書くこと、それは逃走線を描くことである。
逃走線は想像的なものではなく、人は逃走線を辿るように
まさに強いられている。
なぜなら、エクリチュールが私たちを逃走線に引き入れ、
実際に私たちを逃走線に乗り込ませるからである。
書くこと、それは生成することである。
とはいえそれは作家へと生成することではまったくない。
それは別のものへと生成することである。」
(『ディアローグ』ドゥルーズの思想 江川+増田訳 河出文庫)

塩田千春 他者である私

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みるべきアートをみてくる。
「塩田千春 他者である私」。三菱地所アルティアム。



中華風に言うと「絶対塩田」となるのかな?
ドゥルーズの「超越論的経験論」の情動をもろに感じた。
いいアートを前にすると、精神分析で言うところの
「対象a」を手中にしたような感覚だ。
(そんなものがあるとして)
あなたは塩田千春にご自身で出会うしかない。


(EOS5Dmk2/アンジェニュー35-140mmTYPE LA2)

先だって不思議な経験をする。
知人を訪問する。
と小泉義之の『ドゥルーズの哲学』を差し出して、
大変な昔、これをあなたに借りていた、と言う。
咄嗟のことだ。
え?そうだった?いつごろのハナシ?
彼「~のころだと思います。」
奥付をみる。2000年発行だから、「~のころ」とは
時期が合わない。

ウチにも一冊あるので、彼に貸して別に買い求めた、
ということになる。だがその記憶は全くない。

そこで僕は仮説をたてる。
彼は僕の紹介に触発をうけて、自ら買い求めた。
時間がたつうちに僕から借りたものと錯覚する。
どうだろう。ありうるハナシではないか。
そもそも内在はそんなふうに作動するものでしょう?
違うか。やはり僕の忘却か?
いやだなあ。(笑)
ドゥルーズの「欲望」について今少し。
『ディアローグ』第三章第二部の冒頭です。

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欲望に関する三つの誤解とは次の通りである。
すなわち、欲望を欠如あるいは法則と関係づけること、
自然的あるいは自発的な実在と関係づけること。
快楽や、ひいては祝祭とさえ関係づけること。
欲望は内在平面あるいは合成平面の上でつねに
作動配列(アジャンスマン)されており、機械状になっている。
この平面はそれ自身、欲望が作動配列し、機械状になるのと
同時に構築される。私たちはただ単に、欲望が歴史的に
決定される、と言いたいわけではない。歴史的決定は、
法則の、あるいは原因の役割を演じるような、またそこから
欲望が誕生するような構造的審級に訴えるのである。
それに対して欲望は、ひとつの作動配列の諸変数と
そのつど見分けがつかない現実の操作子(オペラトウール)
なのだ。欲望を与えるのは、欠如でも欠乏でもない。
欠如が感じられるのは、自らが除外されている作動配列との
関係においてだけであるが、人々が欲望するのは、
自らが内含されている作動配列
(それが略奪や反乱の結集であるにせよ)によってだけである。
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「ないものねだり」は欲望を押しとどめる戒めとして
使われることが多い。欲望は欠如と関係づけられる、と
おもうのはそれほど不思議ではない。
しかしドゥルーズはもっと端的に欲望を肯定するのだ。
欲望が沸き立つ平面をあらかじめ任意に準備する、
というような芸当はできない。戦うコートを配分して
おくことはできない。欲望の沸き立つ場に自らもそっくり
配分されるからだ。

ドゥルーズ=欲望

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欲望に主体はない。これはドゥルーズの持論です。
言表行為に主体はない。これもそうです。

ドゥルーズに縁がない人は驚くだろうと思う。
「欲望」と「言表行為」は精神分析の素材でもある。
それもきわめて重要な素材だ。
その「精神分析」をドゥルーズはさまざまな場面で
おおいに(?)批判している。
『アンチ・オイディプス』。『記号と事件』。
『ディアローグ』には第三章
「分析せよ死せる精神分析を」がある。

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子供ににおいてさえ、
諸々の作動配列(アジャンスマン)からなる
もろもろの政治しかない。
この意味であらゆるものは政治的である。
プログラムしかない、あるいはむしろダイヤグラムや
平面しかないのであって、記憶も幻想さえもない。
生成とブロックしかない。ブロックとは
幼少期のブロック、女性性のブロック、
動物性のブロック、生成の現働的なブロックのことであり、
記憶に関するもの、想像的なもの[想像界]、
象徴的なもの[象徴界]など何もない。
欲望は、形象的ではないのと同じように象徴的な
ものでもなく、シニフィアンでないのと同じように
シニフィエでもない。
欲望は相互に交叉し合い、結合し合い、あるいは
妨害し合う様々な線によって、内在平面の上で
しかじかの作動配列(アジャンスマン)を構成する
様々な線によってつくられるのだ。
しかしその平面は、当の平面を合成するそれらの
作動配列(アジャンスマン)に先立って、
その平面を描くそれらの抽象線の先立って
存在するのではない。
(『ディアローグ』第三章)
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過激ですね。
「精神分析」の批判です。このなかには
「ぼくの欲望」といってみたところで当のぼくの
主体性などないことを示唆しています。
また、「内在平面」(存立平面)がどのようなものか、も
垣間見えます。

来るべき映画

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スクリーンはもはや
(その背後に何かがひそんだ)窓でも、
(その内部に何かを秘めた)フレーム=ショットでもなく、
その上を映像が「データ」のようにすべっていく
情報端末になった。
しかしほかでもない、世界が
「自前の」映画をつくり、それがテレビによって
直接の管理をうけ、瞬時に処理される、
しかもテレビは〈代補〉の機能をことごとく
排除するとなれば、芸術という言葉を使うことが、
はたしていまでも可能だといえるのでしょうか。
映画はそれをやめなければならない。
映画らしきものを作るのをやめ、ヴィデオ、
エレクトロニクス、ディジタルの映像を相手に
独自の関係を張りめぐらすことによって、
新しい抵抗運動を考案し、テレビがもつ
監視と管理の機能に抵抗できるようにならなければ
ならない。
(ドゥルーズ「記号と事件」)
今日は引用のみ。

生の様式

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いま説明した線は死に直結しているし、
激しすぎるばかりか、速度も大きすぎる。
これは、呼吸もままならないほど希薄な
大気のなかに私たちを引きずっていく線なのです。
この線は、ミショーが放棄したドラッグのように、
思考をあとかたもなく破壊してしまう。
エイハブ船長の「モノマニー」と同じように、
もはや狂気や錯乱以外のなにものでもなくなる。
だからこそ、線を越えることと、線を生き、
活用し、思考することが、同時に必要となるのです。
可能なかぎり、そしてできるだけ遠くまで見越して、
線を生の技芸につくりかえること。
線に挑みながら、もう一方では逃走し、
わが身の保全をはかるにはどうすればいいのか。
この問いが立てられたとき、
フーコーが頻繁にとりあげた主題が表面に出てきます。
(ドゥルーズ『記号と事件』)

私たちは「生きる様式」をあみ出しながら
ひしめく差異を生きる。思考する私は何か線を意識し、
その線に沿うような、あるいは越え、踏み外すような
具合に生きる。構造のただなかにいながら、
属性と様態を一挙に生きる。微分的で即時的な
応答の中に生きる。

対象aでいて

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ログをみてる。たまにおもしろいことに出会う。
アクセスログはmifesで開く。
検索項目に"Android"を入れている。
機種P-01Dと出る場合は普通は自分なんだが、
今朝はP-01Dがyahoo検索で来てるので調査。
「対象aでいて」と検索している。
で、これに新地のドゥルーズが1ページに出る。(笑)
「対象aでいて」とかいう歌があるのかな?

実際に自分のスマホで同じことをしてみる。
ddmsでキャプチャした場面。




模倣者は模倣者同士で模倣しあっている。
だからこそ模倣者はひろく世に受け入れられるのだし、
お手本よりもうまいという印象を与えられるのです。
(ドゥルーズ『記号と事件』)
P-01D=rootedを模倣者として実行し、
ヒマにまかせて記事にする。
だがこの件に関して言えば、
お手本よりうまいことなど何もない。

今日的なアナイス・ニン

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アナイス・ニンを今日的にはどのように感じるか・・。

父との問題(いわゆるインセスト)があって
オットー・ランクの分析を受けています。
ほどなくそのランクとも関係が生じます。
だいたい、分析者と患者の間の「転移」には
「性的関係」も含まれるのだろうか?
それでは治療ができないじゃありませんか。
その時点で治療は破綻したともいえます。
ランクはフロイトの高弟で長い間重要な役職にも
ついていたいわば「業界」の重鎮です。
そんなヒトがいとも簡単に男女の関係に入る。
不思議な気がしません?
(精神分析家にはこの問題はけっこう多い)

『インセスト』は1932-1934の日記です。
アナイス・ニンが30歳になったばかりです。
若い彼女のふるまいは「生の哲学」に立脚すれば
照準はむしろ合ってくるように思います。
ヘンリー・ミラーの場合も同様だと思いますが、
アナイス・ニンとの間にこそ事件が生じるのです。
山を登るヒトにしか遭難は起きません。
アナイス・ニンの「場」や「領域」にしか
起きない「出来事」があったのです。
それはアナイスに沿った方向でシステムの変貌が
発生したともいえる、そんな「出来事」です。
ランクやヘンリーとの間には前-個体的な萌芽があり
それが「出来事」へと実現してゆきます。
ドゥルーズの『意味の論理学』第十五セリーに
照らしてみれば、アナイス・ニンを理解できるような
気がします。
(とりわけ「非人称的で前-個体的な特異性」小泉訳:p186-)
しかし端的にいって、アナイスの出来事が、
彼女の主体そのものの構成に有効だったかどうかは
疑問です。主体化や個体化は逃げていったのでは
ないでしょうか?彼女はつねに「分岐する」存在でした。
日記における集中、内在における拡散。

