概念的人物

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映画館を出たとき、
自分がいまみた映画のヒーローででもあった
かのような気分で歩いたことはありませんか?
そのとき実際にヒーローになっていたのだと
ぼくは思います。
内在する平面に「概念的人物」としてのヒーローが
顕れていたのです。
もちろん
映画のヒーローがそこに存在したというのではなく、
あなたがヒーローに成った、という具合にです。
ドゥルーズの言葉を引きましょう。

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しかし、概念的人物というものは、
ニーチェにおいても他の誰においても、
神話的擬人化でも、歴史上の人物でも、
文学あるいは小説の主人公でもない。
プラトンのソクラテスが、《歴史》に登場するソクラテス
ではないように、ニーチェのディオニュソスは、
神話に登場するディオニュソスではない。
生成〔~になる〕は、存在〔~である、~がある〕
ではないのであって、
ニーチェがディオニュソスに生成すると同時に、
ディオニュソスが哲学者に生成するのである。

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さてもうひとつ、「隠れた三人称」のこと。
「隠れた三人称」を証拠立てする例、
〈私は父親としてお前に話してるんだ〉・・
この場合《私》とは誰のことか?
「隠れた三人称」のことでししょうね。
だが「隠れた三人称」は概念的人物ではない、と
ドゥルーズは言っているのか?
どうもはっきりしないように読める。
「哲学的転位語」と言っている。
「父親として」が「愛するものとして」に転位すれば
(「仲介者」が代われば、ということ)運動は異なる。

「生成」と「転位」は同じようなものではないか?
つまり仲介者がいて
その者がとってかわって運動をなせば、
《私》はじゅうぶん「成って」いる。
よって僕の結論、以下のものたちは同じように
概念的人物の電荷を帯びている。
①映画館を出た男
②ディオニュソスに生成したニーチェ
③父親としてお前に言う私

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このページは、が2011年12月 1日 08:46に書いたブログ記事です。

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