ドゥルーズ 「哲学とは何か」
(拡大画像あり)
「教会がある日常」とかいうコンテストの記事をみた。
朝日の主催だから手前味噌にはなる。
僕にとって「問題」なのは
それらにちっとも感応しないことだ。
以前からそうなのだ。
ドゥルーズの言う「知覚のドア」まで連れてってもらえない。
全日写連的、とでもいうかそのテの絵に僕は
少しも勃起しないのです。不感症なのです。(笑)
芸術作品は、とドゥルーズは言う。
『芸術作品は、或る感覚存在であり、他の何ものでもない。
すなわち、芸術作品は即自的に存在するということだ。』
(『哲学とは何か』財津理訳)
その絵に立ち上がるものを感じないいじょう、
絵はその場で立ち枯れる。壊死する。
被知覚態、加えて変様態としての僕の皮膚に
侵入して欲しい。悦びを知りたい。が、それはない。
デジカメの普及でだれもが容易にシャシンが撮れる。
それらをブログに、置き場に、twitterに、Flickrに・・と、
ふんだんに展示できる。とてもいい時代だ。
むろん、コンテストに入賞することはうれしいことだ。
「よかったね!」。賞賛、それは惜しまない。
だが私たちが望むのはやはり「知覚のドア」を
押し開く絵をものにすることだ。
ことほど左様に手に入るものではない、とも言える。
あるいはいまここの卓上にそれがある、とも言える。
諸氏や如何?