フロントランナー 桑田 佳祐

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 中空にサザンの歌が響くなか三年一組四十回跳ぶ

 「みんなでジャンプ」という詞書が添えられてあるから、体育祭での縄跳びの種目なのだろう。体育祭に合うサザンの歌ってなんだろう? アップテンポで乗りのいい曲なんだろね。これもまた20年以上も前のハナシだ。

 さて。「フロントランナー」の桑田 佳祐。食道がんから復帰してきた。(拡大画像アリ)

(NEX-7/E16mm F2.8 SEL16F28/SILKYPIX)

 (以下は記事から)―日本語に対する思いが深まってきたのはなぜですか。

 やっぱり、自分の『血』とか本音をリアルに歌えるのは日本語なんです。外人のマネばっかりじゃラチがあかない。新曲に対する褒め言葉として「いいメロディーですね」っていうのはあんまりなくて、「歌詞のこの部分が好き」っていうのが多い気がします。

 昔は妙に潔癖で、メロディーに対して歌詞があふれてしまう字余りがイヤだった。でも、自分が気にしているほど周りは気にしてない。ライブやテレビ番組で、岡林信康さんとか浅川マキさんの曲をカバーするなかで、多少は字余りでも聴いてくれる人の許容範囲なんだ、もうちょっと白由になっていいんだと思えた。しょうがない時は音符の数を増やせばいい。50歳過ぎてわかってきましたね。

 (引用終り)ふむふむ。桑田 佳祐の「生成」として考えてみる。出来事とか事件とかいうものはこのようなものではないか、と。これはやはり「点」ではなく「線」とみる。桑田 佳祐の数々の線が交差したところに「点」を指示することはできても、指したとたんに逃げて(消えて)ゆく。桑田 佳祐はこのようになったのだ・・。これを「日本回帰」といわずにおきましょう。「年齢」とか「日本人」とかいうことがいわゆる「主体化のプロセス」の問題とどのように関係するのか、正直僕はわからないでいる。フランス人には当たり前でも日本人にはどっこいそうはゆかない、ってことがあるのかも知れない。同じように若いときにはなかった情緒や論理が歳をとるとあらわれてくる、ということもあるのかもしれない。「年齢」とともに変異する様態、「日本人」としての属性、そういうことは当然あるでしょうから・・。

 「禅」には「主体化」を消去するようなところがある・・というようなことをフーコーだかドゥルーズだかに(あるいは双方に)読んだ記憶がある。やはり(はたして)そうなのだろうか? それほどたやすく「主体化」を阻めるものでしょうか? 禅の「主人公」というのは「主体化」のことではあるまいか。日本浪漫派閥的日本人!(なによそれ)にだってフランスの現代思想的「主体化」はあるのです、と思いたい・・。

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このページは、が2013年3月19日 21:03に書いたブログ記事です。

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