ロレンスとパトモスのヨハネ

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ドゥルーズの『批評と臨床』には
珠玉の論考がちりばめられている。そのひとつが第6章の
「ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ」である。
僕は高校生の時分に聖書に親しんで、
ついにはバプテスマを受けたくらいだから
聖書の熱心な読者であった、といってもいいだろう。
『ふしぎなキリスト教』がすこぶる痛快だったのも
僕のそうしたキャリアにもよる。
この第6章がお気に入りなのも、
『ふしぎな』の場合と根は同じなのです。
お断りしますが、ロレンスの
『黙示録論』については不知です。
ドゥルーズだけに準拠してます。
まずは冒頭から3ページ分全部あげますね。
気になる人は読んでみてください。
ロレンスもニーチェもドゥルーズも
キリスト教のまがまがしき秘密の胚に触れる。
凡庸な「信者」には姿を見せない核心がある。
見過ごすどころか、凡庸な「信者」には影さえ見えない、
そんな核心なのだ。
「キリスト教にはイエスはいない」
そんなふうにも思えてくるのだ。

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それは同じ者ではない、同じ者でありえるはずがない・・。
福音書と黙示録を書いたのが同じヨハネかと問う学問上の
議論にロをさしはさんだロレンスは、そう述べる。
ロレンスはきわめて情熱的に論拠を出してくるわけだが、
そこまで強く言い立てるのは、評価方法、
つまりは類型法がからんでくるからだ。
福音書と黙示録を書いたのは同じ類型の人間ではない。
だからといって、両者の本文のそれぞれが
複雑だったり複合的だったりするとか、
結果的に違うことをいくつも作りだしている、
というわけではない。
問題となっているのは、二人の個人、二人の著者ではなく、
二つのタイプの人間、魂の二つの領域、
まったく異なる二つの集合なのである。

福音書は貴族的、個人的で、甘く、愛情にあふれ、
退廃的で、まだかなり教養に満ちている。
黙示録は集合的、大衆的で、教養とは無縁で、
憎悪に満ち、野蛮だ。
誤解を避けるために、こうした言葉の一つひとつを
説明しておくべきだろう。だが、すでに福音書の著者と
黙示録の著者は同じではありえなくなっている。
パトモスのヨハネは福音書の著者の仮面をかぶる
ことすらできないし、キリストの仮面もかぶれず、
もう一つ別の仮面を作り上げる、
もうひとつ別の仮面をでっちあげ、それは、
われわれの好み次第で、キリストの正体を暴いたり、
キリストの仮面に重なったりするものとなるのだ。
福音書とキリストが人間的な愛や
宗教的信仰への愛に磨きをかけていたのに対し、
パトモスのヨハネは宇宙的な恐怖と死のうちで
仕事をする。
キリストは愛の宗教
(信仰ではなく、一つの実践、一つの生き方)を
創り出したが、黙示録は権力の宗教―一つの信仰、
一つの恐ろしい裁き方―をもたらす。
キリストの恵みに取って代わる、無限の負債。

ロレンスの文章は、もちろん、黙示録を読んだあと、
あるいは再読したあとに読むほうがいい。
そうすれば、黙示録の今日性、
ひいてはそれを告発するロレンスの今日性を
理解できる。
この今日性は、ネロ皇帝=ヒトラー=反キリスト者
といった類の歴史的照応に存するのではない。
かといって、核や経済や環境の分野で
SF的なパニックを引き起こす世界の終わりとか
千年説に存するのでもない。
われわれが黙示録に浸りきっているのは、
むしろ、黙示録がわれわれの各人のうちに生き方、
生き残り方、裁き方を吹き込むからだ。
それは、自分は生き残りだと考える者一人ひとりの
ための書物である。ゾンビのための書物なのだ。

ロレンスはきわめてニーチェに近い。
ニーチェの『反キリスト者』がなければロレンスの
著作も存在しえなかったと仮定できるほどだ。
しかしニーチェ自身も開拓者だったわけではない。
スピノザでさえ違う。
幾人かの「幻視者」が、キリストは愛する者なのに、
キリスト教は死の企てだと対比させた。
彼らはキリストに対して特別の好意を抱いて
いるわけではないが、キリストをキリスト教と
混同しないようにする必要を感じている。
ニーチェにおいては、キリストは聖パウロと
まっこうから対立している。キリストは、
古代ローマ退廃期の人びとの中でも最も優しく、
最も愛情に充ちた人間、いわば仏陀のような存在で、
われわれを祭司による支配から解放し、
誤り、罰、償い、審判、死といった観念のいずれからも、
そして死のあとに来るものからも
われわれを自由にしてくれた―こうした福音の人に、
キリストを十字架の上にとどまらせ、
絶えず十字架に戻しては蘇らせ、
永遠の生についての重心をそっくりずらし、
以前の祭司よりさらに恐ろしい新しいタイプの祭司を
創り出す黒き使徒の聖パウロが二重写しになってくる。
「祭司職の専横を基にした彼の技術、
人だかりを作り出す彼の技術、要するに不死の信仰、
つまりは審判の教理」。

ロレンスも対立を取り上げるが、
彼の場合はキリストを、黙示録の作者である赤き使徒、
パトモスのヨハネに対立させるのだ。
これはロレンスにとって死を招く書となるが、
というのも、喀血で真っ赤に染まる彼の死に先立つこと
わずかな時期に書かれたのであり、
それは『反キリスト者』がニーチェの精神的瓦解の
直前に書かれたのと同じだ。
死ぬ前の最後の「喜ばしきメッセージ」、最後の福音だ。
ロレンスがニーチェを模倣したと言いたいわけではない。
むしろ彼は矢を、ニーチェの矢を拾い、
別の場所で違う方向に向け、異なる彗星をめざし、
別の公衆に囲まれてもう一度射る。
「自然は哲学者を人類の中に矢のように送り込む。
どこかを狙っているわけではなく、
矢がどこかに引っ掛かったままでいることを望む」。

ロレンスはニーチェの試みを繰り返すが、
標的を聖パウロではなくパトモスのヨハネに据える。
最初の試みと二度目の試みでは多くのことが
変わっていたり、補い合っていたりするが、
共通のものが積み重なって力を増し、新しくなるのだ。
キリストの試みは個人的なものだ。
個人は、それ自身では、集団とそれほど対立する
わけではない。だがわれわれ一人ひとりのうちで、
魂の異なる二つの部分として、
個人性と集団性が対立するのである。
ところが、キリストはわれわれのうちにある集団的な
ものにはほとんど訴えかけない。
彼の問題は「むしろ祭司職=旧約聖書の集団的体系、
ユダヤの祭司職とその権力の集団的体系を
解体することだが、それはただこの不純物から
個人の魂を解放するためである。
皇帝はといえば、
キリストは彼にその取り分を残すだろう。
その点においてこそ彼は貴族なのである。
彼は、個人の魂の錬磨をすれば、
集団の魂の中に埋もれた怪物を
追い出すのに充分だろうと考えていた。
誤った策だ。集団の魂との関係、われわれの外にせよ、
内にせよ、皇帝との関係、われわれの内にせよ外にせよ、
権力との関係を自分自身で切り抜けるように、
彼はわれわれに仕向ける。
この点に関し、彼は使徒や弟子を失望させ続けてきた。
彼はわざとそうしているのではないかとまで思えてしまう。
彼は主人になろうともしないし、
弟子を助けようともしない
(彼らを愛するだけだ、と彼は言っていたが、
その裏には何が隠されているのか?)」。

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このブログ記事について

このページは、が2011年12月 7日 14:37に書いたブログ記事です。

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