ドゥルーズ=欲望

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欲望に主体はない。これはドゥルーズの持論です。
言表行為に主体はない。これもそうです。

ドゥルーズに縁がない人は驚くだろうと思う。
「欲望」と「言表行為」は精神分析の素材でもある。
それもきわめて重要な素材だ。
その「精神分析」をドゥルーズはさまざまな場面で
おおいに(?)批判している。
『アンチ・オイディプス』。『記号と事件』。
『ディアローグ』には第三章
「分析せよ死せる精神分析を」がある。

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子供ににおいてさえ、
諸々の作動配列(アジャンスマン)からなる
もろもろの政治しかない。
この意味であらゆるものは政治的である。
プログラムしかない、あるいはむしろダイヤグラムや
平面しかないのであって、記憶も幻想さえもない。
生成とブロックしかない。ブロックとは
幼少期のブロック、女性性のブロック、
動物性のブロック、生成の現働的なブロックのことであり、
記憶に関するもの、想像的なもの[想像界]、
象徴的なもの[象徴界]など何もない。
欲望は、形象的ではないのと同じように象徴的な
ものでもなく、シニフィアンでないのと同じように
シニフィエでもない。
欲望は相互に交叉し合い、結合し合い、あるいは
妨害し合う様々な線によって、内在平面の上で
しかじかの作動配列(アジャンスマン)を構成する
様々な線によってつくられるのだ。
しかしその平面は、当の平面を合成するそれらの
作動配列(アジャンスマン)に先立って、
その平面を描くそれらの抽象線の先立って
存在するのではない。
(『ディアローグ』第三章)
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過激ですね。
「精神分析」の批判です。このなかには
「ぼくの欲望」といってみたところで当のぼくの
主体性などないことを示唆しています。
また、「内在平面」(存立平面)がどのようなものか、も
垣間見えます。

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このページは、が2012年9月 5日 10:15に書いたブログ記事です。

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