今日のパセアルセ

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今日のパセアルセ(pasearse)

いつもの土手を歩き始めるが、
道に毛虫がうようよ。踏み潰されたのも多い。
ウラジロの葉を喰う虫がいる。
ここは今日は歩けない、と思う。
多くの人は気にするふうでもなく歩いている。
だが僕は毛虫アレルギー。よって踵を返す。

さて。そこから思いをめぐらせる。
もともと「散歩」には作用者と受動者の閾はない。
僕のイメージは毛虫に占められ、咄嗟に向きを変える。
そういうことだろう。
イメージ(イマージュ)の中で僕は作用者でもあり、
受動者でもある。そこでの主体(僕)は、主体としての
判断をして、身体は歩きの方向を転換する。

イメージの中で主体を獲得している。
主体の中に散歩のイメージがあり、それに呼応して
身体が運動しているの「ではない」。
この日の散歩の途上に生起した事実は、それを物語る。

同時に次のことが言えよう。
身体と精神が並行して運動していることである。
身体、についてはおわかりでしょう。
このからだ、形相です。
スピノザ的に言えば「身体の観念」が及ぶ形相、
ということかな。
精神は、まあ、観念でもいいし、思惟でもいいでしょう。
ここで厳密にすることはない。
だからイメージ、でもいい。

ふたつめ。
身体は表象されるもの、身体として刻印されたもの、
とスピノザはいうが
僕は非十全だから少し違うように感じるのです。
身体には秘密がある。精神にも秘密がある。
身体の秘密はまず身体によって隠されている。
また身体の秘密は精神によっても隠されている。
同じように、
精神の秘密はまず精神によって隠されている。
また精神の秘密は身体によっても隠されている。
そのように思う。
さまざまな属性には秘密のにおいがする。
パラドキシカルな継起、変様もそうだ。
そのような結節点において自己の構成を果たしている。

みっつめ。よってパセアルセは
オートマトンのある種の概念と似るかもしれない。
定かではない。
「十全な観念」(スピノザ)をもてないから、
秘密の匂いに今日も惑うのだろうか。(笑)
仕方ない。それが実情ですから。
「内在の平面」とドゥルーズがいうものが
ここでも稼動していることは間違いない。

(注)パセアルセは、ジョルジョ・アガンベンが
『絶対的内在』の中でスピノザにある概念として
示したもの。「自分を散歩につれてゆく」。

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このページは、が2011年9月29日 06:23に書いたブログ記事です。

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