元来、「出来事」の波及効果はそんなもんです。
「出来事」そのものが生成に関与するわけです。
その意味では誰もがアナイス・ニンを分け持っている、と
いえましょう。こんにち、「生の哲学」的にみれば、
アナイスの発生は私たちの潜在とも思えるのです。
少々レトリックに過ぎましたかね・・(笑)

西瓜糖の日々

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30歳くらいの「わたし」が
住んでる土地「アイデス」、友達の「チャーリー」、
両親を食べてしまった「虎たちのこと」など24の項目(?)に
ついて「あなた」に語る・・そういう書割になっている。
それがブローティガンの『西瓜糖の日々』(藤本和子訳)。
絶版になってたものが今世紀になって復刻される。
そんなわけで図書館にも文庫はないのでしょう。
(以下『西瓜糖』と省略します)

『西瓜糖』は『ドゥルーズ/ガタリの現在』所収のサドッホの論攷、
「言語の流体力学-指令語の射程について」で知った。
そこには「ブローティガン効果」とあった。
『西瓜糖』をジュンク堂で読んでしまおうと目論む。
だけど54ページからの「算数」に少し触れて、
購うことに決した。
物語は「夢」とみていい。
しかしそれはそのとき『夢分析』(新宮一成 岩波新書)を
一緒に購って同時進行で読んだ僕の勝手な解釈ともいえる。

虎たちは「わたし」の両親を食ってしまう。
9歳の時だ。

「おまえの親たちを殺して食べてしまったことについては、
心からすまないと思っているんだよ。でも、わかってほしい。
おれたち虎は悪ではないのだ。ただ、こうしなければならないのだ」
「わかったよ」とわたしはいった。
「算数おしえてくれてありがとう」
「なんのなんの」虎たちは行ってしまった。

両親を食われた虎に算数(九九)を教わるわたし・・
なんという拡散か。これは現働的な様態ではない。夢だ。
さて。昨日のこと。
たまたまNHK-BSで(ワールドニュースのようだった)
子供が枯葉を食べる場面を目撃した。
食料がなく、枯葉を揉んで食べている。
その深刻さを報じた後、「次です」とキャスターは転じた。
「次」はエリザベス女王在位60年記念とやらの
豪華で晴れやかなニュースであった。
夢であってほしいが、こちらは現実的な様態である。
虎:算数=飢餓:記念祝典
僕の目の前で並列に展開されたふたつのことがら。
虎:算数より飢餓:記念祝典の対比のほうがすごい。
酷薄さにおいては、小説よりメディアの方が強度がある。



(NEX-7/ ヘクトール 28mm/ Hektor 2,8cm 1:6,3)

新宮一成『夢分析』

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以下は新宮一成『夢分析』の最終章から。

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ある一日の記憶は、その夜の夢の中で断片的に再生される。
一日の記憶がこのように「日中残滓」として夢の中に
収納されるということを鑑みれば、われわれは、
朝ごとに、あの世に生まれ変わり、昨日のこの世を
夢の中に置き忘れてくるという言い方ができる。
さらに続ければ、昨日のこの世は、実は一昨日のあの世で
あったと言える。
眠りと覚醒の交代は、われわれの心の中に
生まれ変わりの感覚を生じさせている。
こうして「現実」としてのこの世は、夢の奥の奥まで
さかのぼらなければ見つけられないものになる。

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4日まえのことだ。ジュンク堂で、
ブローティガンの『西瓜糖の日々』と
新宮一成の『夢分析』購って読み始めた。
今日それらを読み終えた。
読みはじめ=土曜日=於「シアトルズベスト」。
読み了え=水曜日=於「シアトルズベスト」。
なまけものの僕にしては速いペース。

さて。
『西瓜糖の日々』と『夢分析』の両方を読んだヒト。
少ないとはいえいるには違いない。
その人たちと僕は、たぶん近い場所にいる。
2冊は確かに特別の書物だからだ。
それらを自覚的に(事後的な気づきとしても)選択して読む、
となれば、やはり特別のヒトなのだと思う。

僕の新宮一成体験は以下の4冊です。
成立順に
1.1989『無意識の病理学』-クラインとラカン-(金剛出版)
2.1995『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)
3.2003『夢分析』(岩波新書)
4.2004『精神分析家に人は何を語りうるのか?』(大航海No.51)

何度も読み返してぼろぼろ(バラバラ)になった新書。
ドゥルーズ哲学がどうあろうと、僕はこれらを手放せない。
それは僕固有の属性なのだ。僕の内在なのだ。
それこそ「体内空間」なのだ。(笑)

『西瓜糖の日々』を『夢分析』と同時並行で読む。
それかあらぬか『西瓜糖の日々』が夢の語らいのように
読めてしまう。不思議な体験だった。
鱒と水中の墓、これは夢解釈の対象になる。きっと。
そういえば、インボイルもマーガレットもポーリーンも
いや人物のみなが、夢のなかの「あのひとたち」のようなのだ。



(NEX-7/ ヘクトール 28mm/ Hektor 2,8cm 1:6,3)

樫村晴香を受け入れる

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(NEX-7 アンジェニュー28mm F3.5 TYPE R11)

花村誠一を、あるいは新宮一成を読んだりする。
なにより
樫村晴香の『ドゥルーズのどこが間違っているか?』は
定期的に読み直しをする。

ホンマなところドゥルーズは僕にとって何なのだろう?
ドゥルージアンの論考は実体的に生きうるか?
それはずっと思ってきたことだ。
自分を振り返れる年齢にきている。
振り返れば、即自的でその場その場の「自己産出」を
生きてきた、と自覚できる。
だからドゥルーズは僕の性(しょう)に合っている、
そう感じてきた。今もおおむねそうだ。

それでもこのトシになると少しずつ改まる自分を
感覚する。「改まる?」なんじゃ、それは。(笑)
ああ、なんじゃろ、それは。
暗室作業を再開する、昔のポップスを聴いて感じ入る、
村上春樹の新しいホンを買おうかと迷う・・
どうも、それらの根は同じもののように思える。
で、樫村晴香のこんなところなのだ、常に気にかかるのは。
//////////////////////////////////////////////

例えば、器官なき身体の概念も、
その構成途上での、流体的-尿道的なものといった、
固有の局相をもつ部分こそが本当は印象的で、
これは、キャロルやカフカ等々において、
常に「流動的」な、身体の「部分的-瞬間的伸縮運動」に
ついて語られる時、同時に喚起される。
そして、ベーコンの絵に端的に見られるような、
カタレプシー的ではなく、逆に分離的な身体運動、
―つまり言語-意識総体の圧力(抑圧)を背景に、
意識の完全な外部から原初的な運動が回帰-突出し、
あるいはそれが兆候として利用される、
神経症-分裂病的、あるいは倒錯的な過程ではなく、
身体制御回路それ自体の
ある種オーバーフィードバック的な事件によって、
言語回路を経ずに生ずる、
いわばローカルな身体表層の異変についてこそ、
彼の記述は光っている。
おそらく、彼自身が内在的に抱えていた
「偽装」のイマージュとは、
ニーチェのように分裂病的な、全存在-思考に起動され
主体を巻き込んでいくハードなものではなく、
言語を完全には介在せずに、身体制御上の一領域で
起動されるものだったに違いない。

//////////////////////////////////////////////
諸氏よ、どうです。彼のこの明察は!
僕はね、この部分に限らず基本的に樫村論文を受け入れる。
実は樫村晴香を「受け入れること」が
僕のなかでドゥルーズの「強度」が増すことに
はずみがかかる。奇妙なもんだ。
いや奇妙じゃない。なぜって、
樫村のこの部分はドゥルーズの魅力を
それこそ正当に語っている。
アナタにはどうです?
そうじゃありませんか?
精神医学・精神分析的なアプローチと
僕自身にも生起する「ローカルな身体表層の異変」は
僕の二股DNAの所産です。血に記されているのです。

様態の変容(変様)

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(NEX-7 VISO ELMAR 65mm/3.5 属性:酒類)

「属性」というものがある。
人であるか植物であるか。
男であるか女であるか。
会社勤めか自営業か。
単身か同居人ありか。
アナログかデジタルか。
手動か自動か。
現代の研磨か手磨きのレンズか。
化学調味料が使われているかそうでないか。

そのような区別があり、属性が決定付けられる。
男性ならばその属性に沿ったトイレに入る。
間違えればトラブルが起きる。(僕は間違えた)
属性に応じて男のトイレに入れば、つまり
適正な「様態」であれば、
僕は女性から睨まれることはなかっただろう。

しかし様態は変容(変様)する。
触発の波を受けた属性はカガク変化する。
女性の服をまとい、化粧をする。
乳房、性器ですらもカガク変化する。
すると彼は属性「女」に成ってゆく・・

これ、なに?の経験が多いほど
たましいは豊饒に触れるだろう。
僕はそう信じている。

ヒト=物

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(NEX-7 VISO ELMAR 65mm/3.5)

NEX-7=ビゾ用レンズのテーブルフォト。
属性が分からなくなることにもなる。
もともと属性とその様態は
「これなに?」のトポグラフィックなものなのだ。
猫に僕はどのように見えてるのだろう?
そんな素朴な不思議の中に
ヒトの属性と様態の特異な連鎖を解するヒントが
あるのだろう、と考える。
少し思いを凝らせば、ビゾレンズでみた世界は
僕たちの様態とほとんど同じものだということに
思い至るかも知れない。もしかしたら、だが。

僕たちはまずは物体であり、最後も物体で閉じる。
閉じる?いや、焼失(消失)、かな。
卓上の物体がいつか雲散霧消するように
ちょうどそのように僕たちは消えてゆく。

ドゥルーズ 自己享楽

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(SONY NEX-7 Hektor 2,8cm/6,3 拡大画像あり:久留米)

self-enjoyment=自己享楽とドゥルーズが呼んだもの、
それについてはアガンベンが触れている。
(「人間と犬は除いて」現代思想 1996)

