α7R あるいはドゥルーズ、フーコー

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 あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは、〈一つ〉を二重にすることではなく、〈他のもの〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ、それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。私は、外部で私と出会うのではなく、私のなかに他者を見出すのだ。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P180)

 ギリシャ人の新しさは、後に、ある二重の「離脱」にむけて現われる。それは、「自分自身を治めることを可能にする訓練」が、力関係としての権力からも、地層化された形態や徳の「コード」としての知からも離脱するときに現われるのである。一方に、他人との関係から派生してくる「自己との関係」があり、他方に、同じように知の規則としての道徳律から派生してくる「自己の成立」がある。この派生物やこの離脱は、自己との関係が独立性を獲得するということだ、と解さなくてはならない。それはあたかも外の関係が裏地を作り、自己との関係を生じさせ、一つの内を構成しようとして、自らを折り畳み、折り曲げるかのようだ。内は国有の次元にしたがって、陥没し、また展開するのだ。つまり「エンクラティア」〔克己〕、克服としての自己との関係は、「人が他人に対して行使する権力において、自分自身にむけて行使する一つの権力である」(もし、人が自身を統治しないとすれば、どうして他人たちを統治することを望めるだろう)。こうして自己との関係は、政治、家族、雄弁、遊戯、とりわけ徳などを構成する権力に対して「内的制御の原理」になるのだ。それは、ギリシャ的な鉤裂きと裏地のタイプである。つまり、このような離脱が摺曲や省察を実現するのだ。少なくとも、これがフーコーの理解したギリシャ人の新しさである。(ドゥルーズ『フーコー』宇野訳 P185)

 引用が長くなった。『フーコー』の終章の部分。とりわけ僕が胸を打たれた箇所。ドゥルーズは言う。

 ―『知への意志』に続く長い沈黙の間に一体何が起こったのだろうか。(中略)彼は『快楽の原則』の胸を引き裂く言葉にたどりつく。「自分自身から離脱すること・・・」―

 僕は他者に出会う。さまざまな機会をとらえ、他者とまじり合う。僕は他者のように生きる。そこにも複雑な権力関係が入り込む。「自己との関係」はその場所でこの僕自身を折り曲げ、裏地を張り、褶曲させ、省察に導く。これが「離脱」なのだ。だがこの「離脱」は死の陰を帯びている。僕は日夜(マジに)このテーマ群を反芻する。僕は老いた。ここを拠点として何の不思議があろう。

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このページは、が2013年12月 6日 11:16に書いたブログ記事です。

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