ドゥルーズ 旅

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 「旅」について。ドゥルーズの言。『記号と事件』でした。以下、自炊。(宮林寛 訳)

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旅をめぐる考察は、どうやら四つの考え方をたどっていくもののようです。その一番目はフィツツジエラルドに、二番目はトインビーに見出され、三番目はベケットに、四番目はプルーストにあらわれています。一番目の考え方が認めているのは、たとえ南の島に行ったり、広く聞けた空間を体験したりしたとしても、いつもの聖書を持参し、自分の幼年時記憶やふだんの言説をたずさえているかぎり、旅はけっして真の「断絶」にはならないということです。第二の考え方によると、旅はノマドの理想を追求しているけれども、この理想は無益な願望として生きられるということです。ノマドとは、旅人とちがってじっと動かない者のことであり、旅立つことを嫌い、自然条件にめぐまれない土地、中央地帯にしがみついた者のことだからです(あなたもここで、フアン・デル・コイケンの映画をとりあげ、南に向かうとかならず、いまいる場所にとどまることを望む人たちとすれちがうものだ、と書いておられる)。なぜそうなるかというと、ここで第三の特にうがった考え方、つまりベケットの考え方が出てくるわけですが、要するに「私たちは旅する楽しみのために旅をするのではない。私の知るかぎりではね。私たちは愚か者だとはいえ、旅を楽しむほど愚かではない」からです・・・。すると、つまるところ確かめる以外には旅をする道理を見出すことはできないのではないか。何かを確かめに行くこと。心の奥底から、あるいは夢や悪夢から流れ出してくる筆舌につくしがたいものを確かめること。たとえそれが中国人は俗に言われるほど黄色い肌をしているのか、あるいは緑の光線や、青と真紅の色に染まった大気のように、とてもありそうもない色彩が本当に存在するのかどうか、調べるだけでもかまわないのです。真の夢想家とは何かを確かめに行く人のことだ、とプルーストが述べているではありませんか・・・。

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 絵はα7s+kodak EKTAR 5cm3.5。モデルはフジカ35EE。文との関連なし。

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このページは、が2015年3月 1日 15:19に書いたブログ記事です。

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