僕たちが手に入れたいと切に願うのは
「責務」を達成する充足感ではない。
花や牛すらも観想するのであれば、
どうして僕たちが観想しないでいられようか?
自らを観想し享楽することは
ヒトの第一の命題なのだ。
哲学をすることと食すこと、
哲学をすることとレンズをこねくりまわすこと、
それらは同じトポスで論じられねばなるまい。
EOS5DMK2=アンジェニュー(Angenieux )35-140mmを
もって出る。
その日の反省的=クロノス的記述です。

ヒトは事態の縁(へり)に触れる。
そしてそれを知っている。
ベルクソン的「延長」とでもいう日常に
刹那的=発作的「情動」が重なる。
いかにも主体は触発されたのです。
ですがわが身を触発しフェイントをかけてもいるのです。

カメラが持つ手にひんやりとする。
風は強い。
雲の動きもいつもよりある。
シャシンとしてはいい日だ。
アンジェニュー(Angenieux )35-140mmの
手持ち動画にはどうだろう?
風がある。ノイズは出るだろう。

内在の平面と「外」の、往来=亀裂するなかに
ヒトは生きている。そんなふうに生きる生しかない。

だみ声はカットしようかと思ったが、
「そんなふう」をみたほうがリアルでしょう。(笑)
320*240のflvです。



(拡大画像あり)

「教会がある日常」とかいうコンテストの記事をみた。
朝日の主催だから手前味噌にはなる。
僕にとって「問題」なのは
それらにちっとも感応しないことだ。
以前からそうなのだ。
ドゥルーズの言う「知覚のドア」まで連れてってもらえない。
全日写連的、とでもいうかそのテの絵に僕は
少しも勃起しないのです。不感症なのです。(笑)

芸術作品は、とドゥルーズは言う。
『芸術作品は、或る感覚存在であり、他の何ものでもない。
すなわち、芸術作品は即自的に存在するということだ。』
(『哲学とは何か』財津理訳)

その絵に立ち上がるものを感じないいじょう、
絵はその場で立ち枯れる。壊死する。
被知覚態、加えて変様態としての僕の皮膚に
侵入して欲しい。悦びを知りたい。が、それはない。

デジカメの普及でだれもが容易にシャシンが撮れる。
それらをブログに、置き場に、twitterに、Flickrに・・と、
ふんだんに展示できる。とてもいい時代だ。

むろん、コンテストに入賞することはうれしいことだ。
「よかったね!」。賞賛、それは惜しまない。
だが私たちが望むのはやはり「知覚のドア」を
押し開く絵をものにすることだ。
ことほど左様に手に入るものではない、とも言える。
あるいはいまここの卓上にそれがある、とも言える。
諸氏や如何?

Summaron 3.5cm/F3.5

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医療センターの待ち時間は読書=ドゥルーズと
決めている。本日は『スピノザ』。
PSAマーカーの結果が出るのは1時間半後。
それが出てもさらに1-2時間待つのが普通なのだ。
でまあ今日は受付じゃなく院内の「ドトール」で
コーヒーをしながら待つことにする。
とりあえずパナR8を持ち込む。
今日は黄砂のせいなのか喉がとても痛い。
気温があがり今この場所「ドトール」も暑い。
こんな日の黄砂は強敵なのだ。
硫酸=エアロゾルの刺激でヒリヒリする。
匂いにいつもより敏感に反応する。
特異体質の男はつらい。
(拡大画像なし:taken Elmar 5cm/3.5 on NEX-7)



PSAマーカーはやはり漸増している。
いずれ再度の針生検ということなのだそうだ。
やだなあ、あれは。
要するに前立腺癌は様子見なのだ。

さて。
今朝はその持病の頻尿で3時にトイレ。
その後眠れず4時ころから暗室でプリント。
M5=Summaron 3.5cm/F3.5での福岡天神のもの。
黒縁を出すためにヤスリをかけたネガキャリアで
カビネをざっと20枚ほど焼く。
(拡大画像なし:taken Elmar 5cm/3.5 on NEX-7)



惚れ惚れするくらいいい感じだ。
昔16万円の出費で、いわゆる160万台の
ブルーコーティングのSummaron 3.5cm/F2.8を入手したが
それには貧しい記憶しかない。
ブルーコーティングうんぬんが恥ずかしいことだが、
要するにライツのレンズのことを知らない男の過ち。
今のSummaronは3万円もしない個体だ。
そんなもんです。
あの時(昔)はライカレンズに縁がなかったのだ。

少し気になるのはフィルムにすり傷が目立つこと。
原因はなんだろう。
100feetからパトローネに詰めるときか?
マスコローダーでてこずって傷つけたか?
フィルムを吊るしたあとのスポンジ拭きか?
ネガシートにゴミ?それともネガキャリア?
クサイところはいくらでもある。
まあそれくらいぞんざいな作業しかしてないのかな。(笑)
いいさ。中身が勝負。フィルムの傷は愛嬌。とかなんとか。

今しがた「そらまめ君」をチェックしたらば、やはり。
(拡大画像なし)



サドッホというのはユニット名で、ググルとすぐにわかります。明治学院の澤野雅樹は
ここをクリック。
彼ら(うちひとりは女性)の論文も知れます。

「言語の流体力学」は『ドゥルーズ/ガタリの現在』で読むことができる。僕の好みである。それがあなたに親和性があるかそれとも
考えたこともないようなことかは・・読んでみなければわからない。(笑)「私の履歴書」でかつて有馬稲子がやり、今度はそれを佐久間良子がやった。そんなことをする人がいて、そんなことはしない人がいる。言語の力学に感応する人がいて、そうでないひとがいる。僕には新宮センセ=ラカンが手放せないように、「言語の流体力学」のような論文は手放せない。僕の中では同族なのだ。僕がそんなヒトなのだ。

わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。
わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。
あなたがわたしの名前をきめる。
あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ。
(リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』:孫引き)

『千のプラトー』の「4.1923年11月20日 言語学の公準」には、「指令語のアレンジメント」という図版がある。フリッツ・ラング。映画のスチール?「言語学の公準」と同等のインパクトがある。サドッホの「言語の流体力学」は「指令語のアレンジメント」=「言語学の公準」と切り離せない論文だと思ってます。

アンジェニュー10mm

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『ドゥルーズのどこが間違っているか?』続き。アンジェニューの10mm。NEX-7につける。無限遠はこない。そもそもピントリングそのものがない。扱いにくいがそこは「遊び」である。



緑のリングは自作。1mmくらいの厚み。オルファのコンパスカッターで作る。ダイソーで買った下敷き風の素材だ。ちょっと硬くて切り抜くのに難儀する。これら2枚を重ねてCマウントに装着。すると「超接写」ができる。



F11で日中室内_発光ナシ。拡大画像の樫村晴香が読める大きさにしています。
「言葉のサラダ」。樫村晴香で知った。分裂病の患者がそれをやるのを録音できいたことはある。大学の講義で。そのとき講師は、これは「言葉のサラダ」です、と説明したのかもしれない。が僕は樫村晴香で知った。リソースは『ドゥルーズのどこが間違っているか?』である。1996年の「現代思想」1月号です。ときどき読むことにしています。僕にドゥルーズからの転回はありうる、と予想する。いや、これは「身振り」かもしれない。安全牌として樫村を端牌に安置・・(笑)。樫村晴香の批判はずっと気になる。ニーチェは「言葉のサラダ」状だが、ドゥルーズは違う、と樫村センセは言っている。「正月とは全身の毛を剃ることです」というときその意味内容は身体作用なのだ、とセンセは言う。精神分析の立場も同様だと思う。「幻想はいわゆる観念の産物ではなく、身体の中に現実の支えを持っている」とは新宮一成である。ニーチェは強度と反復でそれこそ身を挺して生きた。いっぽう僕のドゥルーズは実にあいまいだ。Rayqual=宮本製作所のM42-EOSアダプタが届く。取り付け部分を10mmシネレンズで。↓(部分拡大画像あり)


下はEOS=アンジェニュー35-140mmで。↓F値は開放。ISO1600。80mm付近。ピントは冊子の白い文字。(拡大画像なし)縦位置で撮りました。このレンズはもともと35mmフィルム用です。フィルム面に対して映像は縦に映ってますよね。ハーフで。だから同じようにしてみたのです。アハハ。ばかばかしい。

アンジェニュー(angenieux)の映画用レンズを
借りてEOS5Dで試したみた。
いやはや。



たぶんわかる人にしか意味がないことでしょうね。
漁船の電燈笠に合わせてます。
が、そこはやはり映画用レンズです。
対岸の漁船と遠方のピラミダルな経ヶ岳が
同じようなぼけをしています。
そして山の線(輪郭)はきれいに出る。
今様のデジタルビデオ映画ではなくて
昔の映画はこんな背景をしてますよね。
「女が階段を上る時」のおばけ煙突がそんな感じ。
いいですねえ。
こんな遊び写真ができるなんてうれしいねえ。
すごくいい。
ドゥルーズ=シネマ=フランス=アンジェニュー。
これこそ邂逅です。触発し触発された「効果」です。
ちなみにEOSにつけた姿はこんな感じです。



ごついですねえ。これで街のスナップというのは
さすがに無理ですか。
さてこの真円のショットはというと
こいつで撮ったものです。



nex-7です。レンズはこれも一応シネレンズです。
やはりアンジェニューです。10mmF1.8ですね。
8mm用?16mm用?
C-NEXのマウントアダプタを使ってますが
無限遠がきません。ワッシャーをはさんで
5.6あたりから遠景がまあシャープになります。
ピントリングはありません。

nex-7ブツ撮りは
先のEOS5Dと映画用アンジェニューということになります。
ややっこしいですね。(笑)
EOSのレンズはAngenieux 35-140/3.5というもので
フルサイズでは隅がケラレます。
はじめの円形に近いのはワイド側。これは単にフード効果。
ムード満点のブツですなあ。

ダイソーの額縁

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医療センター での待ち時間はドゥルーズの文庫版を読むことと決めている。今日はこの箇所から始めました。エルマー65mm(ビゾ)EOS5Dでひざのうえのショット。(拡大画像なし)



