出来事

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ドゥルーズは何よりも「出来事の」思索家であった。
と、言ったのはデリダだ。そこでデリダは『意味の論理学』、
その中でのブスケに触れている。
第21セリーの「出来事」をさしている。

ぼくはここのところ、サイズA1の職人的プリントアウトに
熱中してきた。その表現は、行為は、やはり「出来事」で
ある。起点はあるように思えるが、それはここブログ表象での
言いにすぎない。触発されるからには僕に内在しなければ
ならないなにものかが介在する。

誕生と死のあいだが生なのではない。現働たる生は常に
変様に見舞われる。流れる現働が生であり、それもまた
生の継起にすぎない。
同じようにひきつった職人的プリントアウト!(笑)にも
起点があるかにみえて、それはそうではない。
僕に内在する閃光に亀裂が入り身体がとらえるのだ。

東京都写真美術館や福岡三越が招来の契機としても、
しょせんはちいさな外在にすぎない。
触発を受け僕が職人に「なった」のだ。

「出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、
意志されるべきもの、表象されるべきものである。」
『意味の論理学』(小泉訳)

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このページは、が2011年9月24日 07:18に書いたブログ記事です。

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