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体についての第二の命題は私たちに、ひとつの体のもつ触発しまた触発される力を考えよと言う。ひとつの身体(またひとつの心)を、その形やもろもろの器官、機能から規定したりしないことだ。スピノザにとってひとつひとつの身体や心は、実体でもなければ主体でもなしに、様態であることを、スピノザの読者なら誰でも知っている。ドゥルーズ『スピノザ』第6章。

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さて。「ダイソー 額縁」でググルと、花火のようにアイテムが出てくる。これはいい、と店に出向く。おもしろそうなフレームを6コ買う。そしてさっそくつくってみる。(拡大画像あり)



縦フレームの中のマットは厚紙で自作。横はのりパネに貼ったA5サイズをダイソーの卓上イーゼルを使ってみる。たのしいではないか。(笑)4000PXの連続供給をやめて純正インク。もうさまざまなICCプロファイルを試してみる。(30コ以上かなあ。あのsGrayも。)たどりついたのがこれらの色。モノクロはPhotoshoでredチャンネル、編集のグレースケール。ICCはSILKYのPM40PBWP=実はこれはWaterPaper P.(PK)だ。Photoshopの作業用プロファイルでグレーの読み込みをいじっても、最終的にはICCにもっていかれる。一方カラーはsRGBを使うと暗いホンマタカシ風味になる。エプソンのマゼンタを嫌うぼくはこの青みを偏愛している。つまりはICCを自作するしかないのだろうねえ。

内在とは

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ひとは速さ、遅さによっていつのまにか物のあいだにはいりこみ、他のものと結びついている。ひとはけっして始めるのではない。白紙に還元するのではない。ひとはいつのまにかあいだに、ただなかにはいっているのであり、さまざまなリズムをともにし、また与えあっているのである。
ドゥルーズ『スピノザ』第6章

僕たちの身体と精神が、どのように作動し持続し転回するかを現前に示すことは誰にもできない。誰であっても自らの刻一刻の微分的な「展開」を説明などできはしない。僕たちの内在はそれこそいつも小さな津波に襲われる。それを生きそれを反復して差異にみちた日々を送る。ドゥルーズのいうように、何かを始めたのではない。いつのまにか、そうなっていたのである。


SUMMICRON-R 50mmF2 EOS5D

Elmarit-90mm2.8

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うむ。ここまでやるとは正直考えてなかった。
スピノザの『エチカ』第三部「諸感情の定義」。
その3に「喜びとは、人間がより小さな完全性から
より大きな完全性へと移行することである。」とある。
より大きな完全性、の一例。↓(拡大画像なし)



触発を受ければわが属性が変わり様態も変化する。
EOS5DにMマウントライカを取り付ける。
こんなこともできるらしいのだ。
これはElmarit-90mm2.8というもので
170万台のレンズ。1959年製ということになる。
僕の10歳の時のレンズだ。いやはや。
(拡大画像あり)↓



絞りはすべてF8です。spot測光。ISO100。-0.3EV。
EOS5DMark2につけるとファイルが大きくなる。
検証がてらにPCでさくさく扱うには5Dのほうがいい。

「人はよいと判断して選択するのではない、
選択したからよいと判断するのだ・・」
というようなことをドゥルーズはどこかで言ってたねえ。
どこだったろう?

テストステロン

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身体と精神の結びつきについて、
古くはスピノザの『エチカ』に多くを学ぶことができる。
「私たちは、身体の力と精神の力について本当に何も知らない」
とは小泉義之の言である。
両者の間には広くドゥルーズの領野が横たわる。

脳生理学がスピノザの時代に発達していたら
『エチカ』はどう書かれていただろう?
それに「あの有名な人」=デカルトは
松果腺などというものを考えなかったでしょうね。

ののちゃんと先生=朝日「DO科学」。
「インコはなぜしゃべれる?」を読む。
インコは音を聞き、大脳を経由して声を出す。
サルは人間に近いのにこれがない。
だからインコは人と同じ声を出せるのに
一方のサルは話せない。
だがインコもつがいで飼うと言葉はあまり覚えない。
1羽で飼えば相手は人だけだから、
コミュニケーションの必要から声を発する。
うむ。ちょっと感心した。

それともうひとつ。元となるリソースは
「DO科学」とは別だが、テストストロンという
男性ホルモンのこと。
検索結果知識だが、僕にはこの成分が多いのでは?(笑)
・攻撃的・むきになる・領土を侵されることを嫌う。
・親しさの後の冷淡さ・ひとりになりたがる。
・所有欲・欲しいと思ったら脳裏を離れぬズミクロン。

しかしです、
大脳生理学やテストステロンの知見があろうが
「身体の力と精神の力について本当に何も知らない」
ことに変わりはありません。
科学のことを言っているのではないからです。
むしろ「倫理」のことを言っているのですから。
とは言ってもインコの事態やテストステロンのことを
潜在力=変様へ導くピュイサンス、との思いに触発されて
記事にするのでありましょう。

ロレンス『黙示録論』

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ドゥルーズの『批評と臨床』第6章に
いざなわれるようなかたちで始めたロレンスの
『黙示録論』を大晦日に読了。
これは若き福田恒存の力技=偉業だと感じた。
福田といえばまあシェークスピアだ。
その福田訳をそっくり使って
高校生演劇=『ベニスの商人』を
やったことがあったなあ。笑える。
若いときはニンゲン何でもやる。
いやちがう、ニンゲンは死ぬまで何でもやる。

ロレンスは『黙示録論』を仕上げて
その2ヶ月後には45歳で死ぬ、とある。
しかも速筆2ヶ月で校了した遺作。
アポカリプスの最終章では
「個人は愛することはできない」と結ばれる。
愛の不可能性を断じ、「私は大いなる全体の一部」
と言い放つ。唐突に「構造」がくる。

そうした最終章は奇異に思える。が何か
ロレンスの衝迫=叫び、不幸を感じ取る。
死を予感していたのではなかろうか・・・
同時進行でロレンス=『アロンの杖』を
読むがこちらは100ページくらいで放棄した。
ちょっと現在には「退屈」が過ぎる。

福田恒存の仕事はすばらしいと思う。
これを残した「ちくま学芸文庫」に感謝。
「訳者が混同したか」と指摘する箇所、(P338)が
ほほえましい。

ロレンス「黙示録論」

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当地の県立図書館に依頼していた
ロレンスとニーチェが24日に届く。
クリスマスプレゼント、お年玉、だ。



さっそく『黙示録論』からはじめる。

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至るところ、つねに権力標識のみ、
愛の標識は見出だしうべくもない。
つねに全能なる征服者クリストが
大いなる剣を閃めかし、無数の人間を殺戮し、
ついには血の海が馬の轡に達かんとする光景に
掩われている。
救世主クリストなどはどこにも求められない。

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ここにはPDFがあります。

さて。
上記のページは、
本書のテーマがよく出ている箇所です。
1.ドゥルーズが指摘するごとく
ロレンスは惹かれてもいます。
パラドキシカルなロレンスがいい。
2.画像でみて(読んで)気づくことがあります。
福田恒存そのひとの訳注が多い。
本書の3割は実に訳注なのです。
ですから新訳は出せませんな。(笑)
おそらくこれ以上のものはありますまい。
3.いわゆる『欽定訳』が最高だ、と
福田恒存は言う。これは文語訳のことです。
ロレンスが特殊な訳書で例示しても
福田は文語訳を当該箇所に割り当てる。

熱意ある方のために

ここに「ヨハネの黙示録」の文語訳PDFを。

愉悦なるかな、読書!

家政婦のミタ

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ロレンスは、黙示録をひどく嫌っていながら、
その嫌悪感をとおして、この本に対して不可解な共感、
さらには一種の賛嘆の念まで抱いてしまう。
まさにこの本には沈殿物があり、層をなしているからだ。
ドゥルーズ『批評と臨床』第6章。

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妻の話だと「ミタさん」の最終回はつまんなかった、と。
それはそうだろう。
最終回視聴率は40%でこれは歴代3位とか。
あのドクターズバッグをグッズとして売り出す・・・
価格65000円なり。
何かどこかがつまらない平凡な現象だ。
朝日の記事にへえ、と思いはしたものの、
脚本は陳腐=破綻しているように僕にはみえる。
仕事のできるミタさん、家族の幼稚な振る舞いは
ステレオタイプでクリシェに過ぎる。
皮相しかみえてこないのだ。
皮相は重要ではあるがその下に層がない。
ミタさんが不気味にふるまっても、
ちっとも怖くないのはそれがクリシェに終始するからだ。
上澄みがあっても沈殿物がない。
妻の妹の気持ちに気づかない男、あるべき層=陰影がない。
つまりかのドラマには、
ロレンスの「無教養なウェールズ人の坑夫」がいない。
のっぺりとした白痴的な群像だけなのだ。
視聴率こそがテレビの価値だ。世界中そうなのだ。
資本の論理といえばそれまでだけど、なぜそんなドラマが
もてはやされるのか?衆愚とはそんなものか?

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テレビの内側で、しかも(人に質問する、人にしゃべって
もらう、意外な映像を見るといった)テレビの根本に
かかわる要素を変革するような番組をてがけるというのは、
とても許されることではないのです。
ドゥルーズ『記号と事件』(Ⅱ映画)

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ロレンス「黙示録論」

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『批評と臨床』には検査入院のお供になってもらう。(笑)
その第6章、
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」
その章の原注"Apocalypse"を読むために
福新樓のあとはとりあえずジュンク堂へ向かう。

ロレンスの『黙示録論』である。
福田恆存訳なのだが
2004年、ちくま学芸文庫版である。
ドゥルーズの原注あたりから読み始める。
予想はしていたが拾い読みというわけにはゆかぬ。
分厚いのです、これが。
買うとまた死後の残滓がふえる。
この日は同じロレンスの『アロンの杖』や
ニーチェにもあたるつもりでいたのだが
はやばやと頓挫したかっこうになった。

今日になって当地の県立図書館へ
ニーチェ全集の第13巻を含めて借り受けの
予約を入れる。退院したころには着くだろう。
キリスト教にはそのひとはいない。
初期キリスト教にすらそのひとはいなかった。
そのひとは弟子たちのあいだでさえ孤独であった。
「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
むしろ何かを察知したのはピラトのほうかも知れぬ。
十字架をになったクレネ人シモンのほうが
弟子たちよりはマシだったのだと思う・・・

あ、でもどうでもいいことですね、そんなこと。
パトモスのヨハネの幻視がすごいなら
ロレンスのそれはもっとすごいと思う。
尋常ならざることは同じです。
3日間僕は科学の臨床の被験者となります。(笑)
『批評と臨床』はせめてもの僕の対抗の線ですが、
ひしめく差異のなかどのような積分としての魂が
産出されるのだろうか?
「流れとしての、流れの集合としての自分、
しかも他の流れと、自己の外で、そして自己の内で
関係を持つ自分を生きること」
(第6章より)
ドゥルーズの『批評と臨床』には
珠玉の論考がちりばめられている。そのひとつが第6章の
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」である。
僕は高校生の時分に聖書に親しんで、
ついにはバプテスマを受けたくらいだから
聖書の熱心な読者であった、といってもいいだろう。
『ふしぎなキリスト教』がすこぶる痛快だったのも
僕のそうしたキャリアにもよる。
この第6章がお気に入りなのも、
『ふしぎな』の場合と根は同じなのです。
お断りしますが、ロレンスの
『黙示録論』については不知です。
ドゥルーズだけに準拠してます。
まずは冒頭から3ページ分全部あげますね。
気になる人は読んでみてください。
ロレンスもニーチェもドゥルーズも
キリスト教のまがまがしき秘密の胚に触れる。
凡庸な「信者」には姿を見せない核心がある。
見過ごすどころか、凡庸な「信者」には影さえ見えない、
そんな核心なのだ。
「キリスト教にはイエスはいない」
そんなふうにも思えてくるのだ。

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それは同じ者ではない、同じ者でありえるはずがない・・。
福音書と黙示録を書いたのが同じヨハネかと問う学問上の
議論にロをさしはさんだロレンスは、そう述べる。
ロレンスはきわめて情熱的に論拠を出してくるわけだが、
そこまで強く言い立てるのは、評価方法、
つまりは類型法がからんでくるからだ。
福音書と黙示録を書いたのは同じ類型の人間ではない。
だからといって、両者の本文のそれぞれが
複雑だったり複合的だったりするとか、
結果的に違うことをいくつも作りだしている、
というわけではない。
問題となっているのは、二人の個人、二人の著者ではなく、
二つのタイプの人間、魂の二つの領域、
まったく異なる二つの集合なのである。

福音書は貴族的、個人的で、甘く、愛情にあふれ、
退廃的で、まだかなり教養に満ちている。
黙示録は集合的、大衆的で、教養とは無縁で、
憎悪に満ち、野蛮だ。
誤解を避けるために、こうした言葉の一つひとつを
説明しておくべきだろう。だが、すでに福音書の著者と
黙示録の著者は同じではありえなくなっている。
パトモスのヨハネは福音書の著者の仮面をかぶる
ことすらできないし、キリストの仮面もかぶれず、
もう一つ別の仮面を作り上げる、
もうひとつ別の仮面をでっちあげ、それは、
われわれの好み次第で、キリストの正体を暴いたり、
キリストの仮面に重なったりするものとなるのだ。
福音書とキリストが人間的な愛や
宗教的信仰への愛に磨きをかけていたのに対し、
パトモスのヨハネは宇宙的な恐怖と死のうちで
仕事をする。
キリストは愛の宗教
(信仰ではなく、一つの実践、一つの生き方)を
創り出したが、黙示録は権力の宗教―一つの信仰、
一つの恐ろしい裁き方―をもたらす。
キリストの恵みに取って代わる、無限の負債。

ロレンスの文章は、もちろん、黙示録を読んだあと、
あるいは再読したあとに読むほうがいい。
そうすれば、黙示録の今日性、
ひいてはそれを告発するロレンスの今日性を
理解できる。
この今日性は、ネロ皇帝=ヒトラー=反キリスト者
といった類の歴史的照応に存するのではない。
かといって、核や経済や環境の分野で
SF的なパニックを引き起こす世界の終わりとか
千年説に存するのでもない。
われわれが黙示録に浸りきっているのは、
むしろ、黙示録がわれわれの各人のうちに生き方、
生き残り方、裁き方を吹き込むからだ。
それは、自分は生き残りだと考える者一人ひとりの
ための書物である。ゾンビのための書物なのだ。

ロレンスはきわめてニーチェに近い。
ニーチェの『反キリスト者』がなければロレンスの
著作も存在しえなかったと仮定できるほどだ。
しかしニーチェ自身も開拓者だったわけではない。
スピノザでさえ違う。
幾人かの「幻視者」が、キリストは愛する者なのに、
キリスト教は死の企てだと対比させた。
彼らはキリストに対して特別の好意を抱いて
いるわけではないが、キリストをキリスト教と
混同しないようにする必要を感じている。
ニーチェにおいては、キリストは聖パウロと
まっこうから対立している。キリストは、
古代ローマ退廃期の人びとの中でも最も優しく、
最も愛情に充ちた人間、いわば仏陀のような存在で、
われわれを祭司による支配から解放し、
誤り、罰、償い、審判、死といった観念のいずれからも、
そして死のあとに来るものからも
われわれを自由にしてくれた―こうした福音の人に、
キリストを十字架の上にとどまらせ、
絶えず十字架に戻しては蘇らせ、
永遠の生についての重心をそっくりずらし、
以前の祭司よりさらに恐ろしい新しいタイプの祭司を
創り出す黒き使徒の聖パウロが二重写しになってくる。
「祭司職の専横を基にした彼の技術、
人だかりを作り出す彼の技術、要するに不死の信仰、
つまりは審判の教理」。

ロレンスも対立を取り上げるが、
彼の場合はキリストを、黙示録の作者である赤き使徒、
パトモスのヨハネに対立させるのだ。
これはロレンスにとって死を招く書となるが、
というのも、喀血で真っ赤に染まる彼の死に先立つこと
わずかな時期に書かれたのであり、
それは『反キリスト者』がニーチェの精神的瓦解の
直前に書かれたのと同じだ。
死ぬ前の最後の「喜ばしきメッセージ」、最後の福音だ。
ロレンスがニーチェを模倣したと言いたいわけではない。
むしろ彼は矢を、ニーチェの矢を拾い、
別の場所で違う方向に向け、異なる彗星をめざし、
別の公衆に囲まれてもう一度射る。
「自然は哲学者を人類の中に矢のように送り込む。
どこかを狙っているわけではなく、
矢がどこかに引っ掛かったままでいることを望む」。

ロレンスはニーチェの試みを繰り返すが、
標的を聖パウロではなくパトモスのヨハネに据える。
最初の試みと二度目の試みでは多くのことが
変わっていたり、補い合っていたりするが、
共通のものが積み重なって力を増し、新しくなるのだ。
キリストの試みは個人的なものだ。
個人は、それ自身では、集団とそれほど対立する
わけではない。だがわれわれ一人ひとりのうちで、
魂の異なる二つの部分として、
個人性と集団性が対立するのである。
ところが、キリストはわれわれのうちにある集団的な
ものにはほとんど訴えかけない。
彼の問題は「むしろ祭司職=旧約聖書の集団的体系、
ユダヤの祭司職とその権力の集団的体系を
解体することだが、それはただこの不純物から
個人の魂を解放するためである。
皇帝はといえば、
キリストは彼にその取り分を残すだろう。
その点においてこそ彼は貴族なのである。
彼は、個人の魂の錬磨をすれば、
集団の魂の中に埋もれた怪物を
追い出すのに充分だろうと考えていた。
誤った策だ。集団の魂との関係、われわれの外にせよ、
内にせよ、皇帝との関係、われわれの内にせよ外にせよ、
権力との関係を自分自身で切り抜けるように、
彼はわれわれに仕向ける。
この点に関し、彼は使徒や弟子を失望させ続けてきた。
彼はわざとそうしているのではないかとまで思えてしまう。
彼は主人になろうともしないし、
弟子を助けようともしない
(彼らを愛するだけだ、と彼は言っていたが、
その裏には何が隠されているのか?)」。

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概念的人物

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映画館を出たとき、
自分がいまみた映画のヒーローででもあった
かのような気分で歩いたことはありませんか?
そのとき実際にヒーローになっていたのだと
ぼくは思います。
内在する平面に「概念的人物」としてのヒーローが
顕れていたのです。
もちろん
映画のヒーローがそこに存在したというのではなく、
あなたがヒーローに成った、という具合にです。
ドゥルーズの言葉を引きましょう。

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しかし、概念的人物というものは、
ニーチェにおいても他の誰においても、
神話的擬人化でも、歴史上の人物でも、
文学あるいは小説の主人公でもない。
プラトンのソクラテスが、《歴史》に登場するソクラテス
ではないように、ニーチェのディオニュソスは、
神話に登場するディオニュソスではない。
生成〔~になる〕は、存在〔~である、~がある〕
ではないのであって、
ニーチェがディオニュソスに生成すると同時に、
ディオニュソスが哲学者に生成するのである。

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さてもうひとつ、「隠れた三人称」のこと。
「隠れた三人称」を証拠立てする例、
〈私は父親としてお前に話してるんだ〉・・
この場合《私》とは誰のことか?
「隠れた三人称」のことでししょうね。
だが「隠れた三人称」は概念的人物ではない、と
ドゥルーズは言っているのか?
どうもはっきりしないように読める。
「哲学的転位語」と言っている。
「父親として」が「愛するものとして」に転位すれば
(「仲介者」が代われば、ということ)運動は異なる。

「生成」と「転位」は同じようなものではないか?
つまり仲介者がいて
その者がとってかわって運動をなせば、
《私》はじゅうぶん「成って」いる。
よって僕の結論、以下のものたちは同じように
概念的人物の電荷を帯びている。
①映画館を出た男
②ディオニュソスに生成したニーチェ
③父親としてお前に言う私

内在平面とは

|
『哲学とは何か』には
ドゥルーズにとって重要な概念である「内在平面」の
章が立てられている。「3 概念的人物」がそれに続く。
この箇所の移り行きは蠱惑的だ。
さて、ドゥルーズのセンテンスといっても、
それは「翻訳」されたものであり、
その意味では財津理氏に負うことが多いわけだが、
実際のイメージの塊りは翻訳者の仲介を意識することなく
内在に萌芽し育成もされる。
そのうえで言うのだが、たとえば『哲学とは何か』の
「2 内在平面」の最終部分を読むとき、
そこに「内在平面」が要約されている、と
思ってしまう。それは錯覚か?
僕は実際にはあらゆるページに「錯覚」してしまう。
それが正直な、つまり「告白」なのです。(笑)

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絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに
深い内部であるがゆえに、あらゆる外面的世界よりも
さらに遠い外である。すなわちそれは、内在であり、
「《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、
両者の相互反転」である。
〔内在〕平面の絶えざる<行ったり-来たり> -無限運動。
それはおそらく、哲学の至高の行為である。
すなわち、内在平面ソノモノを思考するというよりは
むしろ、内在平面ソノモノが、それぞれの平面において
思考されないものとして現にあるということを示す、
ということである。
内在平面を、そのような仕方で、
思考の内部にして外部たるものとして、つまり、
外面的ではない外部、もしくは内面的ではない内部として
思考することが必要なのだ。
思考されえないにもかかわらず
思考されなければならないものとは、
キリストがかつて、不可能なものの可能性を
そのとき示すために受肉したように、
かつて思考されたものなのである。

したがって、スピノザこそ哲学者たちのキリストであり、
そしてもっとも偉大な哲学者たちでさえも、
この神秘から離れていたり
それに接近していたりする違いはあるにせよ、
その使徒にすぎないと言ってよいだろう。
無限な<哲学者への-生成>、スピノザ。
「最善」 の、すなわちもっとも純粋な内在平面、
超越的なものに身をまかせることはなく、
超越的なものを回復することもない内在平面、
錯覚を、悪感情を、知覚錯誤を鼓舞することの
もっとも少ない内在平面、
これを、スピノザが示し、打ち立て、思考したのである・・・・。

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いかがです?
プリントアウトしてお便所に貼って、
毎日にらめっこする。と、すっとわかっちゃいます。

猥雑な電線がこの国の「文化」ならば、
それを「卑近美」として絵にすればいいのだ。
大阪=なんば。

映画『流れる』

|
『流れる』(成瀬巳喜男 1956)をみる。
ch239で一回きりなので、録画し忘れないように
張り紙をしていた。(笑)

幸田文の原作が1955年なのだそうだ。
その翌年にはできている。成瀬の気合が知れる。
幸田文=「流れる」の梗概=成瀬巳喜男、それらについては
周辺を自身でWikiしてくださいませ。
落ちぶれてゆく置屋、
そこで暮らす芸子たちをとりまくさまざまな模様を
見てすごすお春(田中絹代)のまなざしがいい。
当時の名女優たちの芸は見事である。
山田五十鈴と杉村春子の 三味線と清元。
人間国宝級ですね。

こんな映画を21世紀の技術で見れるということ、
それがどれほど革新的な「芸術」であるか、
それに気づいている人がどれくらいいるだろう?
「人間であることの恥辱」を映し出すしか能のない
現代アホテレビ。アホ番組。
それを繰り出す同じ機械装置で、
私たちはドゥルーズがなかばあきらめていた属性を
ふたたび手に入れることができるのです。
それこそが「来るべきビデオクリップ」なのだ、と
僕は確信しています。
畏怖して感謝すべきパラドックスです。

ま、それはともかく『流れる』のラスト6分です。
スタンダードです。

内在平面とは

|
「内在平面」はドゥルーズの重要な概念です。
それがどのようなものかも論じられてもきた。
ドゥルーズ自身さまざまな場所で触れている。
ここでは『哲学とは何か』から抜粋する。

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思考するということは、
一般的な無差異〔いずれの側にも傾かないこと〕の状態を
引き起こす。それでもなお、思考することは
ひとつの危険な営みであると言っても間違いではない。
無差異の状態が止むのは、もろもろの危険が
明白になるときだけであるとさえ言えるのだが、
しかしそれらの危険は、しばしば隠れたままである。
ほとんど気づかれず、企てに内属しているからである。
ところで、内在平面は前-哲学的なものであり、
もとより概念によって作動するわけではない。
だからこそ、内在平面は、一種の手探り状態の実験を
折り込んでいるのであり、内在平面の描出は、
ほとんどおおっぴらにできない手段、
ほとんど適切でなく合理的でない手段に依拠して
いるのである。それは、夢、病的なプロセス、
秘教的な経験、酩酊あるいは過度といったレヴエルに
属する手段である。
ひとは、内在平面の上で、地平線に向かって走る。
そしてひとは、たとえ精神の目であっても、
自分の目を真っ赤にしてそこから戻る。
デカルトでさえも、おのれの夢をもっている。
思考すること、それはいつでも、
魔女の飛翔の線を追うことだ。
たとえば、猛り狂った無限運動と無限速度をそなえた、
ミショーの内在平面。
たいていの場合、そうした〔内在平面の描出の〕手段は、
結果のなかには現れないものである。
というのも、結果は、もっぱら結果そのものにおいて
かつ冷静に把握しなければならないものだからである。
しかしそのとき、「危険」は別の意味をもつ。
明白になった諸帰結ばかり問題にしているときにも、
純粋内在がオピニオンのなかに
或る本能的な強い拒絶を引き起こし、
創造された諸概念の本性が
さらにそうした拒絶を激化させるということだ。
それというのも、ひとは、思考するときには必ず、
他のものへと、何か思考しないものへと、或る獣へと、
或る植物へと、或る分子へと、或る粒子へと生成し、
それらのものが、思考に回帰し、思考を再始動させるからである。

////////////////////////////////////////////////////

上記の箇所こそが適切な抜粋だとは思わないが
僕にはこんな言い回しが一番わかりやすいのだ。
なによりドゥルーズらしい表現だと気に入っている。
ちょっと乱暴かもしれないが、

1.内在平面は「概念」とは区別される。
2.内在平面は内在平面そのものの脱領土化へと向かう。
3.内在平面は摘出できない。

そのようなものと理解しているのです、僕は。
子どもたちが社会を震撼させる事件を起こしたときに
教育業界者さんの常套句となる「こころの闇」。
それこそは「内在平面」の諸問題だと思ってきました。
「こころ」といえばまだすむものを「こころの闇」という。
それがものごとを台無しにしている。
「闇」なんかではない。
だれにでもある「内在平面」の諸問題なのだ。
ドゥルーズは難解なことを言っているのではない。
「こころ」はあまりに手垢がつきすぎた概念だ。
新しく「内在平面」や「思考のイメージ」と言い表すことにより
私たちに現に今生きられている生の秘密を解き明かそうと
しているのです。
描出=摘出=表象できないplan(平面)について
実際のところ何も知ってはいないのではあるが。

庭にやってきたアサギマダラ。


デカルトの松果腺

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スピノザは「あの有名な人」の「松果腺」を
認めることができなかった。
「あの有名な人」とはデカルトのことで
スピノザが『エティカ』の最終章でそう称している。
「松果体」は実際に脳にある組織だが、
「松果腺」とはみなさんも知らないでしょうね。
僕も知りません。デカルトの図。↓


まあこんなものだそうです。
デカルトは、これが感情を支配していると
断言したのだそうです。
「感情は支配し得ない」とするスピノザには
それは納得できない概念だったのです。
よって第5部冒頭からこれを批判します。

それはそれとして『エティカ』第3部の
「感情の起源と本性について」においては
私たちに生起するあらゆる感情について細かく
検証している。それはほとんど心理学です。
微細に、几帳面に記述されている。
ついつい飛ばし読みをやってしまう・・(笑)
そんな僕ですから、
くだんの「松果腺」は法螺話のように思えた。
途方もない着想のように感じたのだった。
直接デカルトの書物にあたったわけではなく、
あくまで『エティカ』第5部のスピノザの引用を
通して、批判に同調したわけですがね。

以前にも書いたが『エティカ』はドゥルーズや
上野修に導かれて読んだことになります。
しばしばあのぐりぐりの可愛らしい眼をした
スピノザを思い起こします。
よく引き合いに出される『エティカ』最後の
締めくくりのセンテンス。
「とにかくすぐれたものは、
すべて稀有であるとともに困難である」

よってあなたが、スピノザの著書のようには
行かないことを恥じることはないのです。

てゆーか つーか

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ここでも「情動」はめまぐるしく変様する。
精神は気になる男の子をめぐって
自らの在りようを模索する。
ああじゃない、いやこうでもない、と。

『僕等がいた 第1巻』(小畑友紀)


セリフに「てゆーか」が多い。
「つーか」とか「とゆうか」にもなる。
わずかな差異を表明する場合の
つなぎのような働きをするのだろう。
「ちょっと違うんだけど」とやると
ニュアンスは強くなり、
相手によっては「引かれる」かもしれぬ。
そこで「てゆーか」となる・・。
この時代の気分を表している。
He is vague がいいのだ。

精神が明瞭で十全な概念をつくりあげるまでは
私たちはちょうどこの絵のように
精神と身体を賭けて運動し続ける。
バナナを男の子にあげたいのだけど
「ばーか誰が行くか」と今は抑えている。
しかし彼女(高橋七美)は
きっとある観念にたどりつくだろう。
その流れるイマージュに沿って動くだろう。
ボールは初速や空気抵抗などの
運命を引き受けながらも自ら決定して運動する。
そのように高橋七美も自由に決定し、動く。

こんな場面でこそドゥルーズの「イマージュ」論が
僕の感覚にピタッと合うのです。
映画やコミックがもたらすイマージュは
教師がカリキュラムに即してもたらす教えなどより
はるかに教化的であることを僕は身をもって
知っている。

どうでもいいけどこれは旨かった。


青山景さんの自死

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先日自死した青山景という漫画家の作品を
いくつか読んでみる。
twitterでの彼のつぶやきもWebで見る。
32歳。なんとも若すぎる自死だ。

私たちの内在には微分的な潜在性が充溢する。
そこから現実に出来事が発生もする。
だがそのルーティンをたどり、再現することは
事実上できない。
他者にも想像上の方程式を立てることはできる。
だがしょせんその「解」はない。
いわく、青山景というアーティストは
概念を創り続けたヒトだったのだろう。
すぐれてイマージュに富んだヒトだったのだろう。
解けない微分方程式を抱えたヒトだったのだろう。
・・・そんな感慨で終息するしかない。
今となってはその切断は深く大きい。

以下は、作品『SWWEEET』第1巻。
巻末によくあるボーナストラックです。
拡大して読んでみてください。



本編の外部だからこそ表出することがらです。
作者の自意識の強さが窺える。
これは「自己言及の不完全性」の問題ですね。
「自同律」の諸問題です。
「自同律の不快」というのではありません。
「自同律の快」があるのが現実ですから。

ドゥルーズが言うごとく、
内在の平面は「建設」されねばなりません。
内在の平面は所与のものではない。
自己をどう構成してゆくかと同じことです。
私たちが日々創造してゆくものです。
はっきり言えることがあります。
自己の構成には、手順はない。
不確かで実験的ですらある。
現実には口で言うほど楽ではない。
青山さんは「建設」に失敗したのだろうか?

小泉義之はこのように言う。
「差異を生産する場を運命として引き受けながら
ボールは自ら解を出しながら走る。」
そう。投げたボールがt秒後にどの位置にあるかなんて
決定できるはずがない。

差異と差異がどのような関係にあるのか
極小微分の様相を知ることなぞできない。
予感を受けとめることはある。
予兆におののくこともある。
ならばあらゆる潜勢力=前兆に対抗すべく
われとわが身を放擲することもあるだろう。

そして、ボール自らが描く放物線の軌跡は
再現することはおろか知ることもできない。

小泉=ドゥルーズの哲学

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小泉義之の『ドゥルーズの哲学』は
ドゥルーズって誰?というお方には推薦の書です。
僕のは綴じがほつれるくらい傷んでいます。
中ほどの140ページでバラバラになりかけています。
じゃその140ページてのを「読んdeココ!」に
OCRしてもらいましょう。

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私たちは、身体の力と精神の力について
本当に何も知らない。何も知らぬまま効能にすがる。
ところが効能は、身体の力と精神の力を当てにしている。
療法が効果を現す場合があるのは、
専門家のおかけでもなく、援助やケアのおかげでもなく、
何よりも身体の力と精神の力のおかげである。
そんな力の認識だけが幸福なのだ。
スピノザは『エチカ』の最後で、
身体の観念である精神には何か永遠なものがあり、
それを認識することが最高の幸福であると書いた。
ドゥルーズは、何か永遠なものの認識を、
自然哲学・生命哲学と解した。

だからこうなる。いかに鬱屈していても、
人間が鬱屈するように世界がなっているという
不可思議を認識することだけが、
鬱屈解消で得られるはかない快活とは
比較にならぬ幸福をもたらす。
どんな療法を受けようが、人間は苦しみ病んで死ぬ。
そんな運命の不可思議を認識することだけが、
最高の幸福をもたらす。
「こんな希望を捨てるわけにはいかない」。

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いやはやこの痛快なこと小泉センセ面目躍如である。
これだから小泉センセはやめられない。
運命の不可思議を認識すること、それは「あきらめ」に
似ないとも限らぬ。
すなわちそれもまた「ルサンチマン」と言えよう。
しかしそれは最高の幸福をもたらすルサンチマンなのだ。

妻の歯科治療を待つ間、シグマの8mmをAPSに
つけて散歩した。フードが見当たらず、すっぴんで
使った。板塀の看板を下から仰ぎ見るような絵。
秋の空。(拡大画像あり)

ドゥルーズの「情動」

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『たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、
牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。
競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、
触発される力もちがう。
農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。 』
(ドゥルーズ 『スピノザ』)

第6章「スピノザと私たち」はリマーカブルな章だ。
上記内容もドゥルーズ的で、挑発的ですらある。
僕はドゥルーズひいきです。
よって引用部分もレトリックとしてもなかなか、と思う。
が、「実際にそうなのか?」と疑問に付すことはできる。
どうみても、牛と馬の生物種としての違いは、ある。
牛と農耕馬の「情動群」をどうやって測定するのか?
などと難癖つけることができる。
引用部のコンテキストは、そんな難癖をつけられても
動揺することのないメッセージだとは思うが。

ドゥルージアン、スピノジストの方へ。
必ずや、僕ら自身の新しい「概念」を創造しましょう。
たとい、ドゥルーズやスピノザの生きる哲学をこよなく愛し、
かれらの「倫理」を僕らもまた生きようと思うとも、
押し戴いて金科玉条とはいたしますまい。
僕ら自身を構成する諸要件は個物としてのそれです。
内在の平面は、ドゥルーズが否定したにもかかわらず、
僕ら自身の「プラン」であることは否定できないのです。
今朝はこれを伝えたかったのでありんす。

閑話休題、先日、駅に人を迎えにいきました。
予感がしてカメラを携えました。
その場所での「特権的」な絵を得ました。
シャシン屋(?)個物に到来する出来事です。
そこでの様態や自己の構成は「十全な観念」というより、
「リゾーム」の成果と申すべきでしょう。

雲はもうすっかり秋の雲です。
僕という個物はここまで「延長」を果たしました。
ちなみに列車は「引き」で、向こうに去っています、のです。


今日のパセアルセ

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今日のパセアルセ(pasearse)

いつもの土手を歩き始めるが、
道に毛虫がうようよ。踏み潰されたのも多い。
ウラジロの葉を喰う虫がいる。
ここは今日は歩けない、と思う。
多くの人は気にするふうでもなく歩いている。
だが僕は毛虫アレルギー。よって踵を返す。

さて。そこから思いをめぐらせる。
もともと「散歩」には作用者と受動者の閾はない。
僕のイメージは毛虫に占められ、咄嗟に向きを変える。
そういうことだろう。
イメージ(イマージュ)の中で僕は作用者でもあり、
受動者でもある。そこでの主体(僕)は、主体としての
判断をして、身体は歩きの方向を転換する。

イメージの中で主体を獲得している。
主体の中に散歩のイメージがあり、それに呼応して
身体が運動しているの「ではない」。
この日の散歩の途上に生起した事実は、それを物語る。

同時に次のことが言えよう。
身体と精神が並行して運動していることである。
身体、についてはおわかりでしょう。
このからだ、形相です。
スピノザ的に言えば「身体の観念」が及ぶ形相、
ということかな。
精神は、まあ、観念でもいいし、思惟でもいいでしょう。
ここで厳密にすることはない。
だからイメージ、でもいい。

ふたつめ。
身体は表象されるもの、身体として刻印されたもの、
とスピノザはいうが
僕は非十全だから少し違うように感じるのです。
身体には秘密がある。精神にも秘密がある。
身体の秘密はまず身体によって隠されている。
また身体の秘密は精神によっても隠されている。
同じように、
精神の秘密はまず精神によって隠されている。
また精神の秘密は身体によっても隠されている。
そのように思う。
さまざまな属性には秘密のにおいがする。
パラドキシカルな継起、変様もそうだ。
そのような結節点において自己の構成を果たしている。

みっつめ。よってパセアルセは
オートマトンのある種の概念と似るかもしれない。
定かではない。
「十全な観念」(スピノザ)をもてないから、
秘密の匂いに今日も惑うのだろうか。(笑)
仕方ない。それが実情ですから。
「内在の平面」とドゥルーズがいうものが
ここでも稼動していることは間違いない。

(注)パセアルセは、ジョルジョ・アガンベンが
『絶対的内在』の中でスピノザにある概念として
示したもの。「自分を散歩につれてゆく」。

出来事

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ドゥルーズは何よりも「出来事の」思索家であった。
と、言ったのはデリダだ。そこでデリダは『意味の論理学』、
その中でのブスケに触れている。
第21セリーの「出来事」をさしている。

ぼくはここのところ、サイズA1の職人的プリントアウトに
熱中してきた。その表現は、行為は、やはり「出来事」で
ある。起点はあるように思えるが、それはここブログ表象での
言いにすぎない。触発されるからには僕に内在しなければ
ならないなにものかが介在する。

誕生と死のあいだが生なのではない。現働たる生は常に
変様に見舞われる。流れる現働が生であり、それもまた
生の継起にすぎない。
同じようにひきつった職人的プリントアウト!(笑)にも
起点があるかにみえて、それはそうではない。
僕に内在する閃光に亀裂が入り身体がとらえるのだ。

東京都写真美術館や福岡三越が招来の契機としても、
しょせんはちいさな外在にすぎない。
触発を受け僕が職人に「なった」のだ。

「出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、
意志されるべきもの、表象されるべきものである。」
『意味の論理学』(小泉訳)

出来事

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東京のホテルでのことだ。
大分県の温泉地で女性看護師が殺害された事件の犯人が
逮捕された、というニュースをテレビで知る。
1年前に僕は「出来事」という記事を記した。
この事件はずっと気がかりでいた。
ニュースの内容におもわず息をのむ。

犯人の男も同じころ神奈川県から出身地の大分に
向かったというのだ。知り合いを訪ねている。
天体の衝突のような「出来事」=萌芽はすでにここに
あるのか?(小泉義之)
カエサルの暗殺は何時完遂したのか?
紀元前44年のどこに起きたのか?(上野修)
それらの問いと同等のものです。

女性の「死」のどこかに内在的で、微分的な
いくらかの要因があるのだろうか?
男との出会いは、光を受けるのと同じだ。
外在であり衝撃の大きいスカラー値だ、と思う。
一方、男には人を殺める内在的なベクトルが、
触発されて暴力へと変様する情動が、
もともとあったといえるのだろうか?
意図をもって秘湯付近をうろついたとしても、
彼女と出くわすそのことは同じく外在ではないか。

スピノザはクモの合戦をおもしろがった、とある。
ハエをクモの巣に投げ込んでは戦うのを喜ぶのだ。
ハエにしてみれば、おのれの死は外から到来する。
見よ、死はこのように来る。
スピノザはそう言いたいのだろうか?
あるいはドゥルーズは。

人と人が、大分のある地点で「衝突」を果たす。
その「出来事」も何かしらの効果ではある。
が「死」を受肉した個体は自己への効果を
見届けることはできない。
ジョー・ブスケが、自らの「傷」を「運命」とみる、
そのようになすことはできない。
スピノザについての記事を多く書いてるなあ。
東京にもドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』を
バッグに入れていった。
そこで、
スピノザに興味があるお方、僕の選択はこうです。

1.スピノザ 『エティカ』(工藤喜作・斉藤博 訳)
(中公クラシックスW48)

2.上野修 『スピノザの世界 神あるいは自然』
(講談社現代新書)

3.ドゥルーズ 『スピノザ 実践の哲学』
(鈴木雅大 訳 平凡社ライブラリー版)

4.ドゥルーズ 『批評と臨床』の第17章
スピノザと三つの『エチカ』(守中高明・谷昌親 訳)

これらにはミスリードはたぶんないだろう、
そう確信しています。(笑)

コナトゥス 申命記

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主は荒れ野で彼を見いだし
獣のほえる不毛の地でこれを見つけこれを囲い、いたわり
御自分の瞳のように守られた。(申命記32章10節)

あたかも瞳を守るように「自分の自由な本性」を守る。
それがスピノザから学ぶ僕固有の「コナトゥス」であると思う。
今から遡れば25年位前のことだが、
さる同僚女史から「あなたはとりあえず自分を守るからね」と
おだやかに「直言」された経験がある。
他人にはえてしてこのように他者(僕)が見えるわけです。
僕の「コナトゥス」は生来のものでしょう。
スピノザの「実体」「属性」「様態」の概念をみれば、
「コナトゥス」は各個人に、自然に配分されていることがわかる。
つまりあなたも情動的に「コナトゥス」に従い、
自己の構成関係を生きている。間断なく。切断することなく・・
思い出話を付け加えれば、女史はさらに
「卒業式はすべてをきれいにするのね」と、のたまわった。
「学校の魔法」を彼女も知っていたのですね。(笑)

私たちは生きる。そして死ぬ。
死ぬことより、生きることが眼目であることは言うまでもない。
どのように生きるかをスピノザ的に認識することが
今日的にはきわめて重要だと僕は感じている。
そのうえで、ドゥルーズに倣い、情動を構成して生きるすべを
イメージするのです。アレンジメント(アジャンスマン)です。
すなわち「リゾーム」でしょう。
非暴発のしかしパラドックスを含む「リゾーム」です。


記事に無関係の絵。
大東京。六本木ヒルズより。正面が青山霊園。
右に国立新美術館。奥が御苑、神宮、そして雲の下は新宿副都心。
(横1536の拡大画像あり)

エチカ 第五部

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スピノジストならばみな『エチカ』を知っている。
ドゥルージアンはどうか?必ずしもそうではあるまい。
というのもドゥルーズ発明の(?)概念に気を奪われるがゆえに
たとえば「内在平面」、たとえば「リゾーム」に差し向けると
『エチカ』どころではなくなってくる、というぐあいで。

しかしとりわけ「内在平面」、あるいは「リゾーム」ですら
ドゥルーズに対するスピノザの仕業だとしたらどうだろう。
僕はそうだと思っているのですがね。

『エチカ』第五部はスピノザが後になって到達した成果である、
とドゥルーズは言っている。
では、第五部の定理四をおみせします。
OCRをしないでスキャンしてものをまるまる1ページ、
画像です。サムネールから拡大画像を「読んで」ください。
(工藤・斉藤訳)


定理四二まで続く第五部のはしりです。
自由でかつ幸福になるための第五部といわれている。

身体は変様する。感情という観念によって変様する。
しかし衝動や欲望が「なみはずれた」暴走へと突き進むことを
避けうる能動的な観念がある。(変様能力)
私たちが「出会い」のなかで自己を構成してゆくさまを
想起してみてください。私たちは「あいだ」にいて揺れています。
触発し、触発されるが「外部の原因を遠ざけ」たという経験は
あなたにもあるでしょう?
そんな構成関係こそ「コナトゥス」にほかならない、と
僕はひそかに(経験的にはずっと)思ってきました。
身体の変様。自身スピノジストのドゥルーズが
身体のアジャンスマンとしてこれに着目しないわけがない。

存在の一義性

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「存在の一義性」がドゥルーズの生の哲学の特徴
であるとはよく言われる。
それがスピノザから来たものであることもまた
通説となっている、と思う。
『スピノザ』(鈴木訳)の第4章「エチカ」主要概念集の
以下のような箇所はそれをよく示している。
//////////////////////////////

スピノザ説の独自性はどこにあるのだろう。
スピノザ自身のものではない心身並行論ということばが、
にもかかわらず彼にこそ厳密にあてはまるのは
どうしてなのだろう。

それは、スピノザにおいては、
身体と精神、身体的諸現象と精神的諸現象のあいだには、
ただたんに「秩序」の同一性
(〔両者の生起の秩序・過程の〕同型性[isomorphie])
があるだけではないからだ。
両系列のあいだには、さらに
〔それぞれの系列の現象の〕「連結」の同一性
(平等性[isonomie]ないし等価性[equivalence])がある。
いいかえれば延長と思惟、延長において起こることと
思惟において起こることとは位格的にも対等であり、
原理上の対等性をもつ。

いっさいの卓越性や超越性、
多義性に対するスピノザの批判によって、
この二つの属性は一方が他より優位に立つこともなければ、
一方が特に創造者たる神のものとされ、
他方が被造物やその不完全性と結びつけられることもない。
それゆえ身体の系列と精神の系列とは、
ただたんに同一の秩序をもつだけでなく、
対等の原理のもとに同一の連関をもって生起するのである。

最後にもうひとつ、両系列のあいだには、
さらに存在の同一性(isologie)がある。
同じひとつのもの、同じひとつの様態的変様が、
思惟属性においては精神という様態をとって、
延長属性においては身体という様態をとって
産み出されるのである。

//////////////////////////////
ここでいう延長にもさまざまな属性があり各属性には各様態が、
同様に思惟にもさまざまな属性があり各属性には各様態が、
つらなっている。それらの離接が
人の現働的なふるまいの中核となる。

そのようにふるまう存在をここに再現前化して示す
表象は可能だろうか?
それはちょっと無理でしょう。
ところで、
一般的な言いをすれば、厳密に規定せずとも
私たちはいとも容易に「同一性」を認め、
「再現前化」を果たしうる。
乱暴で突飛もない話だが、
還暦過ぎて中学校の同窓会に行ってごらんなさい。
厳密性は求められない。アルバムの中のこの子が、
今、この人なんだと疑うことなく同定できる。
ベルクソンを呼ばずとも済むことだし、
間主観性、オートポイエーシスで説明はつく。
日常はむしろ、擬似的であれ「同一性」を措定して収斂する。
おのずから回収へと向かう。

しかし本当にそうなのか?
(本当にこの子がこの人なのだろうか?)
(本当に回収されているのか?)
そこがうまく説明された、とは思えないのだ。

「一義性」をいいながらも、さらに属性・様態があり、
しからば、それらにもある一義性と、どう関係するのか?
うんぬんかんぬん。うーむ。収まりがつかない。
よってなお「概念の創造」=哲学が必要なのだろう。
諸氏や如何?

ポーラ美術館ほか

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ポーラ美術館のフジタを訪ねに行くつもりでいる。
震災のこともあって、一度は断念したのだが
きっかけができて、行くだろうことになる。
「きっかけ」はスピノザやドゥルーズ的にいえば、
複合・合一をみる構成関係が必ずある、ということだ。
「いい」出会いか「わるい」出会いかそれは不明だ。

さて、行くと決まり、改めてポーラ美術館を検索。
今回の企画展は「好評で延長」ということなのだが、
フジタの絵は規模縮小されてないよねえ?
ほんとに110点全部見れるのよね、などと猜疑心。(笑)
去年、横浜美術館で「ポーラ美術館展」をみてるので、
常設展には期待していない。
いやだなあ。これも意識のどこかに、「キュウハク」の
模写=源頼朝像の抑圧が作用しているね。
NHKは実物=平重盛像を前面に出して来館を呼びかける。
「作為」があるのがメディアなのに、ヒトはNHKを
こともなく信じる。「隠すために話す」と言ったのはアドルノ
でしたっけ?
まさに「キュウハク」は、模写=源頼朝像を隠すために
実物=平重盛像を押し出している。いやはや。
いかん、暗くなる。意識から追っ払って「いい」ものを
イメージしよう。(笑)
なにせ箱根は20代に行ったきりだ。たのしみ。
それに建物としての美術館にも大いに興味がある。

いろいろチェックして分かったこと。
ポーラ美術館は貸し出しが圧倒的に多い。
去年の横浜以外にも数十回他館の企画に合わせて貸し出しを
している。(リストがWebにあります)
こことか

ここは直リン

かつて僕が久留米の石橋美術館でみた古賀春江も
ポーラからの貸し出しだったのだ。なんと。
石橋美術館といえば、青木繁は東京のブリヂストン美術館の
「青木繁展」に行ってます。全部。
現在、久留米に出向いても青木繁には会えません。
もうひとつ。横浜美術館は「休眠」状態ですな。
「ヨココレ」も12月まではありません。


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地上の夜の天使たち